学習通信060828
◎低賃金とはなにか?……

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重 さ

 重さは見ただけでは感じることができません.八百屋さんでキャベツを買おうとする人が両手に持って重さを比べていたりしますが,重さは手に持つことによってはじめて実感できます.

 日常の生活の中で重さが話題になるのは,たとえば体重でしょう.今日ではたいていの家庭にヘルスメーター(体重計)があり,健康維持の目安として体重を意識している人が多いようです.しかし,「北極で体重を側るのと,赤道直下で測るのとでは変わるんだよ」などともっともらしいことをいわれると,重さについてわかっていたつもりだったのが確信がぐらついたりします.「重さ」は物体に働く重力の大きさによって表されますから,場所や標高によって見かけ上は変わってきます.しかし重さそのものが変わるわけではないのです.

 また,「100gのコーヒーに6gの砂糖を入れたら何g?」と聞かれたら106gとすぐに答えられるのですが,「えっ,砂糖は溶けているんだよ」などと追い討ちをかけられると,「待てよ?」と不安になったりします.

 重さはこのようにむずかしい量です.つぎの問いに答えられますか?

@1sの粘土のかたまりと, 1sの粘土でたくさんお団子をつくったものとを比べると,どちらが重いでしょうか.粘土の出入りはないも
のとします.

A1sの粘土のかたまりと,1kgの粘土でヘビをつくったのとでは,どちらが重いでしょうか? ヘビは天秤の皿からはみだしています.

 もちろんどちらも同じ重さです.重さの加法性は直感的にはそれほど明らかではないのです.
(増島・石井編集「数学再挑戦」日本評論社 p39-40)

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一粒の砂も、顕微鏡でみれば高く、一個の塔も山とくらべれば低い。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p41)

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 一軒の家は、その大小にかかわらず、それをとりまいている家々が、その家と同様に小さいかぎり、住居にたいするあらゆる社会的な要求を満足させた。ところが、小さな家のそばに大邸宅が建てられると、小さな家は小屋のようにみすぼらしくなる。そうなると、その小さな家は、その居住者がなんの要求もなしえないか、ほんのわずかな要求しかなしえない、ということを証明するようになる。そして、文明が進むにつれて、小さな家がさらにどんなに高くなろうとも、もし隣の大邸宅が同じ程度か、あるいはいっそう大きな程度にさえ高くなったばあいには、比較的に小さな家の住民は、家にいると、ますます不快、不満、憂鬱(ゆううつ)になるであろう。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p58)

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高賃金とはなにか? また低賃金とはなにか? と。たとえば、なぜ週五シリングでは低賃金となり、週二〇シリングでは高賃金となるのか? 五が二〇にくらべて低いなら、二〇は二〇〇にくらべるとなおさら低い。

もし人が寒暖計について講義しようとして、いきなり温度の高い低いについて話しはじめるならば、彼はなんの知識もさずけはしないであろう。彼は、まずはじめに、氷点の見つけかた、沸点の見つけかた、またこれらの基準点が、寒暖計の販売者や製造業者の気まぐれによってではなく、自然法則によってきめられるしだいを私に話すべきである。

さて、賃金と利潤については、ウェストン君は、こうした基準点を経済法則からみちびきだすことができなかったばかりか、基準点をさがす必要さえ感じなかった。彼は、高い低いという通俗的な用語を、なにか定まった意味をもつものとしてうけいれることで満足したが、しかし言うまでもなく、賃金はその大きさを測定する一つの基準と比較してはじめて、高いとか低いとか言えるものである。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p117)

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 われわれは、これらの比率がかぎりなく多様であることを経験的に知っている。ある一つの商品、たとえば小麦をとってみると、一クォーターの小麦がいろいろな商品と無数にちかいさまざまな比率で交換されることがわかるであろう。

しかし、その価値は、絹や金やその他どんな商品であらわされようとも、やはりつねに同じであるから、それは、いろいろな品物とのこうしたいろいろな交換比率とはなにかちがった、それらから独立したものでなければならない。

さまざまな商品とのこうしたさまざまな等式を、一つの非常にちがった形式であらわすことが可能でなければならない。

 さらに、もし私が、一クォ一ターの小麦は一定の比率で鉄と交換されるとか、一クォーターの小麦の価値は、一定量の鉄で表現されるとか言えば、それは、小麦の価値と鉄という姿でのその等価物とは、小麦でも鉄でもないある第三のものにひとしい、と言っているのである。というのは、私は、小麦と鉄とは同じ大きさを二つのちがった姿であらわしていると考えているからである。だから、そのどちらも、つまり小麦も鉄も、他方とは独立に、それらの共通の尺度であるこの第三のものに還元できるのでなければならない。

 この点を説明するために、ごく簡単な幾何学の例をとってみよう。ありとあらゆる形や大きさの三角形の面積をくらべたり、三角形を長方形とかその他なんらかの直線形とくらべたりするとき、われわれはどんな手続きをとるか? われわれは、どんな三角形の面積でも、それをその目に見えるかたちとはまったくちがう一つの表現に還元する。

三角形の性質から、三角形の面積はその底辺と高さとの積の半分にひとしいということがわかれば、あとは、われわれは、およそあらゆる種類の三角形とあらゆる直線形──というのは直線形はどれも一定数の三角形に分解されることができるから──とのいろいろな値をくらべることができるのである。

 諸商品の価値についても、これと同じ手続きがとられなければならない。われわれは、すべての商品をそのすべてに共通した一つの表現に還元することができるのでなければならないし、またそれらの商品を、もっばらこの同一の尺度をふくんでいる比率によってのみ区別するのである。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p125-127)

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◎「さまざまな商品とのこうしたさまざまな等式を、一つの非常にちがった形式であらわすことが可能でなければならない」と。