学習通信060922
◎土地をうばわれて無一物……
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しかし、そうする前に、つぎのことが問題にされるかもしれない。
市場には〔一方には〕土地、機械、原料および生活手段──自然のままの状態にある土地以外は、これらはすべて労働の生産物である──を所有する買手の一組がおり、他方には、労働力、すなわち労働する腕と頭のほかには売るべきなにものをももたない売手の一組がいるという、この奇妙な現象は、どうしておこるのか? 一方の組は、利潤をあげ自分を富ませるためにたえず買い、それなのに他方の組は、その生計をたてるためにたえず売っているという、この奇妙な現象は、どうしておこるのか?、と。
この問題の研究は、経済学者たちがそれを「先行的または本源的蓄積」とよんではいるが、本源的収奪とよばれるべきものの研究になるであろう。
われわれは、このいわゆる本源的蓄積とは、労働する人間と彼の労働手段とのあいだに存在する本源的結合の解体をもたらした一連の歴史的過程のほかにはなにものをも意味しないということを、見いだすであろう。
しかしこうした研究は、私の当面の主題の範囲外にある。労働する人間と労働手段との分離がいったん確立されると、こうした状態は、生産様式における新しい根本的な革命がふたたびそれをくつがえして、本源的な結合を新しい歴史的形態で再建するまでは、それ自身を維持し、たえず規模を拡大しながらそれ自身を再生産するであろう。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p142-143)
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徳川封建制度の崩壊と資本主義の夜あけ
封建制度の土台をつきあやぶる力
日本の資本主義も封建社会のなかからうまれ、日本の労働者も主として封建社会の農民と手工業者からうまれました。それは、いまからおよそ一〇〇年まえ、明治維新(一八六八年)のころからです。
徳川幕府をたおして、あたらしくうまれた明治政府は、その支配をつづけるためには、資本主義へのみちをきりひらかねばなりませんでした。
それは、第一に、徳川の封建社会の胎内に、すでにふるい封建制度を内部からつきやぶる、あたらしい力が芽生え、成長しつつあったからです。
封建社会では、支配階級である将軍や諸大名はかれらの家臣団をしたがえ、武力で農民をおさえつけて、農民を「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほどでるものなり」といって、「生かさぬよう殺さぬよう」ぎりぎりまでしぼりあげました。農民がやっと生きていけるだけのもの以外は、その生産物いっさいを年貢としてとりあげました。この米づくり経済を維持するために、支配階級は、一六三〇年代から外国との通商や交通を禁じ(鎖国政策)、農民には耕作に精をださせるために、土地からはなれたり、作物を自由にえらんだりすることをゆるさず、酒やお茶をのむな、木綿以外の着ものをきるなと衣・食・住にいたるまで干渉して、奴隷のようにおさえつけました。
しかし、そのような支配がつづくなかで、大名とその家臣団は、まったく生産からはなれてぜいたくな消費一方の生活をおくるようになり、とりあげた年貢を売って、消費物資を買うようになりました。一方、農民も生産力が発展して剰余生産物をうみだすようになり、売るために作物をつくる、つまり、生産物の商品化(野菜から綿、菜種、養蚕など)がはじまりました。
そして、農業から手工業がわかれて独立し、富農や商人のなかがら、はじめは農村家内工業の製品を買いあつめ、これを売ってもうける買占め商人が、そのつぎには、わずかの原料を前貸して、農家がもっている道具で加工させる前貸問屋、さらにすすんで、原料も道具もあたえて農民には労働力を提供させ、低い賃金をはらって製品をひきとる、事実上の賃労働と資本との関係があらわれました。
のちには、絹織物、藍、鋳物紙、酒などの生産のように、おおぜいの周辺農村からの労働者を一つの作業場にあつめて分業化させる、工場制手工業(マニュファクチュア)もあらわれました。これらの富農や商人は、同時に、農民や手工業者を相手とする高利貸でもありましたが、諸大名が財政的な危機におちいった徳川時代のおわりごろには、三井や鴻他のように、諸大名の台所までまかなう実力をもつものもうまれました。
こうして、封建社会の胎内に、経済活動の自由をもとめて、内部からその枠をうちやぶろうとするあたらしい力が頭をもたげてきたのです。
外国資本主義の圧迫が外からくわわった。
明治政府に新本主義への道を取らせた第二の要因は、欧米資本主義による外部から圧迫でした。
当時、欧米諸国はすでに資本主義の自由競争の時代から独占の時代、植民地分割の時代にすすもうとしており、商品の市場や原料資源をもとめて、きそって未開のアジアヘ進出してきました。日本にたいしても、すでにロシアが、一七九二年に北海道の松前へ、一八○四年に長崎へ使節をおくって開港をもとめましたが、そのごイギリス、アメリカ、フランスが相ついで開港と貿易をもとめてきました。
三〇〇年間も天下泰平で、鎖国の夢をむさぼってきた支配階級のなかでは、これを武力でおっぱらうか、港をひらいて貿易するかで意見がまっ二つにわれ、これに徳川幕府をたすけるか(佐幕)、たおすか(倒幕)のあらそいがからんで、対立がはげしくなるばかりでした。そこへ、ひどい搾取にたまりかねた農民や都市の無産市民の一揆やうちこわしがおこって、封建制度の土台をゆりうごかし、とうとう徳川幕府はたおれたというわけです。
ですから、あたらしく政治権力をにぎった明治政府も、このまま、ふるい封建制度にしがみついているならば、とうてい支配をつづけることはできないし、また、外国資本主義のために半植民地にされるという危険なせとぎわにたっていました。
そこで、この内外の危機をきりぬけるためには、どうしても、上から「富国強兵」「殖産興業」をはかって、資本主義的な変革をすることが必要でした。
「ブルジョアジーは、すべての生産用具の急速な改善によって、また、無限に容易になった交通によって、あらゆる民族を、もっとも未開な民族までも、文明にひきいれる。かれらの商品の安い価格は、中国の城壁をもことごとくうちくずし、未開人の頭固きわまる外国人ぎらいをも降伏させる重砲である。ブルジョアジーは、すべての民族に、滅亡したくなければ、ブルジョアジーの生産様式を採用するように強制する。……一言でいえば、ブルジョアジーはじぶんの姿に似せて一つの世界をつくりだすのである」、
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』のなかで、こうのべていますが、明治政府も「滅亡したくなければ、ブルジョアジーの生産様式を採用」しないわけにはいかなかったのです。
資本主義と労働者の生いたち
地租改正と山林原野の「かこいこみ」
さて、明治政府は、日本の資本主義の土台をつくるために、計画的に国家権力をつかって一方で資本を、他方で大量の労働者をうみだしました。明治政府が資本主義をつくりだすためにとった主な手段は、つぎの三つでした。
第一の手段は地租の改正(一八七三年、明治六年)と山林原野の「かこいこみ」でした。
徳川時代には米その他の現物で年貢をおさめていた農民は、明治政府になってから現金でおさめることになりました。また、明治政府は地租を地価の三パーセント、ちょうど収穫の二分の一ていどになるようにきめました。そして、この地租を土地所有者からとりたてることにしました。こうして、地主は、地租とじぶんの取り分との合計を小作料として小作農民からとりたてることが国家によって保障されました。
このために農民の生活はますます苦しくなり、口べらしのため働きにでたり、一家をあげて離村するものがふえました。また、小農や貧農はお米がとれたとき以外は現金がありませんから、税金をはらえない農民が数十万人もうまれ、政府は税金のカタ(担保)に土地を差し押さえて競売にしましたから、お金のある地主は、ますます、土地を買いあつめ、土地を地主や高利貸にうばわれる農民もふえました。
こうして、土地を競売にされた農民の数は、一八八三年(明治一六年)には三万四〇〇〇人、八四年には七万人、八五年には一〇万人、八六年には六万余人、八七年には三万五〇〇〇人、九〇年には四万人、九一年には六万七〇〇〇人というありさまで、一八八四年から八六年の三年間に、農家の数は四三二万八五四三戸から三八〇万九七八三戸へと滅りました。
明治政府は、地租改正とあわせて、旧幕府や大名がもっていた広大な山林原野と、持主のはっきりしない土地、山林原野を、いっさい、ただで天皇と国家の手にまきあげました。そして、一九○○年(明治三三年)までに、全国の山林面積の七〇パーセントまでを国有林と御料林(天皇所有林)にし、とりわけ、木曽の檜、秋田・高知の杉なぞ、いちばんゆたかな美林を天皇家のものにしました。
そのため、農民は、いままで、村じゅうや数か村が共同して薪炭材をとったり、下草を刈ったり、材木をきっていた入会地をうばわれ、いっそうくるしくなりました。
同時に、この山林の「かこいこみ」は大地主としての天皇の経済的な土台をつくり、日本の農業が近代的に発展したり、牧畜その他に土地が利用されることをさまたげ、農民を猫のひたいほどのせまい田で、米づくり中心の農業にしばりつける役目をはたしました。
秩禄(ちつろく)処分と紙幣の発行
第二の手段は、秩禄処分といわれるものです。秩禄処分というのは、大名をはじめ下級武士にいたるまで武士階級がいままで農民から米をとりあげる権利をもっていたのを、明治政府が、これを公債で買いあげたのです。この封建階級を整理するための公債発行は巨額にのぼって、明治政府の財政上の大きな負担になりましたが、一八八四年(明治二七年)には、その八割近くまでが、商人や高利貨の手にあつめられ、これらは国立銀行や鉄道会社などの資本金となって、資本主義を育てるもとでになりました。
第三の手段は、紙幣(おさつ)の発行です。政府は地租を担保にして、大政官札という不換紙幣や民部省札、大蔵省兌換証券などをつぎつぎに発行しました。また、一方で三井、小野、島田などの大商人から借金をして財政をまかないました。
こうして、明治政府は、国家の信用を土台に公債や紙幣を発行して、これを資本にかえていったのです。
明治政府は、以上三つの手段、地租と公債、紙幣発行によって、「殖産興業」「富国強兵」のスローガンで、資本主義産業をつくりだすもとでをつくりあげました。そして、一方では、土地をうばわれて無一物になった農民、公債だけではくえなくなった下層の武士階級、そして近代的な機械や技術をつかう工業に太力うちできなくなった職人のなかから、自分のからだにそなわった労働力を売る以外に生きていけない近代的な労働者をうみだしたのです。
これが日本の資本主義と労働者の生いたちです。
官営模範工場のはらいさげ
政府はこうして、農民からしぼりあげた税金をもとでに、政府の手で銀行、鉄道、郵便などの事業をおこし、工部省が中心になって、近代的な官営模範工場をつくり、また、旧幕藩からうけついだ砲兵工廠、製鉄所、造船所、火薬製作所、鉱山、紡績工場などに、おしげもなく税金をそそぎこみました。そして、一八八〇年(明治一三年)ごろには、これらをただ同然のやすい値段で、政府の高官とむすびついた大商人にはらいさげました。
たとえば、一六〇万六〇〇〇円の建設費がかかった阿仁(あに)鉱山を、たった二五万円で古河にはらいさげたのです。おなじように、高島炭鉱、長崎造船所は三菱へ、小坂銀山は久原へ、三池炭鉱は三井へ、兵庫造船所は川崎へ、深川セメントは浅野へはらいさげました。こうして、政府は農民の税金で、これらの大商人が産業資本に成長することをたすけ、のちの天皇制国家と三井、三菱、住友などの大財閥とのむすびつきの土台をつくったのです。こうしておいて、そのご、政府は民間企業の保護を積極的に行ないました。
これが、日本で大量の生産手段を手にした資本家と、国家権力によって一挙に、いっさいの生産手段をうばわれて、労働力のほかに何ひとつもたない無産者が大量につくりだされた資本の本源的蓄積の過程です。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p17-23)
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◎「いわゆる本源的蓄積とは、労働する人間と彼の労働手段とのあいだに存在する本源的結合の解体をもたらした一連の歴史的過程のほかにはなにものをも意味しない」と。