学習通信060824
◎人類史のなかで現代がもつ偉大な意義……

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(5)石川康宏氏によれば、現代にいたる企業社会の女性差別を単純に「古い考え方の残り物」とよぶのは誤りで、それは戦後の経済成長過程の中で、経済界のリーダー達が意識的につくりあげた新しい戦後型の労務管理政策である。

その政策が追求したことの一つは、パートの大量活用に象徴される女性労働力の「安使い」であり、また二つには正規雇用も含めて女性たちを「男性以下」に位置づけ、それによって過酷な労働条件に対する男性労働者たちの不満を緩和する手段とする。

さらに重要なことは、男並み労働を基準とする「男女平等」や早期退職などあからさまな女性差別を通じた企業社会からの女性排除が、大量の男性企業戦士を企業社会に供給させる目的をもっていた。女性を職場から家庭に追いやり、「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業を促進し、家庭をかえりみる必要とゆとりをもたない男性企業戦士を生みだす土壌となり、こうした計画的な労務(及び家庭)管理政策のもとで、戦後の日本経済を支えた安くて勤勉な労働者をつくり出したのであり、女性を苦しめる性差別が、同時に男性労働者に対する支配強化の手段でもあった。

「資本の論理」と「性差別の論理」のより深い統一的理解の探求は、ジェンダー研究が経済学に求める重要な研究課題のひとつであるという石川氏の指摘は重要である。

石川康宏「労務管理のジエンダー分析」森永康子・神戸女学院大学ジェンダー研究会編『はじめてのジェンダー・スタディーズ』北大路書房、二〇〇三年、四四ページ。
(中田進「第四章 働く女性の権利とたたかい」鰺坂真編─ジェンダーと史的唯物論─学習の友社 p127-128)

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 働く女性とりわけ婦人労働者の権利を守りその地位を向上させることは、女性全体の地位向上と、民主主義日本への道を切り開いていくうえで決定的に重要な意味をもっている。

 婦人労働者は、一九八〇年現在一、三五四万人に達し、全労働者階級三、九七一万人の三四・一%を占めるに至った。一五歳以上の女性四、五九一万人のうち、実に約三〇%が労働者として働いている。これに農業その他自営業(家族従業者を含む)などで働いている女性を加えれば、働く女性の総数は二、一四二万人(一九八〇年総理府労働力調査)に達する。

 これら働く女性たちは、資本主義社会の矛盾を、身をもって体験する客観的な条件下におかれている。とりわけ婦人労働者は、階級闘争の先進部隊であり主力部隊となっている労働者階級の一員として、屈折した道をたどりながらも、労働者階級としての自覚を深め、組織的な闘争を行なうことに習熟していく。

朝鮮戦争以来、拡大につぐ拡大をつづけた日本経済とともに増大した婦人労働者たちは、賃金において、男性労働者の平均賃金の五三・八%という事実が端的に示すような不当な差別による「二重の搾取」に苦しめられる中で矛盾にめざめ、きたえられ、闘う労働者階級の重要な部分をいやがうえにも占めるようになってきた。こうして質量的にその力を増大している婦人労働者はまた、広範な勤労婦人や主婦たちの中心になって、女性の真の自由と平等をめざす運動を発展させていく歴史的使命をになう力量をつよめている。

 このような婦人労働者に対して、支配層はきびしい抑圧を加え民主的権利に対する侵害を重ねてきた。彼らの攻撃は、まず第一に、婦人労働者をもっとも安い労働力として徹底的に搾り取ることを目的としている。

第二には、婦人労働者を差別し、無権利な低賃金労働者におしとどめておくことをテコとして、労働者全体の労働条件を低くおさえこむことをねらって行なわれる。

そして第三には、婦人労働者がその自覚をたかめて、生活の向上、平和と民主主義を求める職場内外の広範な女性を団結させる柱にまで成長することを阻止し、婦人労働者を現在の支配体制を支える従順な「職場の働き手」と「家庭の守り手」にとどめるために行なわれる。

支配層は、一九七九年五月の日米共同声明をひとつの転機として、急速にすすめられている日米安保条約の危険な攻守同盟化、軍国主義の全面的復活の策謀のつよまり、そしてそのための「軍拡・行革路線」の強行という事態のなかで、こうした三重のねらいをもって婦人労働者の民主的な権利に対する攻撃をますます強化してきているのである。

 だが、働く女性の民主的な諸権利の侵害に反対し、権利の完全な実現をめざす闘いは、抑圧に抗し、日ましに発展してきている。とりわけ、一九七五年の国際婦人年以降、国際・国内両面にわたって女性の民主的権利のための運動は大きく広がっている。こうして、働く女性の権利をめぐる情勢は決して、一路権利侵害の激化ということではなく、権利侵害をめぐる彼我の闘いの激化となってあらわれているのである。

 働く女性の民主的権利のための闘いは差別されることなく、健康で、文化的に人間としての誇りと尊厳とをもって働き、生きていきたいという、すべての婦人労働者の切実な要求を実現するために、欠くことのできないものであり、全労働者に対する搾取強化に対する闘いの重要な柱のひとつである。

それはまた軍国主義の全面的復活に反対し、平和と民主主義を守り、国民生活を向上させるための巨大な闘争の重要な部分を占める闘いであり、さらにはレーニンが、「資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに『理想的な』民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない」(「ベーキェプスキーヘの回答」『レーニン全集」二三巻一七ぺしシ、大月書店版)と指摘しているように、女性の真の解放への道を切り開くためにさけることのできない課題に他ならないのである。
(坂本福子著「女性の権利」法律文化社 p90-92)

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 帝国主義は高度に発展した資本主義である。帝国主義は進歩的である。帝国主義は民主主義の否定である。「したがって」民主主義は、資本主義のもとでは「実現不可能」である。帝国主義戦争は、おくれた君主国でも、すすんだ共和国でも、一様に、あらゆる民主主義のはなはだしい破壊である。「したがって」「権利」のことを(すなわち民主主義のことを!)いろいろ言ってもなんの役にもたたない。帝国主義戦争に「対置」することができるのは、「ただ」社会主義だけである。「活路」は社会主義のなかだけにある。「したがって」、最小限綱領のなかで、すなわちやはり資本主義のもとで、民主主義のスローガンをかかげることは、欺瞞(ぎまん)または幻想であるか、社会主義変革のスローガンをあいまいにしたり、遠ざけたり、等々することである。

 これがペーキエフスキーのあらゆる不幸の真の根源、彼の意識にのぼってはいないが真の根源である。これが、彼の基本的な、論理上の誤りであって、この筆者に意識されてはいないが、この誤りが根底にあればこそ、くさった自転車のタイアのようにたえず「パンク」し、あるときは祖国擁護の問題で、あるときは分離の問題で、あるときは「権利」にかんする空文句のなかで、すなわち権利が問題になるのではなく、なが年の奴隷制度の破壊が問題になるのだというすばらしい(「権利」軽視の深さという点で、また問題無理解の深さという点ですばらしい)文句のなかで、「不意にとびだしてくる」のである!

 こういう文句をロにするのは、資本主義と民主主義、社会主義と民主主義の関係を理解していないことをさらけだすものにほかならない。

 一般に資本主義、とくに帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに「理想的な」民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない。
(レーニン「ペ・キエフスキーへの回答」レーニン全集23巻 大月書店 p16-17)

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本史に道をひらく現代の歴史的な意義

 人類の「本史」についてのこういう展望を語ると、その時代にこそ生まれたかった≠ニいう感想を聞くことが、よくあります。実は、私は、そういう人たちには、「本史」の高みから現代の意義を語ったエンゲルスの言葉を読むことをおすすめしたいのです。

 一八七〇年代の後半、ドイツの党内で、社会主義の一大理論家だと自称して、のしあがった一人の人物がいました。エンゲルスは、ドイツの党の心ある幹部のたっての願いにこたえて、この人物がとりあげた理論の全分野で、そのエセ科学を粉砕し、本当の科学的な理論を展開する著作を書いたのですが、そのー大理論家≠ニはデューリングであり、エンゲルスが書いた著作とは『反デューリング論』でした。

 そして、エンゲルスがとりあげた論点の一つに、「本史」の高みから見た現代の意義というこの問題がありました。

 デューリングは、その著作のなかで、未来社会の人間は、「われわれの時代」を「精神的に未熟で幼稚」な「太古」として軽蔑的にふりかえるだろうといって、現代を卑下してみせました。

 この俗論に反撃して、エンゲルスは、人類史のなかで現代がもつ偉大な意義を、力強い言葉で、次のように浮き彫りにしました。

 「この『太古』」は、「のちのいっそう高度な発展全体の基礎である、という理由で、また、人間が動物界から出現してきたことをその出発点としており、協同社会をつくった将来の人間が二度とふたたびぶつかることのないようなたいへんな困難を克服してきた経過をその内容としている、という理由で、──どんな事情があろうと、将来のすべての世代にとっていつまでも歴史上のきわめて興味ぶかい一時代であり続けるであろう」(『反デューリング論』古典選書 上一六五ページ、全集I一二〇ページ)。

 現代のもつ人類史的な意義をこのように深くつかむからこそ、その現代の闘争によって切り開かれる「本史」のもつ壮大な意味をも、より的確に理解できるのだと言ってよいでしょう。

 エンゲルスは、続く文章で、「本史」を、「もうこのような困難と障碍(しょうがい)とに妨げられることのない将来の歴史的諸時期」と特徴づけた上で、そこでは「この太古に比べてまったく別な科学的・技術的・社会的な諸成果」が約束されることを指摘するのです(同前)。
(不破哲三著「マルクス未来社会論」新日本出版社 p225-226)

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◎「とりわけ婦人労働者の権利を守りその地位を向上させることは、女性全体の地位向上と、民主主義日本への道を切り開いていくうえで決定的に重要な意味をもっている」と。