学習通信060925
◎「ラクダが針の穴を通る」……
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しかし、「教養ある」イギリス人がこういう利己心を、それほど公然と見せびらかせていると考えてはならない。逆に彼らはそれをきわめて卑劣な偽善で隠している。
──なんだって、イギリスの金持が貧乏人のことを考えていないだって、彼らはほかのどんな国にも見られないような慈善施設をつくったではないか?そうだとも、慈善施設をね!
彼らはうぬぼれたパリサイ人のようなお恵みの心をプロレタリアにむけ、また搾取された人たちが当然手にいれるべきものの一〇〇分の一でもその人びとにかえすなら、世間にむかって人類の最高の慈善家のような顔をしているのだが、こういうことをするためにまずプロレタリアの血までしぼりとって、それでまるでプロレタリアのためにつくしているかのように考えているのだ!
それは、それをうけとるもの以上に、それを与えるものを非人間的にする慈善であり、ふみにじられた人びとにいっそう深い屈辱を与える慈善であり、社会から追放され、非人間化された賤民にたいして、まずお前たちの最後のもの、つまり人間としての主張を捨て、まずお恵み下さいとお願いしろ、そうすれば、施しものをして非人間というスタンプを額に押してやるだけのお恵みの気持をもってやろうという慈善である!
だが、これらすべてがいったいなんであろう。
イギリスのブルジョアジー自身に聞いてみよう。『マンチェスター・ガーディアン』紙で、編集者あての次のような手紙を私が読んでから、まだ一年もたっていない。この手紙はまったく当然の、筋道のとおったものとして、いっさい注釈なしに掲載されたのである。
編集長様!
しばらく前から、私たちの町の大通りでたくさんの乞食に出会います。彼らはぼろぼろの服を着て、病人のようなふりをしたり、むかつくような傷や不具の身体をわざと見せたりして、しばしば非常に恥知らずに、しっこく、通行人の同情をひこうとしています。
私たちは救貧税を払っているだけでなく、慈善施設へも多額の寄付をしているのですから、こういう不愉快な恥知らずなわずらわしさから保護される権利をもつだけのことはしたと思います。
もし警察が、私たちが安心して市に出入りする程度の保護さえしてくれないのなら、私たちはなんのために市の警察の維持費にこんなに高い税金を払っているのでしょうか? ──この手紙が多くの人に読まれている貴紙に掲載され、それがきっかけとなって市当局がこういう厄介もの(nuisance)をとりのぞいてくださることを希望しています。
敬具
一淑女
ごらんのとおりだ! イギリスのブルジョアジーは打算的に慈善をするのだ、彼らはなにもただでは与えない、彼らはお恵みも商売だと思っている、彼らは貧民と取引をし、そしてこういう、私が慈善目的にこれだけをむけるとすれば、それによって私は、これ以上わずらわされないという権利を買うのであり、お前たちの方は、自分のうす暗い穴ぐらでじっとしていて、お前たちの貧しさを見せびらかしながら私の繊細な神経をイライラさせないようにする義務があるのだ!
お前たちは絶望するならするがよい、しかし静かに絶望すべきなのだ。このことを私は契約する。このことを私は病院へ二〇ポンドを寄付して買いとったのだ!
おお、キリスト教徒であるブルジョアのなんという恥知らずな慈善よ! ──しかも「一淑女」がこう書いているのだ。そうだ、淑女なのだ。彼女がこのように署名したのはたいしたものだ。
幸運にも彼女は「女性」と名のる勇気はもはやない。しかし、もし「淑女」がこんなふうであるとすれば、「紳士」はいったいどうなのだろうか? ──それはたった一つの例ではないかと、人はいうだろう。しかし、けっしてそうではない。
この手紙はまさにイギリスのブルジョアジーの大多数の気持をあらわしているのである。そうでなければ編集者はこれをとりあげなかっただろうし、なんらかの反論がつづいたであろう。私はその後の号で反論をさがしてみたが無駄であった。
そして慈善の行為の効果については聖堂参事会員のパーキンソン自身も、貧民はブルジョアジーによる救済よりも貧民同士で助けあうことの方が多いといっている。
こういう立派なプロレタリアによる救済は、彼が自分自身飢餓とはどんなものかを知っており、乏しい食事の表を犠牲とし、しかもよろこんで犠牲にしているのであって──こういう救済は、満腹しているブルジョアが投げてよこす施し物とは、まったく違ったひびきをもっているのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 -下-」新日本出版社 p131-134)
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インタビュー 領空侵犯
金はもうけて、使うもの
清貧より「清富の思想」
作家 加藤廣氏
(かとう・ひろし)30年生まれ。東大法卒、中小企業金融公庫に入り京都支店長や調査部長を歴任。山一証券経済研究所顧問などを経て、95年経営コンサルタントとして独立。05年小説「信長の棺」で作家デビュー。東京都出身。
──清貧という言葉がお好きではないそうですね。
「『清貧の思想』を著した中野孝次さんへの批判ではありませんが、基本的に清貧はありえないと思っています。
『帰りなんいざ 田園まさに荒れんとす』という帰去来の辞で知られる陶淵明は、日本では清貧の代名詞のようにいわれます。しかし、現実はずいぶん違うようです」
「雨戸が破れ、風が吹き込むようなところで、食料も事欠いた状態でぶつぶつと人生を嘆いていたんじゃないか、友人からの借金も返せなくて苦しんでいたのではないか。そんな現実を顧みずに、知識人や金持ちが安易に清貧を語るのは抵抗があります」
──清貧というのは豊かな人も清く生きろという意味ではないのですか。
「それならば清富というべきです。私も若いころひそかに勉強し、毎月、株式投資で勤務先の給料以上のお金を稼いだことがあります。証券会社も私が選ぶ銘柄に注目し、他の顧客に勧めていたほどです。これ以上続けると自分がダメになると思い、二年間でやめましたが、お金もうけは悪くないと思います」
「ただ、使える分以上はため込まないのが基本です。チャップリンが映画『ライムライト』で、人生に必要なのは愛と勇気とサムマネーだと話しています。日本に昔からある『天下取っても(飲めるお酒は)二合半』という感覚も好きです。作家稼業では蓄財も知れていますが……」
──「清富の思想」で大事なことは何でしょう。
「お金があっても使うときには、社会に役立つようにきれいに使うことです。ひところ一部のネット企業がプロ野球球団の買収に走ったことがありました。そんなことよりも、なぜ経営が困窮していた日本の自動車会社を買わなかったのか、残念です」
「江戸時代の大工の棟梁(とうりょう)は一度身につけた
下着を二度と使いませんでした。よく洗濯し、部下に渡したんです。ぜいたくと言えばそれまでですが、それが棟梁という職業の誇りであり、大勢の部下も喜びました」
──米国では大富豪のウオーレン・バフェット氏が数兆円の個人資産を慈善団体に寄付をしましたね。
「鉄鋼王カーネギーも世界中に巨額の寄付をしました。キリスト教の世界では金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも難しいという教えが浸透しています。だから天国に行くために、資産家は社会に還元する方法をいろいろと考えるのですね」
「大病すればわかるでしょうが、お金は来世まで持っていけないのです。もうけたお金をきれいに使うことを日本人は忘れすぎています」
(日経新聞 2006.9.25)
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「それは、それをうけとるもの以上に、それを与えるものを非人間的にする慈善であり、ふみにじられた人びとにいっそう深い屈辱を与える慈善であり、社会から追放され、非人問化された賤民にたいして、まずお前たちの最後のもの、つまり人間としての主張を捨て、まずお恵み下さいとお願いしろ、そうすれば、施しものをして非人間というスタンプを額に押してやるだけのお恵みの気持をもってやろうという慈善である」と。