学習通信060825
◎あとの祭り……

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一般市民の責任

 環境破壊についての根本的責任は、利潤追求第一で活動している現代資本主義にあると私は思うのですが、しかし反論があるかもしれません。それは一般の国民・市民の側にも責任があるのではないか、安楽と便利さをひたすら追求して、消費社会、たとえば車社会をつくってしまった一般国民に責任はないか、という意見です。

 このような意見は検討に値する意見だと思います。ひたすら快適さを求めてエネルギー多消費型の生活にどっぷりつかってしまっている点について、私たち一般市民も反省しなければならぬ点があるのは確かだと思います。しかしこのような車社会、エネルギー多消費型社会、あるいは高度利便性社会をつくり出した究極原因は、近代資本主義の利潤追求第一主義にあるのではないでしょうか。

 まず車社会について考えてみますと、車が増えすぎて道路は渋滞するし、排気ガスによる大気汚染で困っている人は多いのですが、そのほかに石油資源をこんなに浪費していると近い将来、枯渇する恐れもあります。人類はこの車社会を転換する必要があります。もし現在の開発途上国が将来発展してその結果、欧米や日本のような車社会になっていったら地球は環境問題でも資源問題でも大変なことになってしまうでしょう。

そうするといま車を所有し利用している市民たちは、これでよいのかということになります。しかし自動車をどんどんつくって売りまくり、そのため都市構造さえ自動車むきに変えて、車がなければ生活できないようにしてしまった自動車産業の大資本の責任が一番重いのではないでしょうか。

 日本の多くの都市では、自動車産業の営業政策に押しまくられて、都市バスや市電の赤字が増大し、道路を渋滞させる邪魔ものとして次つぎに廃止されていきました。地方の過疎地のバスや鉄道も次つぎに廃止されました。そもそも日本の国土のバランスを乱暴に崩して、一方での過密巨大都市、他方の過疎地という荒廃をつくり出したものが、日本独占資本の高度経済成長政策でした。こうして車がなければ生活できない社会にしてしまった根本責任は日本独占資本とその代理人である自民党の政治家だちといわざるをえません。自動車に乗っている一般国民にも責任があるとしてもまったく副次的なものだと思います。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p100-101)

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三 日本の社会を変えていくために

 「思うこと」というのは問題意識だと述べました。これはあなた方自身が「思うこと」なのですが、ここで、私の「思うこと」をちょっと述べたいと思います。それは現在の状況のなかで私が感じている問題意識です。

歴史に対する責任

 まず第一に、戦争責任の問題です。あなた方が生まれたときにはもちろん、あなた方の親が生まれたときでさえ、第二次世界大戦はもう終わっていたでしょう。だから自分たちには戦争の責任はない、と考える人がいるかもしれませんね。しかし、それはちょっと甘いと思うのです。

 なぜ甘いか。歴史的な観点から見てみましょう。過去に起こった出来事の結果が現在です。現在の状況は、あるとき突然天から降って湧いてきたものではありません。さきほど述べたように、有事法制案の前には、「なし崩し」の積み重ねがあったわけですね。そういう積み重ねの結果として、現在、有事法制案が議論になっているのです。

だから、有事法制案を十分に理解するためには、過去に関する知識が必要なことはいうまでもないですね。過去と現在は結びついている、現在は過去の結果以外のなにものでもないからです。これが最初に言いたいことです。

 次に、こんどは未来に目を向けてみましょう。これからあなた方がどうしていこうかというときに、すべての行動には目的があります。どこへ行きたいという目的があるはずです。その目的を達成するための手段は限られています。だから、与えられた手段のなかから、そのとき使える手段を選んで、目的を達成しようと努力するわけです。

 もっと細かい理屈が好きな方には、行動原理、行動理論の本がありますから読んでみてください。戦後、アメリカの社会学者のパーソンズが詳しく書いていますが、要するに、目標があって手段があり、その二つがあらゆる行動の条件であるということです。

 「思うこと」から、自分でこうしたいという目的が出てきます。たとえば、週末にディズニーランドへ行きたいという目標があるとしましょう。次にそこへどうやって行くのか、ということで、いろいろな手段を考えますね。ここからディズニーランドへ行く手段はたくさんあるでしょう。遠すぎて歩いては行けません。

自動車では道が込む可能性があります。いちばん便利なのはおそらくヘリコブターでしょうが、それはお金がかかるから使うことができないとしましょう。たとえ道が込む可能性はあっても自動車を運転して行くか、時間がかかっても電車を乗り継いでいくかでしょう。普通、私たちは、そういうふうに手段を選んでいきます。

 すべての行為が成立するための条件のうち、半分は目的の選択です。そしてもう半分の条件は手段の選択、ということになります。手段はいま与えられている手段のなかから選ぶわけですが、現在使えるすべての手段はつねに過去の歴史がつくりだしたものなんですね。そのなかから選択するほかないのです。

ですから、未来に目を向けたときにも、手段は過去の結果としての現在から選択される、つまり、現在において過去と未来は出会っているわけなのです。現在は過去の結果であると同時に、現在のすべての行動は未来へ向かっているのですから、過去は未来へ向かっての行動の条件であるということができます。

戦争などの大がかりな問題だけではなくて、週末にどこへ行くかというような話のときでも、私の言っていることは妥当します。すこし抽象的ですが、すべての行為を含んでいるのです。

 だから、戦争が終わったときに生まれていたか生まれていなかったか、などということはあまり重要な問題ではありません。いまあるもののなかから未来へ向けての手段を選択することは、過去の結果の中から選ぶということであり、同時に、現在は未来へ向かってのあらゆる行動の条件であるわけですから、現在に生きていることは、過去とは切り離せないということなのです。

 未来へ向かってどういう手段を選択するか、というときには、過去の歴史を振り返ったうえで、批判的に選択していくことが必要になります。あなた方が過去から譲られた結果のひとつである核兵器の可能性を、ひとつの手段として受け入れるのか受け入れないのか。

その選択の責任は、過去にあるのではなくて、現在にあるのです。核兵器を手段として使うのは、現在生きている人ですから、これは当然のことです。

 もちろん、こんなに大変な兵器をつくってしまったことに対する責任は、あなた方にはありません。核兵器を開発したのは、米国政府の決定ですから、その責任は当時のアメリカ政府にあります。しかし、米国政府の決定は、ホワイトハウスや議会を含む米国社会のなかで行われました。そして、米国社会は現在もずっと続いているわけですから、核兵器を開発した米国の社会に対してどういう態度をとるかということは、あなた方の選択であり責任です。

この点については、あなた方が生まれる前に開発された兵器だから関係がない、というわけにいかないのです。

 ナショナリズムについても同様のことが言えます。ナショナリズムによって第二次世界大戦が起こったとするならば、それに対してどういう態度をとるのか、ということは、あなた方の問題です。ナショナリズムはいまでもありますね。

だから、もし今あるナショナリズムに反対しないのだったら、現在と過去はつながっているのですから、過去のナショナリズムに対しても、反対していないということになります。反対していない、ということは、すなわち、賛成の意思表示なのです。

ジャン・ポール・サルトルは戦後に、あらゆる社会は政治的だ、政治的社会のなかでは沈黙もひとつの発言であると言いました。沈黙は必ず現状を承認する「発言」なのです。

 だから、核兵器を使うこと、新しくつくることに対して反対しなければ、核兵器の開発をも容認していることになります。あるいはいまあるナショナリズムに対して反対しなければ、過去のナショナリズムをも容認しているのです。過去にナショナリズムによって戦争が起こったということは、知識の問題です。

けれども、ナショナリズムはいまでも生きています。核兵器はいま日本にないけれども、これからつくる可能性はあります。そうした可能性に対してどういう態度をとるのか、抽象的にいえはそういうことですが、これは大きな問題です。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p42-46)

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(二)「社会的理性」と経済の計画的運営
『「資本論」全三部を読む』第五冊から

 マルクスは、『資本論』のなかで、共産主義社会で実現される経済の計画的な運営の問題を、いろいろな具体問題をとらえて考察しています。ここでは、そのなかから、代表的な四つの文章を、まとめてみました。マルクスがこれらの文章のなかで、経済の計画的な運営について、「社会的理性」あるいは「結合した理性」の働きとして説明しているのは、特徴的です。

〔資本の流通過程・資本の回転(第二部第二篇)から〕

社会的理性の働き−共産主義社会と資本主義社会

 興味深いのは、マルクスが、長期・巨大事業と市場との関係(市場からどれだけの物を引き上げ、どれだけの物を投げかえすかの関係)という問題を、共産主義社会と資本主義社会を対比する材料として扱っていることです。

 『資本論』のこれまでの部分では、分業論という形では、資本主義社会の無政府性と共産主義社会の計画性との対置はしばしばおこなわれ、いろいろな角度から考察されてきました。しかし、現実の経済運営の問題を取り上げて、その対比を論じたのは、『資本論』では、第二部第二篇のこの章(「第一六章 可変資本の回転」)が最初だと思います。

 マルクスは、長期・巨大事業によって、「市場からは、労働力、この労働力のための生活諸手段、B〔この事業──不破〕で使用される労働諸手段という形態での固定資本、および生産材料が引きあげられ」るが、その年度内には、「市場から引きあげられた生産費本の素材的諸要素を補填するためのいかなる生産物も、市場には投げ込まれない」(『資本論』E四九七ページ、〔U〕316ページ)として、資本主義的生産のもとでは、そこに経済の「撹乱」の大きな要因が生まれることを指摘します。

 そして、「資本主義社会でなく共産主義社会を考えてみる」といって、そのあとにすぐ、共産主義社会での計画的な経済運営の話が続くのです。

 マルクスの想定では、共産主義社会では、貨幣などないはずですから、貨幣の出入りの心配をする必要はありません。


 「資本主義社会でなく共産主義社会を考えてみると、……事態は単純に次のようになる── すなわち、社会は、たとえば鉄道の建設のように、一年またはそれ以上長い期間のあいだ生産諸手段も生活諸手段も、またなんらの有用効果も供給しないが、年々の総生産からは労働、生産諸手段、生活諸手段を引きあげる事業部門に、どれだけの労働、生産諸手段、生活諸手段を滞りなく振り向けうるかをあらかじめ計算しなければならない、ということに帰着する」(同前四九七ページ、〔U〕316〜317ページ)。


 こういうことは、社会がそのつもりで意識して運営にあたれば、何もむずかしいことはないよ、と言わんばかりのマルクスの解説です。問題は結局、労働力や資財を、どう合理的に配分するかという問題ですから、社会的理性にしたがって、事前にその調節をはかることができるはずです。
 ところが、資本主義社会は、その根本のところで違ってきます。

 「これに反して、社会的理性がいつも祭りが終わってから≠ヘじめて妥当なものとされる資本主義社会では、つねに大きな撹乱が生じうるのであり、また生じざるをえない」(同前四九七〜四九八ページ、〔U〕317ページ)。

 「祭り」といえば、日本でも「あとの祭り」という言葉があります。「社会的理性」を、こと(祭り)がはじまる前から働かせるのか、それともことがすんでから働かせるのか、ここに共産主義社会と資本主義社会との経済運営の分岐点があるというのは、たいへん的確な、またみごとな表現だと思います。
〔資本の流通過程・再生産論(第二部第三篇)から〕
(不破哲三著「マルクス未来論」新日本出版社 p238-241)

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◎「社会的理性」を、こと(祭り)がはじまる前から働かせるのか、それともことがすんでから働かせるのか、ここに共産主義社会と資本主義社会との経済運営の分岐点がある」と。