学習通信060914
◎くっちゃねえ=c…

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 子どもたちの一日の日程をおしえて下さい。


 原則はまことに大まかな喰っちゃ寝です(笑い)。
 民話の中にはよくくっちゃねえして子どもは大きくなった≠ニいう話があるでしょう。

 乳幼児期は学齢期とちがって細かい時間割で何かをおしえる、というのでなく、実にゆったりと、この喰っちゃ寝≠ェ保障されることが基本です。

 生まれたての赤ちゃんは、まったくこの食っちゃゃ寝≠「やのんぢゃ寝≠ナすね(笑い)。

 しかし、簡単にいいますけど、これがとてもとても大変なことなんですよ。よほど健常に生まれた子どもでないと、おちちをゴクゴク≠ニ気持よくのんでくれないし、スヤスヤ≠ニねてくれないんですよ。

 なにかからだのどこかに故障がありますと、のんでくれない。かむ力が弱い。のみこみがわるい。と保母さんたちがなげきます。ミルクも一回にやっと苦労して二〇グラムなんていう子もいるんですから。

 また少しのんではすぐねてしまって(笑い)。また寝≠フ方も、故障のある子どもはなかなかねませんよ。ちょっとした物音でもビクッ≠ニおきてしまったり。

 自閉的傾向の子どもも、極端な偏食で、野菜はなかなかうけつけませんし、入園した当初はひるねをしてくれないので保母さんたちを困らせていますよ。

 また、最近は子どもたちに、ほんとうに新鮮な野菜であるとか、有害添加物のない食物をさがすのが大変なことでしょう。静かなところで安眠をさせたい、と思っても、騒音公害は各家庭にだってありますよ。電気洗濯機の音、ボイラーの音、狭い部屋の中でテレビをかける、車の音などで機械音が乳児の脳の発達にはわるい、と知っても、そうした非人間的な音のないところで子どもを安眠させる、ということがむずかしい時代です。

 だから、簡単に喰っちゃ寝≠ニ私がいっても、それはそれは大変なことで、これを子どもに保障するのに私たちは敷地確保から、食糧の調達にまで大変な苦労をしますし、のみの悪い赤ちゃんに、気ながにミルクをのませるのにひじかけ椅子まで用意しているんです。

 超未熟児が、ちえおくれにも、未熟児網膜症にもならずに、ちゃんと育つには、次のことが大切だと、日本一の権威の、国立岡山病院の山内逸郎先生はいっておられるのです。

 一つには母乳で育てること。異種の蛋白を体に入れて痛めつけないこと。
 二つ目は肺の発達は個人差が大きいので、酸素をとり入れる力を測定して、多くも少なくもないようにすること。
 三つ目はやかましい音、非人間的な雑音をきかせないで育てること。
といっておられるのです。
 こうした音をきかせると、未熟児の脳圧は瞬間的に上がって、血中の酸素分圧が下がるからというのです。人間の声なら大丈夫といっておられます。

 こうしてほんとうのくっちゃねえ≠一人ひとり保障することが基本で、あとは次第に目のさめている時間が長くなりますから、この間は、感覚器官に快≠フ刺激と、適宜な運動が自発的にできるように、考えてやればいいわけです。

 子どもを時間でしばり、保育者の命令で保育者がかってにつくったカリキュラムで子どもを動かす、ということはしないことなのです。

 先ほどのくっちゃねえ≠ナすが、保育園だけでなく、家庭の状況もよくしらべて、夜、明るいところでいつまでもおこしていたり、テレビのそう音があったり、十分にバランスのとれた栄養食を与えていない場合は、当然保育園にきて、活発に、自発的に動こうとしませんし、食欲や、睡眠にも影響してきますので、たえず家庭の様子をよく把握して、若いお父さん、お母さんたちを指導しなければなりませんから、私の園では、とくにO歳児は毎日調査表(次頁参照)の用紙を部屋にはっておいてお父さん、お母さんたちに記入してもらっています。

 この調査表、ほしい方はあとでコピーしてもらって下さい。
 離乳食を食べさせるについても、その子一人ひとりの朝食をしらべてやるようにしているのです。だんだん、日リズムを正しくしてもらえば、一定時内の食事も可能になります。

 一歳以上はこうした調査表の記入は毎日ありませんが、登園の時間によって起床時間、朝食時間がわかってきますから、ここにも親の指導が必要になってきます。

 今度は大切なあそびの時間ですが、先日ある保育園に朝九時すぎにうかがったのですが、日のあたらない二階の保育室に一、二歳児が七、八人いまして、おもちゃのとりっこ、かみつきなどイライラしている様子が見えましたので、「外にはつれてゆかないのですか?」ときくと、「子どもが全員そろってから外につれだしているのです」という返事でした。これが今までのまちがったデーリープログラムのやり方ですね。

 ここは看護婦さんの子どもがほとんどで、おそ番の勤務の人は十時頃出勤なので、その時つれてくるために、その子たちをまって一斉に行動にはいらせる、という、まったく今までの学校式をまねた日程の組み方をしているのです。

 そこで、私は、「朝きた順に、朝日のあたる庭で泥あそびや水あそびをさせたらどうですか」といって早くきた子どもたちを外につれだしてもらいました。子どもたちをさっそく素足にさせて、泥山のまわりにつれてゆき、スコップと水をくむあきかんを与えると、もう夢中であそんでいます。けんかもかみつきもありません。そこにおそ番の子どもをお母さんがつれてきました。

 「お早ようございまーす」と明るい保母さんの声にむかえられ、この子もすぐおしめをとって、少しお尻を日光浴させてからパンツにはきかえさせて土におろすと、この子も生き生きして水あそびをはじめました。先生に二階からみんなの着替えをおろしてもらって、適当にあそんだ頃足を洗い着がえさせ、木かげでみずのおやつをのませ、散歩にゆき、十一時には二階に上って、手あそびなどをしながら食事の配られるのをまちました。少しもけんかにもならず、とてもたのしそうでもう夢中であそびました。これなら食事もすすみ、そのあとはぐっすりひるねをすることでしょう。

  おきたら、もう夕方です。おやつにして、また暖かい気候なら外で泥あそびをするなり、部屋の中でリズムあそびをしたり、積木でのあそびをしたりしてすぐにおむかえがくる時間になってしまいます。

 おやつの時などみんながあつまったとき、本をよんでやったり、散歩に出られないときは大きな紙に絵を自由に描かせたり、粘土をしてあそんだり、ちぎり紙をしたり、子どもたちは、手と足と、眼をつかって熱中してあそんでいるときに、脳は発達するのですから、保育者が、子どもがおきているとき、いかにたのしいあそびができるか、そのための素材を用意しておく必要があります。

 こうして一人ひとり夢中であそんでいても、よく注意していれば、ねむそうな子や、おしっこをしてしまった子、はなが出てきた子どもなどいます。先生がすばやくそうした子どもに目がむいて適宜な介肋をしてやればよいのです。

 なにか一斉に、一定のことを教師がおしえるのが保育計画だ、という考え方をすてることです。

 一定の時間に教師の企画どおりに一斉に動かす、ということも年長児はやることがあります。

 六歳になれば、こうしたことが子どもたちも快く、意欲的にとりくみたい、と思うようになるものです。それまで、ゆったりゆったりとくっちゃねえ≠ニ、自発的な健全なあそびをどう豊かにできるようにしてやるか、保育者もたのしくあそぶかです。それもほとんど戸外で、です。

 私の園では、真冬でも、戸外にたき火をして、一人ひとりの登園を庭でまっています。年長兄のたきぎつくりは冬の大きな仕事になっています。

 年長児の日程は他の年齢の子と、ちょっとちがってもう仕事があります。朝は、ホールの掃除や庭はき、動物の飼育、畑の仕事などがありますし、夕方もあと片づけがあります。

 年間通してほとんど毎日のように、リズムあそびは、これは他の年齢も全員しています。

 私の園で一定の時間になると先生が声をかけて一斉にするのはこのリズムあそびだけでしょう。

 年長兄がほぼ全員六歳をむかえる冬の頃になると、子どもたちは掃除がおわると、すぐ竹馬つくりにかかったり、荒馬をつくったり、水彩画を描いたり、なわとびのなわのみつあみをしたり私からおはなしをきいたり、映画をみたり、遠い園外保育に出かけたり、とてもとても張りのある毎日をすごします。

 このようにその年齢や発達に応じて、その子どもたちの発達に必要なことはいったいなにか、を、たえず保育者はさぐり合って素材を提供したり、あそびをさそい出したりするのであって、全員おあつまり≠ナあるとか、一斉保育=A自由保育=Aなどということばはここにはありません。

 なお、年長兄は十月頃からひるねはなくし、この時間におはなしをきいたり、絵をかいたり、木工に夢中になったりしています。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p119-125)

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 自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。

だから、そのために十分に教育された人は、人間に関係のあることならできないはずはない。

わたしの生徒を、将来、軍人にしようと、僧侶にしようと、法律家にしようと、それはわたしにはどうでもいいことだ。

両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間としての生活をするように自然は命じている。

生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。わたしの手を離れるとき、かれは、たしかに、役人でも軍人でも僧侶でもないだろう。

かれはなによりもまず人間だろう。

人間がそうなければならぬあらゆるものに、かれは必要に応じて、ほかのすべての人と同じようになることができるだろう。

いくら運命の神がかれの場所を変えても、やっぱりかれは自分の地位にとどまっているだろう。

「運命の神よ、わたしはあなたをとらえ、とりこにした。あなたがわたしに近よれないように、すべての通路をしめきった。」
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p31)

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◎「生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ」と。