学習通信060817
◎二度とない、すぐに終わってしまう時代……

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 「情報化」と並んで、現在の社会を代表する今一つの性質として、教育の場での「能力主義」をあげねばなりません。能力主義は企業のみならず、現実社会を動かす大きな原理となっています。そういった社会への適応の準備という名目で、学校教育の中へも能力主義は侵入し、強い支配力をもつようになりました。これは子どもの生活に大きい不安をもたらします。

 「能力主義教育」でもっとも重視されるのは、文字通り「デキル」ということです。「デキル」ことはよいことであって、「デキナイ」ことはよくないこととされます。そして大事なのは、デキルにしても、それが「ヒトリデ デキル」ことです。他人に依存すること、他人に「タスケラレル」ことはよくないこととされます。加えて「ハヤク」することが目標であり、「オソイ」ことは悪いこと、なくさねばならぬことです。特に能力主義と情報処理の結びつきは「能率至上主義」を強化し、「オソイコト」「時間をかけること」はもっとも忌わしい性質として位置づけられます。「ヒトリデ ハヤク デキルコト」、これが能力主義のスローガンです。

 「一人で早くできること」がなぜ悪いとの反論がすぐ返って来るでしょう。私もそれは悪いとは思わぬし、教育の中心的目的は能力を育てることにあるのは言うまでもありません。計算も、文章の読みも、当然一人で早くできることを可能にする指導法の考案は各先生に課せられた大きい仕事です。しかしそれが、単純な一方的強調で終る時、危険をはらみます。そこでは子ども同士が「できない子」「助けられる子」「遅い子」を軽蔑の対象としてゆくからです。
(岡本夏木著「幼児期」岩波新書 p8-9)

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 古生物学者井尻正二氏の選集──大月書店──が出版された。まだ配本は全部終ってはいないが、どこをあけても子育てに大変役立つ本である。私たち職員全員、この選集を最必読文献にして、いま読んでいる。

 第五巻「人間」の一九八頁の図──妊娠、育児期間の変化──は、現代の子どもを保育してゆくうえで、大変大きい示唆を私はうける。
 サルに比べるだけでなく、旧石器時代のヒトと比べても、現代人は、妊娠の期間から、永久歯の生えはじめ、生えそろう年がのびているのは面白いことである。

 つまり大人になる期間が大変のびてきている、という事実を一目で見せられておどろく。

 これは、近代社会にはいって、すべての人の教育される権利がみとめられ、日本でも明治以後、義務教育制ができて、最初は四年制であったのがやがて六年制になり、戦後は六・三制となって、今ではその後の高校三年間も、ほとんど義務化に近いほどの就学率になった、という、教育に対する要求とか、権利意識とかの変化ではなくて、生体そのものの成長がこのように変化した、という事実である。つまり、脳の発達とともに大人になる年がのびた、ということである。逆にいえば、子ども時代が大変長くなった、ということである。

 同書によると、もっともヒトらしい器官の一つ、脳の生長のわりあいも、新生児対大人でもとめると、三五〇g──四〇〇g対一三〇〇gで、生後一年で二倍、生後三年で約三倍、その後も少しずつ大きくなって、三〇歳から四〇歳で最大になる、とのことで、いっぽう類人猿では、ゴリラー三〇g対四三〇g、チンパンジー一三〇g対四〇〇g、オランウータン一三〇g対四〇〇gという数字であって、その間はわずか五年から七年、ということである。これは、永久歯の生えそろう年と関連深いことを先の図で見てほしい。

 このことは、私たちにいろいろのことを教えてくれる。つまり、早く大人になることが決してすばらしいことではなく、子どもの時代が長ければ長いほど、発達の可能性が大きい、ということであり、文字をまだもたなかった旧石器人と比べ、文字文化をもつようになった現代人は、からだまでゆっくりと大人になるまでの期間がのびた、ということをおしえてくれている。

 したがって私たちは子どもの生体の成長をよくみながら知的教育をすすめてゆかないと無理がくるということもおしえられる。

 現代のヒト科の子どもは、実にゆったりとその複雑な神経系の発達をまつように、からだ自身が大人になる期間をのばしているので、もしそれをいそいだなら、からだに無理がきて、ほとんど思春期頃になって、神経症状があらわれてくるのである。そうなってからあやまりに気づいてもその時はもうとりかえしのつかないこともありうる、ということをこの図は私におしえてくれる。

 「這えばたて、たてばあゆめの親心」といわれるが、もしこれをせきたてたなら、その時の神経系の発達を保障できずにしまうことだろう。だからこそ、這わせずにあるかせることのあやまりがいま問われ、また、這わずに立ってあるいてしまう子どもが、のちに脳の損傷をあらわにしてくることを、障害児の教育にたずさわる私はおしえられたのである。

 しかし、現代の子育て一般に、このいそぎすぎがないであろうか。いや、あまりにもいそぎすぎが多い、ということに私は心をいためている。

 這い這いを十分にさせずに歩行器でたたせてしまうだけではない。話しことばが十分に発達する余裕もあたえないで、すぐ文字のよみかきにうつってはいないだろうか。

 子どもたちに失敗の機会を与えず、良い子を早く期待しすぎていないか。ほとんどの子どもが今は就学前に保育園なり、幼稚園なりで集団生活をするようになったことは、子ども集団の存在が地域にむずかしくなった現状では大変必要なことでありながら、集団生活の名をかりて、子どもに小学生以後のような無理をしいている幼児教育があまりにも多いのではないだろうか。このことが子ども破壊につながっていないか、それを私は大変うれえているのである。

 つい先ごろも、小学校三、四年の子どもたちの、おとうさん、おかあさんに対する苦情をテレビできいたが、

「いま自分でしょう、と思っていたのに、お母さんからしなさい≠ニいわれるといやになってくる」
「早くしなさい、といわれるのがいやだ」
「もっと信頼してまってほしい」

 と、子どもたちは口々に訴えていた。

母親の方は、
「約束していたのに、きちんとしない」
「時間がかかりすぎる」
「いわれたとおりしないからついおこりたくなる」などといっていた。

 大人の目からすると、いかにものろく、また、するのかしないのかはっきりせずいらだってくるのだが、子どもはいちょうに「信頼してほしい!」と願っているのである。

 この子どもたちははっきりと親にむかって要求できる子どもたちだから救われるが、もし口でいえない子どもたちはどうなるのであろうか。その時はさまざまな神経症状があらわれてくるのだ。そしてそれがこうじてくると、ついにのびすぎた糸がプツンときれてしまう時がやってきてしまう。
 映画「育つ」3──安田生命事業団──における自閉児ちなみがこのことをおしえている。

 ちなみはさくらんぼ保育園で二年育った子どもである。

 私たちは最初、この子どもを観察し、これまでにうけた排泄や衣服の着脱の訓練がかえってこの子の発達には無理があった、とみた。そして水や泥とのあそび、ねがえり、這い這いなどのリズムあそび、友だちとのかかわりあいによるあそびを重視してきたのであった。その結果、ようやくこのましい発達をみせはじめて卒園した(映画「育つ」1、2を参照されたい)。

 ところが、あのにこやかな笑顔のちなみが、小学校に入学してから、安田生命社会事業団内の行動療法の治療室に通って、文字や数に無理にかかわらせられている状況が、あの映画でははっきりとわかった。行動療法についてはその批判を埼玉大の西村章次氏が書かれているし(ぶどう社)、また私も「さくら・さくらんぼの障害児保育」(青木書店)にかいているが、一対一で座らせられ指示されたことができた時はアメやチョコレートを口に入れられ、したがわないときはアメリカでは電気ショックも与える、というやり方である。その結果は無理なことを強いるため神経的症状を次第につよくあらわにだしてきてしまっている。

この映画をみたさくらんぼの職員たちはみんな悲しがった。神経症状を出す状態はたとえ、指示されたことが一時的にできても決して発達とみてはならない。効をいそぐと必ずそのあとに落し穴がまちかまえていることを見ぬかなくてはならない。子どもはあの神経症状で訴えているのだ。ちなみはまだことばで訴えることができない。「育つ」1でも、保育園の担任の教師がちょっと無理な指示を与えたとき、ちなみははげしく抵抗した。これはすばらしい生きる力である。こんなとき、私たちは無理だなっと思ったらすぐやめてもっともっとやさしい課題にかえている。

 ところが「育つ」3では、あとのほうびのチョコレートにひかれ、抵抗をやめる。この結果、手を眼前で細かくふる神経症状となってあらわれてきているではないか。

 私はちなみにかわり、心からの訴えをちなみをとりまく大人たちにせずにはいられずこうして筆をとっているのである。

 自分の足であるかせてほしい。たとえ、何度ころんでも、どんなにおそくても。──

 自分の手でやらせてほしい。たとえ、どんなにきずをつけても、どんなに下手であっても。──

 自分の頭で考えさせてほしい。たとえ、どんなに間違っていても。その間違いが、必ずその後の育ちに役立ってくれるのだから。──

 いかに待つことが大人にはつらいことだとしても、どんなにスピードの時代になったとしても、今の子どもたちは子ども時代は長くのびているのである。しかもそのことが未来に大きく羽ばたくことを保障しているのである。

 子どもが、自分の要求で食事をし、自分の要求で排泄し、自分の要求であそび、学習する、という日常を保障できる大人、ゆったりと、寛大に子どもをみまもることができる大人こそ、子どもからの絶大の信頼をかちとることができるのだ。

 わたしたちの園の子どもたちを大人の側からみてのかっこよさだけで判断して、「食事の躾ができていない」「ことばがわるい」「手足のよごれがひどい」「一日中あそんでいるが」などといわれつづけ、私たちはまた「けいこごとは保育園時代はさせないでほしい」「文字もおしえないでほしい」といいつづけてきて、一年生のときは「本のよみ方がおそい」「算数の理解もおそい」と、芳しくない評価をもらいつつも、高学年になるにしたがい、次第にのびてゆくのは、「早く早く」とせきたてない保育、ゆっくりゆっくり一歩一歩、自分であるかせる、自分で描かせる保育のつみ重ねによることが大きいことを知ってもらいたい。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p85-91)

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 人間よ、人間的であれ。

それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人にたいして、あらゆる年齢の人にたいして、人間に無縁でないすべてのものにたいして、人間的であれ。

人間愛のないところにあなたがたにとってどんな知恵があるのか。子どもを愛するがいい。

子どもの遊びを、楽しみを、その好ましい本能を、好意をもって見まもるのだ。口もとにはたえず微笑がただよい、いつもなごやかな心を失わないあの年ごろを、ときに名残り惜しく思いかえさない者があろうか。

どうしてあなたがたは、あの純真な幼い者たちがたちまちに過ぎさる短い時を楽しむことをさまたげ、かれらがむだにつかうはずがない責重な財産をつかうのをさまたげようとするのか。

あなたがたにとってはふたたび帰ってこない時代、子どもたちにとっても二度とない時代、すぐに終わってしまうあの最初の時代を、なぜ、にがく苦しいことでいっぱいにしようとするのか。

父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ちかまえている時を、あなたがたは知っているのか。

自然がかれらにあたえている短い時をうばいさって、あとでくやむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。

いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p101-102)

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◎「子どもが、自分の要求で食事をし、自分の要求で排泄し、自分の要求であそび、学習する、という日常を保障できる大人、ゆったりと、寛大に子どもをみまもることができる大人こそ、子どもからの絶大の信頼をかちとることができるのだ」と。