学習通信060912
◎「幻想の共同体」……

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 昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近くになって、だんだん静かになった。

「監督をたたきのめす!」そんなことがどうして出来るもんか、そう思っていた。ところが! 自分達の「手」でそれをやってのけたのだ。普段おどかし看板にしていたピストルさえ打てなかったではないか。皆はウキウキと噪(はしゃ)いでいた。――代表達は頭を集めて、これからの色々な対策を相談した。「色よい返事」が来なかったら、「覚えてろ!」と思った。

 薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。――周章(あわ)てて「糞壺」に馳(か)け込んだ。

「しまったッ」学生の一人がバネのようにはね上った。見る見る顔の色が変った。
「感違いするなよ」吃りが笑い出した。「この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達に詳しく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ」
 外のものも、「それアそうだ」と同意した。

「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」
「いや、いや……」学生は手を振った。余程のショックを受けたらしく、唇を震わせている。言葉が吃(ども)った。
「国民の味方だって? ……いやいや……」
「馬鹿な! ――国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理窟なんてある筈(はず)があるか」
「駆逐艦が来た!」「駆逐艦が来た!」という興奮が学生の言葉を無理矢理にもみ潰(つぶ)してしまった。
 皆はドヤドヤと「糞壺」から甲板にかけ上った。そして声を揃(そろ)えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。

 タラップの昇降口には、顔と手にホータイをした監督や船長と向い合って、吃り、芝浦、威張んな、学生、水、火夫等が立った。薄暗いので、ハッキリ分らなかったが、駆逐艦からは三艘汽艇が出た。それが横付けになった。一五、六人の水兵が一杯つまっていた。それが一度にタラップを上ってきた。

 呀(あ)ッ! 着剣(つけけん)をしているではないか! そして帽子の顎紐(あごひも)をかけている!
「しまった!」そう心の中で叫んだのは、吃りだった。
 次の汽艇からも十五、六人。その次の汽艇からも、やっぱり銃の先きに、着剣した、顎紐をかけた水兵! それ等は海賊船にでも躍(おど)り込むように、ドカドカッと上ってくると、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった。
「しまった! 畜生やりゃがったな!」
 芝浦も、水、火夫の代表も初めて叫んだ。
「ざま、見やがれ!」――監督だった。ストライキになってからの、監督の不思議な態度が初めて分った。だが、遅かった。
「有無」を云わせない。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒(ばとう)されて、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった。それは皆がワケが分らず、ぼんやり見とれている、その短い間だった。全く、有無を云わせなかった。――一枚の新聞紙が燃えてしまうのを見ているより、他愛なかった。
 ――簡単に「片付いてしまった」

「俺達には、俺達しか、味方が無(ね)えんだな。始めて分った」
「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」
 水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」
 いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた。

 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴(もくよく)して作るわけでもなかった。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度は異(ちが)ってしまっていた。
「俺達の本当の血と肉を搾(しぼ)り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」
 皆そんな気持で作った。
「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。――「今に見ろ!」
 然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキが惨(みじ)めに敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的(ふっきゅうてき)な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。
「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」

「そうだな」

「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っている筈だ」
「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ」

「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章(あわ)てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない程少ないし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど」

「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」

「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一回だ!」

 そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!


附記

 この後のことについて、二、三附け加えて置こう。

イ、二度目の、完全な「サボ」は、マンマと成功したということ。「まさか」と思っていた、面喰(くら)った監督は、夢中になって無電室にかけ込んだが、ドアーの前で立ち往生してしまったこと、どうしていいか分らなくなって。
ロ、漁期が終って、函館へ帰港したとき、「サボ」をやったりストライキをやった船は、博光丸だけではなかったこと。二、三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出たこと。
ハ、それから監督や雑夫長等が、漁期中にストライキの如き不祥事を惹起(ひきおこ)させ、製品高に多大の影響を与えたという理由のもとに、会社があの忠実な犬を「無慈悲」に涙銭一文くれず、(漁夫達よりも惨めに!)首を切ってしまったということ。面白いことは、「あ――あ、口惜(くや)しかった! 俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と、あの監督が叫んだということ。
ニ、そして、「組織」「闘争」――この初めて知った偉大な経験を担(にな)って、漁夫、年若い雑夫等が、警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ。


――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。
(一九二九・三・三〇)
(小林多喜二「蟹工船」新日本文庫 p103-109

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 第三に、しかし、ここで私がのべたことは藤田勇氏の労作『法と経済の一般理論』や「国家論の基礎的カテゴリー」(現代と思想一八号)においてはどうも明確になっていないように思われる。そこで、この点に限定して藤田氏の見解をすこし検討してみよう。

 氏は、支配階級の階級意思が公的意思(国家意思)とあらわれていることについて次のようにのべられている。

 「こうして、国家が公的権力としてあらわれるかぎりにおいて、国家をつうじて表現される支配階級の階級意思は、公的意思として、社会の成員全体にとって共通な、あるいは平均的な意思(目的設定・行動制御的意識)、すなわち『一般意思』としてあらわれることになる。逆にいえば、支配する階級がそれをつうじてみずからの利害を社会の全成員の共同利害としてかかげ、みずからの意思(支配階級の共通意思)に普遍性の形態をあたえるものであるがゆえに、国家は公的権力としてあらわれるのだ、といってもよい」(法と経済の一般理論[日本評論社、一九七四年]一二六ページ)。

 藤田氏は、このように国家が公的権力としてあらわれるかぎりにおいて、支配階級の階級意思が公的意思としてあらわれているという事実を確認されているわけであるが、しかし、それではどうして、少数者の意思(支配階級の階級意思)が社会の一般的意思としてあらわれるのか。この「なぜ」を説明することが、この藤田氏の引用が含まれている「階級意思の公的意思への転化の論理」という節の課題である。

したがって、ここでの「転化の論理」というのは、なぜ、被支配階級が少数者の意思を受け入れるのか、ということを示す論理でなければならない。氏がいわれるように、国家や法律は当然に経済的諸関係の反映であるのだから、経済的諸関係のどんな法則が、あるいはどんな側面が被支配階級に支配階級の意思を受け入れさせるのかという、その論理が示されなければならない。

もし経済的諸関係のなかにこういう法則や側面がないとすれば、国家や法律は無理やり外的強制として被支配階級に与えられなければならず、この場合に機能する国家や法律、あるいはそれに付随するイデオロギー(狭い意昧での)は全くの虚偽であり、被支配階級が受け入れる根拠をもたないにもかかわらず、教育やイデオロギー的宣伝のなかで強制的に与えられ、そして受容されているものと考えねばならないであろう。

 ところが、藤田氏の「階級意思の公的意思への転化の論理」は、「法意識」を媒介にした、虚偽意識としてのイデオロギーを外的強制によって多数者におしつけるというものであるように思われる。氏は次のようにいわれる。

 「いま問題にしている法意識が、公的強制によって万人を拘束する普遍的規範を志向することを固有の属性とするものとすれば、それの形成のためには特殊利害・特殊意思(階級利害・階級意思)の『超克』というイデオロギー的転倒が不可避である。この『超克』=転倒によって、階級意思は『秩序』、『公正』、『福祉』等の超階級的=超歴史的なイデオロギーの衣をまとうことになる。さきにみた代表制機関における公的意思の成立(立法)のプロセスにおいて登場する階級意思は、すでにこうしたイデオロギーの衣をまとっているそれであって、階級利害の生のままの主張ではない」(同前、一三 二ページ)。

 この藤田氏の主張は、支配階級の特殊的利害が被支配階級の利害に一致するものではないという側面からみれば、正しいことである。しかし、この「特殊利害の『超克』というイデオロギー的転倒」が、特殊的利害が一般的利害でもあるという階級矛盾の一側面である相互前提的関係のうえに立脚するものであること、したがって、こういう経済的関係のうえで支配階級の階級意思が国家意思に転化することをみなければやはり不十分である。法が超階級的な装いをこらすことは、被支配階級がそれをうけいれるための一条件にすぎないのである。

 社会の一般的意思ではない支配階級の階級意思が国家意思としてあらわれているのであるから、国家はやはり「幻想の共同体」である。この点、『ドイツ・イデオロギー』では次のようにいわれている。

 「従来の共同社会の代用物、すなわち国家等々においては、人格的自由は、支配階級の生活諸関係のうちでそだった諸個人にとってのみ、そしてまさに、かれらがこの階級に属する諸個人であったかぎりにおいてのみ、存在したにすぎない。

 いままで諸個人がそこへ結集していた擬制的共同社会は、いつでもかれらから離反して、かれらに対立していた。しかも同時に、それはある階級の他の階級に対する団結であったから、被支配階級にとっては、それはただたんにまったくの幻想的共同体であったばかりでなく、ひとつのあたらしい桎桔でもあった」(ドイツ・イデオロギー、 一三七〜一三八ページ)。

 国家は同時に実在的なものとして、すなわち、軍隊、警察、裁判所、刑務所、議会、諸官庁等々として実在的に存在する。古代においては、巨大な墳墓、装置な官殿等々として実在した。こうした実在的なものは成立すると同時に人々のイデオロギーを支配する。

国家は、現象する姿においてはその発生の由来、その本質を隠蔽しているのであるから、精神的労働に従事しない、したがって科学的認識によってその本質を分析する余裕をもたないで経済的、社会的生活をおくる被支配階級の人々は国家の本質を把握することなく、国家を実在的な所与としてうけとめてその実践的な意識を形成する。

国家を実在的な現象する姿においてとらえる人々にとっては、具体的に実在する国家があるからこそ自らも存在する、と思いこむ。王が存在するから、臣下が存在するのだという逆立ちしたイデオロギーが人々をとらえるのである。こうして支配階級の特殊的利益を守る機関である国家が、「幻想の共同体」として人々のイデオロギーを支配するのである。

 したがって、国家は成立と同時にイデオロギー的な力として人々を支配する。これが「国家とイデオロギー」の第四点である。

 「国家という形で、人間を支配する最初のイデオロギー的な力がわれわれにたいして現われる。社会は、内外からの攻撃にたいしてその共同の利益を守るために、自分のために一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。この機関は、発生するやいなや、社会にたいして自立するようになる。しかも、一定の階級の機関となり、この階級の支配権を直接に行使するようになればなるほど、いよいよそうなる」(エンゲルス、フォイエルバッハ論、全集二一巻、三〇七ページ)。

 この引用文を理解するうえで注意しなければならないのは、国家すなわち階級社会において、はじめてイデオロギー的な力があらわれる、とエンゲルスがのべていることから、イデオロギー的な力は階級社会にのみ固有のものであると考えてはならないという点である。「人間を支配する」という言葉は階級的な意味で、支配階級が被支配階級を支配するということである。

人間はいつの時代でも実践的規範意識としてのイデオロギーに拘束され、それに従って行為するのであり、この意味で人間はイデオロギー的な力によって支配されているのである。しかし、エンゲルスがいうのはこの意味ではなく、被支配階級を支配する階級的イデオロギーの最初の形態が国家であるということである。

 国家の本質は被支配階級を抑圧しておくための、暴力装置であるとともにイデオロギー的装置でもあるということがここで確認されねばならない。レーニンの時代のロシアと違って、むき出しの暴力的抑圧が前面に出ていない高度に発達した今日の資本主義国を考える場合に、国家がイデオロギー装置でもあるということの確認は階級闘争にとって欠かすことのできないことである。

したがって、国家がイデオロギー装置として機能している客観的機構や諸制度を具体的に分析することが国家論の不可欠の課題であろう。ここではこの点の指摘だけにとどめておく。
(上野俊樹「経済学とイデオロギー」上野俊樹著作集@ 文理閣 p115-117)

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──こうして、資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする。両者は相互に制約しあい、相互に生みだしあう。

 ある綿布工場の一労働者は、ただ綿布だけを生産するのであろうか? そうではない、彼は資本を生産する。

彼は、彼の労働を指揮し、その労働によって新しい価値をつくり出すのにまたもや役立つ価値を生産するのである。

 資本が自己を増殖することができるのは、それが労働力と交換され、賃労働を生みだすことによってのみである。

賃労働者の労働力が資本と交換されうるのは、これが資本を増殖することによって、すなわち、これをその奴隷とするところの支配力を強めることによってのみである。

したがって、資本の増加はプロレタリアートの、すなわち労働者階級の増加である。

 だから資本家と労働者との利害は同一だ、とブルジョア、および彼らの経済学者たちは主張する。また、実際にもそうである! 労働者は、資本が彼をやとってくれないと滅びてしまう。

資本は労働力を搾取しないと滅びてしまう。そして、搾取するためには資本はそれを購入しなければならない。

生産にむけられた資本、生産的資本が急速に増加すればするほど、したがって産業が繁栄すればするほど、ブルジョアジーが富めば富むほど、景気がよくなればなるほど、それだけいっそう資本家は、多くの労働者を必要とし、それだけいっそう労働者は、自分自身を高く売ることになる。

 労働者のまずまずの状態にとって不可欠な条件は、だから、生産的資本が、できるだけ急速に増大することである。

 だが、生産的資本の増大とはなにか? 生きた労働にたいするたくわえられた労働の支配力が増大することである。

労働する階級にたいするブルジョアジーの支配の増大である。

賃労働が、これを支配している他人の富、これに敵対する支配力、すなわち資本を生産するならば、この敵対する支配力から、雇用手段、すなわち生活手段が賃労働に還流してくる、──ただし、賃労働がふたたび資本の一部となり、ふたたび資本を加速度的な増殖運動に投げこむ槓杆となる、という条件のもとで。

 資本の利害と労働者の利害とが同一であるというのは、資本と賃労働とが一個同一の関係の二つの側面である、ということにすぎない。一方が他方を制約しているのは、高利貸と浪費家とが交互に制約しあっているのと同様である。

 賃労働者が賃労働者であるかぎり、彼の運命は資本に依存する。さかんにもてはやされている労働者と資本家との利害の共通性というのは、このことである。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p55-57)

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 一商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体およびこの身体の諸属性と完全に区別されるものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのであるが、そのことによって、この表現が一つの社会的関係を秘めていることを、この表現そのものが暗示している。

等価形態については逆である。

等価形態とは、まさに、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの物が、価値を表現し、したがって、生まれながらにして価値形態をもっている、ということなのである。

確かに、このことが通用するのは、ただ、リンネル商品が等価物としての上着商品に関連させられている価値関係の内部でのことにすぎない(注)。

しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物との関係から生じるのではなく、むしろこのような関係のながで確認されるだけであるから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか寒さを防ぐとかいうその属性と同じように、生まれながらにもっているかのように見えるのである。

そこから、等価形態の謎的性格が生じるのであるが、この謎的性格が経済学者のブルジョア的な粗雑な目を見はらせるのは、やっと、等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現われるときである。

そのとき、彼は、金銀の神秘的性格を説明し去ろうとして、金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて、かつては商品等価物の役割を演じたことのあるこれらいっさいの商品賎民の目録を棒読みしては、そのたびに満足のよろこびを新たにする。

すでに、20エレのリンネル=1着の上着 というようなもっとも簡単な価値表現が等価形態の謎を解く鍵を与えていることなど、彼は感づきもしないのである。

【注】およそこのような反省というものは独自なものである。たとえば、この人が王であるのは、他の人人が彼にたいして臣下としての態度をとるからにほかならない。ところが、彼らは、彼が王であるから、自分たちは臣下であると思うのである。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p98-99)

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◎「特殊的利害が一般的利害でもあるという階級矛盾の一側面である相互前提的関係のうえに立脚するものであること、したがって、こういう経済的関係のうえで支配階級の階級意思が国家意思に転化することをみなければ」と。

◎「王が存在するから、臣下が存在するのだという逆立ちしたイデオロギーが人々をとらえ……こうして支配階級の特殊的利益を守る機関である国家が、「幻想の共同体」として人々のイデオロギーを支配するのである」と。