学習通信070104
◎外面的勝気さ……

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「祇園精舎」の意味

 この「祇園精舎」こそ、『平家物語』の冒頭を飾る有名な一段だが、ここには二つのテーマがあるように私は思う。
 一つは、誰でもがいう美しい無常観(または感)である。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者じょうしゃ)必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵に同じ。

 本文でいえばたったの二行半だが、世に『平家物語』というと、ただこの二行半をのみ思い浮べる人の数が相当多いのではないか。それは何よりもまず文体の持つ美のゆえにだと思うが、いま一つ、この二行半を貫いている無常観(または感)に現代人も、強者は強者なりに、弱者は弱者なりに、そして中ぶらりんの者は中ぶらりんななりに、意識的にというよりむしろ無意識的に惹かれるところがあるからではないか。どんな英雄も豪傑も、いずれは滅んで死んで行ってしまう。人の世はそういうはかないものだ。──という、誰がどう否定しようもない真実の感覚が、ここには流れている。

 だが、当時の人々には、この真実は感覚というよりそのまま現実であったろう。

ただしここで当時というのはやや漠然としていて、『平家物語』の原作とされる『治承物語』や『平家』の異本『源平盛衰記』や(ついでにいえば『十訓抄』や)の書かれた鎌倉時代前半期のことでもあり、それらの作者たちがふり返って眺めたものとしての、それより一世紀ほどを遡(さかのぼ)る源平時代のことでもある。

後者のことをいえば、それはあの『愚管抄』の著者、保元の乱の前年に生れて頼朝の死の年(つまり『平家物語』の扱う最後の年)より二十六年あとまで、実朝暗殺の六年あとまで生きた慈円(一一五五〜一二二五)が、「末ノ世」、「末代ザマ」、また「末代悪世、武士ガ世ニナリハテ、末法ニモイリニタレバ」と呼んだ時代である。

当時の乱世にあって、諸行無常という仏法思想は、階級の上下を問わずいつわが身の上に起るか分らぬ現実であり、従って普通の誰でもが抱く思想であり、従っていわば悲惨な常識であったといっていいのではなかったか。

 そして、右に引用の二行半にすぐ続いて、内外の無常の実例が挙げられるが、それらはこれから、『平家物語』の中心人物としてその実体を論じようとする平家の棟梁、巨大な清盛をもっぱらクロース・アップする材料である。すなわちまず、

遠く異朝をとぶらへば、──

として外国(中国)の、結局は亡じた四人の権臣、次に

近く本朝をうかゞふに、──

として将門以下の日本の、結局は滅んだ四人の巨魁のただ名前を挙げ、以上をマクラに振っておいて、これらの者どもにしても、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前(さきの)太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝(つたえ)承るこそ心も詞(ことば)も汲ばれね。

 その巨人の実体をこれからつぶさに書いてやるぞ、と、ここで作者はあたかも宣言しているかのようである。それを一般化していうと、たしかに、どんな人だっていずれは死ぬ。それが人の世のさだめである。

だが、そのさだめを前にして、いろんな人がいろんな生きかたをした。そのさまざまな生きかたを、まずよく見てみようではないか。歴史の上に名をとどめているほどの人びとは、とにかくみな全力を尽して生きてきたのだ。その生きかたが、ある人の場合は無理な、わがままな、良くないものであったかも知れぬ。またある人の場合は、正しく、美しく、見事なものであったかも知れぬ。またある人の場合は……

 いずれにせよ、人はどうせ死んで行くはかないものであるには違いないが、しかし、良い人にせよ悪い人にせよ、必死に生きたそういう人びとの生きかたを、また、そういう生きかたがからまりあってつくりだされた歴史というものを、私たちはよく見てみようではないか。それを描こう、という表明が、この序章の持つもう一つのテーマだと私には思われる。

 お互いにからまりあって『平家物語』を構成する二つのテーマが、このわずか四〇〇字詰原稿紙一枚半にも充たぬ序段の中に、鮮やかに描かれている。そして前者、諸行無常≠フテーマは、時として後者の轟音(ごうおん)に消されながら、しかし決して消えぬ強靱な通奏低音として、常に響き続けているといっていいだろう。

 『平家物語』をこういう作品だと思って読んで行くと、私たちにはいろんなことが見えて分ってくるだろう。

例えば人間が生きて行く上で、何が良いことか、何が悪いことか、また人間にとって真実とは一体何なのであるか、というようなことが見えてくるだろう。生きて行くことのむずかしさも、大切さも、面白さも分ってくるだろう。

そして、どうせ死ぬんだからいいかげんに日を送ろう、ではなくて、人間、一度は死ぬのだからこそ、生きている間の日々を充実させ、全力を尽して生きてみよう、と考えるようになるだろう。

 私は、そういう見方に立って『平家物語』を読む。そこでこの物語の中から、全力を尽して生きた何人かの人々を選び出して来て、その人々の生きかたを、物語の作者と一所に、よく見てみようと思う。
(木下順二著「古典を読む 平家物語」岩波現代文庫 p27-31)

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一九三九年三月二十四日 巣鴨拘置所の顕治から目白の百合子宛

 第十七信。十八日、十九日附の手紙、昨日四時前入った勉強のこと全くある興味の深まりなしには充分身に付かないのは、その通りだ。自転車が進むのに一定速度がいること、語学のマスターには、或る程度以上の読破が不可欠なのと似ている。文章を一度宛区切って音読しては、よく意味が通じないこととも。

一日十頁前後は、一日十時間位労働した人が、わずかの時間で取り付く場合以外は、甚しいスロウテンポだ。一日三十頁最小限というのは、書く場合との併行をも考えてのことだから、普通は、百頁位が勉強という言葉に相応しい。うんと頑張れば、二百頁以上も決して処理ではない。

小説と違って、殊に翻訳を通じて読む場合、一句の端まで分りかねる場合があっても、大体の意味を了解して全巻を読破することに務める方が結局有意義だ。

ユリの手紙をよみ、何と科学の文学的読み方だろうと微笑するところが多い。だんだん科学そのものが身について面白くなるといいね。

婦人の多くがいい加減のところで成長止りとなるのは、主体的増上慢と、生活の狭さ、低さの交錯だとは正しい。それをはっきり示すことの出来る環境がないのが普通だから。

家庭生活などに沈んだりして了って、しかも大抵、一方より「女史」の方が「権威」を持っていたりして。気体めや気焔だけでなく、自身の一定期間の勉強の量質を反省することは誰にも大切だ。

十年間の作品の量、作家という名に価するためには、これはどうか等未熟さを外的時聞の不足に求めるのは、やはり外面的勝気さが多く、ある不自由の条件は却って作家の内的貧富となっているわけなのだから、それがその後盛り上って生かされてないのは、自身の未熟さに基くものだ。

それぞれの人の資質や可能性以上のものを、遙かに以上のものを求めるのは無理だが、資質をみがくことを務めることと、自己の成長について謙虚な反省をもつことは誰にも出来るし、期待してよいものだと考える。これは修業で充分到達できるものだ。

二様三様の最高最良の開花を現実に見ないからといって非難するのは誰に向っても見当違いだが、その人間としての力一杯の努力とその思い上らない省察は必ず出来る。

作品の世界、創作の対象は無限に広いとのことも、作家の眼の高まり広まりとともに実際上納得される性質のもので、直接的経験或はその若干のヴァリエーションに取材する以上に、古今東西の題材にリアリティを築くことの出来ることも、進歩する作家としては当惑に了解できることだろう。

パールの作品をよんで感じることは、限界性はあっても彼女の文化科学的知識が作品の世界の広さの一つの有力な根拠となっているということだ。正しい広い知識の力、科学の導きなしに、今日の作家は複雑多岐な現実を縦横に描き尽すことは困難である。大抵の作家は直接的見聞の世界すら解明するに骨折れる現状だろう。ユリの日々の宿題も、こう考えると、直接生活の収穫であることがよく分るね。

 隆治から昨日も葉書が来た。相変らず彼らしい素朴さで。お久さんも勉強、その他いろいろ多忙だね。家のことも困難であるだけ考え甲斐があろう。

『ロダンの言葉』の手紙は感じ深く読んだ。自然の深い能力、それを描く芸術の同じく深い能力。

達治への来月分の本の中、『事変の知識』『抗日支那の解剖』等良いだろう。寿江ちゃんは元気でやっているかな。ノミに食われて。本明日七冊、目録二部送る。目録は入らない分。

 だんだんいい陽気となる。食慾をたかめ、着実に丈夫になりたい。金原の本二冊注文した。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 上」筑摩叢書 p153-155)

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◎「人はどうせ死んで行くはかないものであるには違いないが、しかし、良い人にせよ悪い人にせよ、必死に生きたそういう人びとの生きかたを、また、そういう生きかたがからまりあってつくりだされた歴史というものを、私たちはよく見てみようではないか」と。