学習通信060808
◎悪いことばを使っても意外と平気……

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悪いことばを使ったときは聞き流す

 子どもが友だちと遊びだすころ、あるいは、幼稚園・保育園へ入園して、集団生活になれてくると、急に「ことばづかいが悪くなる」という現象がみられます。そして、おとなたちは、この「悪いことば」をたいへん気にします。

 たしかに、正しいことばをしっかりと身につけることは、子どもの思考をのばし、仲間と協力するうえで大切です。ですから、子どものことばの乱れにたいしては、心くばりが必要です。ただし、友だちと遊びはじめの時期のことばの指導で、「悪いことば」を気にして、子どもの発言をいちいち押えてしまうことはことばの習得に有害です。

 というのは、友だちと遊びはじめの時期(二、三歳)の子どもは、友だちと遊ぶなかで、ことばをたくさん(おとなの三倍もの早さ)覚えていき、仲間とのつきあいを広げていくわけです。しかも、おとなが何げなく使ったことば、友だちが使う耳新しいことばをすぐに覚えて使います(意味がわからなくとも、使うことの楽しさを味わいやがて自分のものにしていく)。そして、手当りしだいに覚えるなかに悪いことば──子ども自身悪いことばとは気づいていません──もいっしょに覚えるわけです。

 ところが、こうした子どもの意欲的なことばの学習にたいして、おとなの側では、子どもの妙な流行語や下品なことばだけが気になり、つい子どものことばづかいに干渉しがちです。

 一方、子どもは、何気なく使ったことばなのに、おとながむきになって禁止するので、そのことばだけが強い印象を受けることになります。たとえば「オカアチャンノバカ」「バカっていう子がバカなのよ」というやりとりをよく耳にしますが、これでは、親と子で「バカ」を学習しているといえましょう。

 なお、子どものことばづかいを気にするおとなは、自分自身が悪いことばを使っても、意外と平気です。しかも、おとなの悪いことばを子どもがまねすると、子どもにだけ正しいことばづかいを要求する矛盾に気がつきません。

 子どもの悪いことばの指導にあたっては、まず、おとなの側で正しい美しいことばづかいをすること──おとな同士、あるいは、子どもとの会話──が第一の指導といえましょう。そして、子どもがたとえ悪いことばを使っても何気なく聞き流すことだと思います。こうした正しい美しいことばのやりとりが、子どものからだのなかにしみこんでいくと、子ども自身悪いことばを使うことを気にするようになります。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p74-75)

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民主主義と集団的規律

 私の経験を書きつづけよう。
 労働組合が再建されたので、正式に職場総会を開いて当面の要求や争議資金の積立てなど組合の運動に必要なことがらをきめなければならなかった。職場幹事会で日時と議題をきめた。そのころは組合の集会は街の中にある組合事務所で開かなければならなかった。私は総会の三、四日前から職場の一人ひとりに総会の日時と議題を知らせてぜひとも出席してくれるようにたのんで歩いた。皆がこころよい返事をしてくれた。当日、私は一時間早退して会場の準備をして、組合員の集まるのを待っていた。だが、予定の五時半に集まってきたのは青年労働者が四人だけであった。六時まで待ってもそれ以上には集まらない。かんじんな職場幹事すら一人も顔を見せなかった。

 どうしようか? 私たちは五人で相談した。ここで初めての総会を流してしまったら、組合員を結集するきっかけを失ってしまう。そういうことにしないために、集まった五人でできることはなんだろうか? 結局、私たちは五人で総会をやってしまった。しかし、二〇〇人の職場の問題を五人で決議しても実際に効力はないので、この決議を全員の批准をもとめることにした。

五人で手わけをして文章をつづり、ガリ切りをして、@組合旗作製の件、理由、方法、予算、A争議資金積立の件、理由、方法、金額という具合にして、一項ごとに賛、否、意見の欄をつけ加えた議案書ができた。これを組合員に配布するについて私たちは一つの心配があった。あれほど念をおしてたのんであるのに職場総会に出席しない状態ではこうした議案書を配っても、はたして十分に回収できるかどうかという点である。相談の結果、議案書の表紙に何某殿と宛名を書いて配ることにきめた。こうすれば、回収できない分はだれとだれかがわかるから、その人びとにさらに意見を聞くことができると考えたからである。

 これは成功した。一人残らず議案は回収された。そしてほとんど反対なしですべての議案が承認された。なかには、「組合費を五〇銭にふやして、月二回くらい宣伝ビラをまけ」「機関紙をもっと回数を多く発行しろ」とかいう積極的な意見すらかなり書かれていた。これで、私たちは自信を深めた。だが、これほど熟心な組合員が、なぜ、大切な総会に一人も集まらなかったのだろうか?

 職場幹事会で批准投票の結果を集計したあとで私は、職場の全組合員を食堂に集めるよう提案した。工場内で集会をおこなった者は解雇するという工場規則があったので、私が食事をしているところへ、批准投票の結果を聞きに自然に人が集まったという口実でこれをおこなうことも話しあった。

 昼休みに、全員食堂に集まった。私は全部の議案が承認されたことを報告したのち、さて、これほど組合に理解と関心をもっている諸君が、なぜ、職場総会に集まらないのか? みんなが集まって討議せずには、組合はどんな行動もとることができないではないか? と質問して見た。

 「組合の集会はだらしがないからだ」というのが一致した答えであった。組合員の中には地元に住んでいる人も若干いるが、大部分は東京からの通勤者である。これまでの組合の集会では、地元の者は家に帰って夕食をたべてから出席する。なかには一杯のんで、風呂にはいってから出席する者すらある。それを待っているために開会が七時半にも八時にもなり、自然閉会は十時半にも十一時にもなる。遠方から通勤している人びとは、まっすぐ会場に行って、腹をすかせて、待たされて、会議が終わって家に帰れば、十一時半にも十二時過ぎにもなる。それから夕食をたべるのである。だから組合の集会にはいく気がしないというのである。

 私は「五時に仕事をしまって、全員がまっすぐ会場に集まれば五時半には会議をはじめることができる。二時間、みっちり討議して七時半に正確に会議を終えれば、ちょうど、二時間残業をしたのと同じことになる。それならだれにもむりなく集まれるのではないか」と提案した。「そんなうまい具合にいくか?」という疑問が出された。「できるかできないかは皆の心のきめかた一つにかかっていることである。そうしなければ組合は強くならない。ほんとうに組合をみんなのものにする気ならかならずできるやさしいことである」と説得したら全員異議なしということになった。

「それでも、だまって欠席したり遅刻する者があったらどうするか」という意見が出された。討議のすえ、皆できめたことを破って無断で欠席した者は一円の罰金をとる。無断で遅刻した者は五〇銭の罰金をとる。よんどころない事情で欠席する者は、帰り道だから会場に立ちよって、欠席の理由をのべて皆の承認をえて帰る。ということが全員一致できめられた。

 翌日、ただちに第一回の職場総会をもった。全員五時半までに集まって、当面の職場要求をきめて、七時半に閉会した。多少議論が残っていても、それは次回にまわすことにして七時半閉会を実行した。職場要求は翌日の交渉でぜんぶ貫徹して、組合員は組合にたいする信頼と確信を強めた。

 職場集会のこのような持ちかたは、他の職場にも採用されて、東芝の組合全体の集会規律になって、昭和二年九月の大争議までニカ年以上もつづけられた。

 労働組合のこうした厳格な規律の採用について、それは強制であるとか、個人の自由を認めないとかいう非難が、資本家や小ブルジョアの側から出されている。

 だが、集団の規律は労働者にとってはあたりまえのことであり、なくてはならないものである。労働者は、八時出勤といえば、一人残らず八時迄に出勤して、八時ピッタリにいっせいに仕事をはじめる。十二時になれば、いっせいに仕事をやめて昼食をとり、五時になれば、いっせいに仕事をやめて家に帰るというように大きな集団的規律に従って生活している。自分のすき勝手に、九時に出勤したり三時に帰ったりするわけにはいかない。自分のすきな時間に随時休憩したり、食事をしたりするわけにはいかない。遅刻や早退をすれば、賃金を差引かれる。仕事の都合では自分の都合を犠牲にしてもみなといっしょに残業や日曜出勤もしなければならない。

だから労働組合運動においては、労働者のこのような規律性を一〇〇%に尊重し、活用することが大切なのである。集会の時間をだらしなくすることが、かえって労働者の気に入らないのもそのためであるし、組合の団結と行動の統一を弱めることにもなるのである。私ののべたような規律は、自由主義的な職業を持つ人びとからみれば窮屈な強制と感じられるかも知れないが、労働者にとってみれば、自分たちがきめた自主的な規律であり、現に、自分が毎日生活している規律にすぎないのである。

したがって組合員の自発的な意志にもとづく集団的規律の確立は労働組合の団結と行動力を非常に強いものにする大切な要素なのである。

 こうした集会規律にもとづいて、私たちの組合では毎月一回位、全員の職場集会を開いて、問題を徹底的に討議して意志と行動の統一をはかった。必要なときには月二回でも三回でも開いた。これをすべての職場でやりその上にたって分会の執行部が活動した。この結果、職場闘争における組合員の行動は敏速で、統一のとれたものになり、いつも資本家や警察の意表をつくような臨機の行動で闘争を成功させることができた。

 余談になるが、昭和二年九月に会社は組合を破壊するために組合活動家を五九名首切った。一〇○○名の組合員中五九名の解雇だから組合員二〇名に一人の割で、いちばん積極的な活動家が首切られたわけである。このときは警官が四〇〇名も動員されて工場の中にまで配置されていた。そういう困難な状況の下でも、残った組合員はどうどうと職場大会を開いて、ストライキを宣言し、争議団本部に一人残らずひきあげるだけの実力を持っていた。

 また、この争議は八五日つづいたが、その途中で、警官のはげしい弾圧が加えられ、一部の幹部が動揺してかなりの裏切者が出た時期があった。争議団本部は休戦宣言を発して、一時、組合員を職場に帰した。このときは、すでに組合の活動家が一一二名も解雇されていた。組合員九名に一人位のわりあいで活動家が首切られていたのである。それでもなお、職場の活動家は残されていた。私たちは職場の活動家と連絡して、組合の陣容のたてなおしをはかった。

そして十一月に公会堂で従業員大会をひらいた。公会堂に集まれという組合のビラによる訴えに応じて、全組合員が予定の開会時間に公会堂に集合して、警官の包囲の中で、「要求がいれられなければ、再びストライキを決行する」という決議をおこなった。この決議に資本家は動揺して、組合の要求以上の解雇手当と組合再建資金を出してきた。この大会の模様と感激は当時の労働組合評議会執行委員長野田律太の評議会闘争史にしるされているが、警官の弾圧に一度つきくずされた組合が陣容をたてなおしてふたたび立ちあがるものすごい闘志と一致団結した行動に彼もおどろいている。これも二年間にわたる集団的な規律と徹底した民主主義にもとづく組合運営の結果のあらわれだと思う。

 当時と現在とでは労働組合の構成もちがうし、条件もちがう。だが組合を運営する原則には少しも変わりはないと思う。組合の運営において、第一に必要なことは、民主主義を徹底的に実行することである。これは、年に一回か二回の大会で運動方針をきめて、その実行は執行部にまかせるというような形式的なものではだめである。

何事も職場の大衆討議で十分に検討してから決定する。決定したら全員がそれを実行する。なかでも大切なことは、組合員の一人ひとりが組合を自分のものと考え、組合の活動に一人残らず、なんらかのかたちで参加するように運営、指導することである。これはじつに大切なことである。組合の集会が集まりが悪いというとき、労働者の気持の中には「おれ一人くらい行かなくても」という考えがある。おれ一人くらいという単純な考えが労働組合の団結をこわしてしまう。

 昔、ギリシャの国では、祭の前の晩に氏子がめいめいに、ぶどう酒をコップ一杯ずつ神殿の酒だるの中に入れて、祭の日にそれをとり出して飲む習慣があった。ある年の祭の日に酒だるをあけてみると、酒ではなくて水がたるに一杯はいっていた。これは、おれ一人くらい水を入れてもわかるまいと考えて、じつは氏子全部が酒のかわりに水をいれたためにこういうことになったのだといわれている。

 「おれ一人くらい」が組合の団結をくずし、本人にも災いがはね返ってくる。この考えは資本家が労働組合を切りくずすいちばん容易な手がかりになる。ちかごろさかんになったヒューマン・リレーション(経営組織の諸状況が人間関係によって規定されることを発見し、その間の因果関係を体系化した理論)いう方法で、「おい君……」という調子で肩をたたいてくる場合、「おれ一人くらい」という考えがあれば手もなくくずされる。だからこの考えは労働組合運動ではいちばん禁物である。「みんながやればおれもやる」という気持を「みんなでいっしょにやろう」にたかめることが大切である。ここから集団的な討議と行動が生まれる。

 組合運動をみんなでやるという場合、二十四時間、たえず組合員と組合のことを考える幹部も必要であるが、組合員にできる仕事をみんなで積極的にやるようにしなければならない。たとえば、組合費をすすんで納めることも組合活動であるし、門前でビラをまいている人に「ごくろうさん」と声をかけてビラを受取るのもりっぱな組合活動である。こうすれば、ビラをまいている人は元気づけられいっそう組合活動に精を出すようになるだろう。もし、受取ったビラをろくに見もしないで、もみくしゃにするようなことをすれば、ビラをまく人は失望し、自信をきずつけられるだろう。こういう細かいところにもだれにもできる組合活動がある。組合員のだれもが組合活動に参加できるかたちをいろいろと研究して全組合員のものにしてゆくこと、みんなの組合だという思想を徹底させて、みんなの意見を出し合って、みんなでまとめ、みんなで実行してゆくことが組合民主主義の内容だと思う。

 第二に、集団の規律である。これは労働者にとっては民主主義と対立するものではなく、民主主義とかたく結びついたもので、相互にたすけあう関係にあるものである。民主主義と集団的規律を統一して運営することが労働組合を強化するために欠くことのできない条件だと思う。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 p32-40)

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◎「自由主義的な職業を持つ人びとからみれば窮屈な強制と感じられるかも知れないが、労働者にとってみれば、自分たちがきめた自主的な規律であり、現に、自分が毎日生活している規律にすぎないのである」と。