学習通信060629
◎賃仕事をする人間……
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農奴は土地に属して、土地の領主に収穫をもたらす。
これに反して、自由な労働者は自分自身を売る、しかも切り売りするのである。
彼は、一日また一日、彼の生命を八時間、一〇時間、一二時間、一五時間と、いちばん高く買うものに、原料や労働用具および生活手段の所持者、すなわち資本家に、せり売りする。
労働者は、所有者にも土地にも属しないが、彼の日々の生活の八時間、一〇時間、一二時間、一五時間は、これを買う人のものなのである。
労働者は、自分がやとわれている資本家のところから、何度でもすきなだけ去る。
そして資本家は、もはや労働者からいかなる利益をも、または予期した利益を引きだしえなくなるやいなや、自分がよいと思うだけ何度でも、労働者を解雇する。
しかし、唯一の生計の源泉が労働力の販売である労働者は、その生存をあきらめないかぎり、買手の全階級すなわち資本家階級から去ることはできない。
彼は、あれこれの資本家に属してはいないが、資本家階級に属している。そして、そのさいに彼の問題となるのは、だれかに自分を売りつける、すなわちこの資本家階級のうちに買手を一人みつける、ということである。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p37-38)
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封建制度
奴隷反乱のためにゆきづまったもとの奴隷所有者たちは、譲歩せざるをえなくなった。かれらは、奴隷の身分を解放し、奴隷に小さな土地を分与し、農具や作物のタネや食糧をあたえて、耕作させるようにした。このやり方では、労働に精を出せばいくぶんでも奴隷自身のとり分がふえるから、奴隷がまえよりも積極的に生産にとりくむようになった。この解放奴隷のことを「コロヌス」という。
他面では、支配層は、以前の自由な小農民から土地をうばいとっていった。そして、かれらに土地を貸しあたえて、耕させてやるかわりに、いろいろの義務をおしつけた。
こうして、もと奴隷だったコロヌスと、大土地領有者に支配されたもとの自由民とのちがいはだんだんなくなり、中世の農奴階級へと合流していったのである。
当時の権力者は、広大な領地をもち、それの一部を、自分の臣下になって軍役に服することをちかった家来たちに分けあたえた。この土地を封土とよぶので、この時代の経済制度を「封建制度」というのである。こうして封建領主の階級ができ上がった。かれらは土地の所有者であり、かれらの搾取体制をまもるために、とくべつの権力機関がつくられた。その機関のなかでは、上位の者と下位の者との区別がきびしく、位階制の組織になっていた。これが封建国家である。領主たちは、たがいに土地と農奴をうばいあって、戦争をくりかえした。日本での封建的政治権力の確立は源頼朝の鎌倉幕府(一一九二年)、その完成の頂点は徳川幕府(一六〇三年)である。
封建制度という経済制度の特徴は、領主が大きな土地を所有し、それを農奴に分与し、そのかわりに、農奴の労働を搾取したことにある。ここで注意を要することは、農奴は、奴隷とちがって自分の経営をもっていたことである。かれらは、土地を所有することはできなかったが、農具を私有し、自分の計算と責任で生産をおこなった。だから、かれらは、自分のとりまえをふやすために、収穫全体をふやそうとして労働意欲をもやし、能率をたかめた。こうして封建制は奴隷制よりも生産力の発展をうながした。
出世の農民は、奴隷よりはましだというものの、やはり完全な人権をみとめられず、領主にたいして身分的に隷属していた。半ば奴隷だという意味で、かれらは「農奴」とよばれた。領主は農奴の剰余労働を搾取するために、法律をつくって農奴を土地にしばりつけた。耕作をなまける農奴は罰せられた。領主は農奴の剰余労働を、地代(ただし封建地代)というかたちで搾取した。地代はつぎの三つの形態をへており、同時にこれが封建制度の経済的発展段階をあらわしていた。
第一は、労働地代。夫役地代ともいう。これは農奴が、一年間のうち何日かを領主の直営地へ行って、タダで働かされる搾取形態である。のこりの日々は、農奴じしんの分与地で自分のために働く。
第二は、物納地代。生産物地代とか現物地代ともいう。これは収獲物を一定の割合で二つに分け、一部を領主にさしだす制度である。領主にとられる部分のことを日本では年貢という。
第三は、金納地代。貨幣地代ともいう。これは収獲物を販売してえた貨幣のうち、一定の金額を領主にさしだす制度である。こういうかたちの地代があらわれるのは、市場がかなりひらけ、商品=貨幣経済が発達してからである。
これらの封建地代は、ひじょうに高率なものだったので、農民はしばしば一揆をおこし、地代の引下げを求めてたたかった。領主階級は、農民がすこしでも不穏な動きをみせると、たちまち弾圧をくわえた。しかし農奴もひるまず、しばしば大きな反乱を組織した。とくに一四世紀のフランスの「ジャックリー」とよばれる一揆や、ワット・タイラーにひきいられたイギリスの一揆、一六世紀ドイツのトマス・ミュンツェルをリーダーとする空前の規模の農民戦争(これについてはエンゲルスのすばらしい書物『ドイツ農民戦争』をみよ)、一七〜一八世紀ロシアのボロトニコフ、ステパン・ラージン、プガチョーフの反乱、一九世紀中国の太平天国の乱、中世日本の土一揆・一向一揆・島原の乱などが有名である。
奴隷制度が崩壊したあと、古代の都市もまた荒れはてていた。中世の農奴たちは、さまざまの必要物を自給自足したので、商品経済がいったんおとろえてしまった。つまり、自然経済・現物経済に逆もどりしたわけである。
手工業品も農奴の副業としてつくられていた。ところが、生産力がすすむと、この手工業者が独立して、領主の城下や、寺院のまわりや、定期的な市のたつ商業中心地にあつまって住むようになった。領主たちから刀剣・よろい・馬具などの武具をはじめとして、装飾品、織物、家具などのさかんな注文をうけて手工業者の数がふえていった。手工業の技術もすすんだ。こうして手工業者と商人からなる新しい中世都市が生まれた。
都市は領主に物納あるいは金納の年貢をおさめさせられたが、しかし領主と争ってあるていどの自治権をかちとった。この自治権の一部はカネで買いとったものもあった。こうして都市には農村よりも多くの自由があった。中世ヨーロパには「都市の空気は人を自由にする」ということばが流行したくらいである。農奴は都市にあこがれた。領主は、農奴がみだりに土地を捨てることを厳重にとりしまったが、やはり都市へ逃げこんだ農奴がたくさんあった(日本には堺〔もと崇寿院の荘園〕と平野〔もと宇治平等院の荘園〕という二つの自由都市があったが、織田信長と豊臣秀吉に滅ぼされた)。
都市には、同職組合とギルドがつくられた。同職組合(ツンフト)は、手工業の親方の利益をまもるための組織であって、親方の数をきびしく制限し、また一人の親方のもてる職人の数を制限することによって、競争をおさえていた。親方の下には「徒弟」(見ならい)と「職人」(下ばたらき)がいたが、かれらが親方になる道はとざされていた。
ギルドは、商人の利益をまもるための組織であった。それは、商人どうしの競争をおさえたり、あるいは度量衡や商取引のルールをさだめた。
農村で農民一揆がおこったのにたいして、都市では、うちこわしとよぶ闘争がおこった。これは職人や徒弟その他都市貧民が、商人・高利貸・地主などの都市の富裕な上層階級、および領主の権力に刃向かったものであった。
さて封建時代も後半に入るとあらたに技術がすすみ生産力が高まってきた。けれども農民や手工業者は、この生産力を活用して、ぞんぶんに生産を拡大してゆくことができなかった。農民は封建領主のために地代というかたちでごっそり搾取されたから、農業生産の拡大資金をたくわえるどころか、食うのにこまるありさまだった。手工業の面では、封建制度特有の同職組合のきびしい制限が、生産の自由な拡大をはばんでいた。つまり、封建制度という経済制度が、社会的生産力の発展のじゃまものとなっていたのである。
はじめ、奴隷制度よりは進歩的な経済制度として、生産力の解放と発展に役立った封建制度は、時がたつうちに、その歴史的な役目をおえてしまって、新しい経済制度と交替せねばならなくなったのである。その新しい経済制度とは資本主義であった。
資本主義の発生
資本主義は、まず封建制度の胎内で生まれて、だんだん成長し、ついには封建制度を滅ぼして、これにとってかわるというようにしてできた経済制度である。
資本主義の出発点は、封建制度の内部にあった小商品生産である。小商品生産とは、農民や手工業者が市場で売るために物を生産することである。この、市場めあてに生産している農民や手工業者のことを、小商品生産者という。この小商品生産者(略して小生産者)が分解して、そのなかから資本家と労働者が生まれたのである。
ところで資本主義のにない手は資本家であるが、この資本家が発生するのにふたとおりの道順があった。
まず小生産者のなかから、一部の者がカネをたくわえ、生産規模を大きくするのに成功して資本家になる、そして昔の小生産者仲間のうちでおちぶれた人びとを、賃労働者としてやとうようになる。これが第一のコースである。
もう一つは、商人が産業資本家になり、小生産者を賃労働者にかえてゆくという「問屋制家内工業」のコースである。商人は、はじめ、小生産者の生産物をやすく買い占めるという方法で大きな利益をあげていた。つまり流通面から小生産者に吸着して搾取していたのである。ところが市場が拡大して注文がふえてくると、生産量を多くするために、商人は、小生産者にたいしてカネや原料の前貸しをおこなったり、ついには商人じしんが作業場をつくり、小生産者をそこへ集めて働かせる。こうして商人は事実上の資本家(産業資本家)になり、いままでの小生産者は事実上の賃労働者になってしまうのである。
第一のコースを主としてとったのはイギリスであり、ほかの国では第二の問屋制家内工業のコースが多くみられた。しかし、資本家と労働者を生みだしたという点では、どちらも同じである。
さて、資本主義が、封建制度にとってかわり、社会の経済体制としてひとりだちするまでのあらましをかんたんに説明しておきたい。
まず最初は絶対主義という政治制度ができたことである。絶対主義は、絶対王制ともよばれ、絶対権力をもった国王の中央集権的政治体制をさしている。これは封建時代のおわりごろ、どこの国にもあらわれた。イギリスではチュードル王朝、フランスではブルボン王朝、ルイ王朝、ロシアではロマノフ王朝、日本では明治の天皇制などがその例である。
このような絶対王制の出現は、じつはつぎのような、経済の変化によってうながされたものである。封建時代の後半には、生産力が発達し、資本主義生産がおこりはじめた。都市と農村の社会的分業がすすみ、また各地の経済的なむすびつきができた。こうして国が一つの経済的単位となり、「国民的市場」が形成された。商品の生産と流通という網で国全体がおおわれたのである。ところで、商品経済が発達するためには、自由に物が生産され、自由に生産物が売買できるという社会のシステムが必要である。
ところが、封建領主たちが国を細分し、べつべつの法律をさだめ、領内を通過する商品に、いちいち関税をかけていたことは、商品経済の発達のひどいさまたげであった。だから、国王が自分の権力をつよめるために、領主たちの分割支配を廃止し、政治を中央集権化したとき、商人や資本家はこれを熱心に支持したのである。
絶対君主は、封建領主階級の頭であった。けれども、かれは国王であったから、国力を強くする必要があり、そのためには財貨をかせいでくれる商人や資本家をほかの封建領主たちの圧迫から保護し、便宜をあたえてこれを育てなければならなかった。この資本家があとになって国王を滅ぼすのである。皮肉にも国王は、犬のつもりで、じつは狼の仔を育てていたようなものである。そういう運命になることを、国王も資本家じしんも知らなかった。資本家は国王の庇護に感謝し、せっせと生産の拡張にはげんだ。
一六〜一七世紀になると、コロンブスのアメリカ発見やヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰発見、マゼランの世界一周などの地理的発見とともに、世界貿易がどんどんひらけ、ヨーロッパの工業製品にたいする需要が急にふえてきた。そうなると、いままでのような小規模な生産では、まにあわなくなった。生産を急速にふやさねばならなくなった。そこで、作業場を大きくし、労働者をたくさんやとったが、この多数の労働者の「協業」は、労働の生産性をたかめた。とくに、「分業」が考案されてからは、ものすごく生産性が上がった。この分業による生産を工場制手工業あるいはマニュファクチュアという。
ところで、この資本主義生産の拡大のために必要な、賃仕事をする人間、賃労働者の大衆はどうしてえられたのだろうか。じつは、この大量の労働力をつくりだすために、近世のはじめ、絶対王制のもとで、資本の本源的蓄積あるいは資本の原始的蓄積とよばれるすさまじいできごとがおこったのである。
それは農民をむりやりに土地からひきはなして、プロレタリアにかえようとするものであった。
イギリスでは一六世紀いらい「土地囲込み」(エンクロージャー)という方法がとられた。土地所有者は、毛織物工業の原料になる羊を飼うために、領主は耕地にサクをめぐらす、そのなかの農民の家をたたきこわし、農民を土地から追いたてた。また村の共有地もうばいとられ、放牧地とされた。こういう乱暴なやり方に反抗した農民は国王の軍隊に鎮圧された。のちには、一八世紀になると「土地囲込み」を正当化する法律もつくられた。こうして、国家および搾取階級の暴力によって土地からほうりだされた農民は、あわれな浮浪者となって全国にあふれた。しかたがないので盗みを働くものも出た。ところが国家は、浮浪者取締法によって、この無宿者たちにざんこくな刑罰を科したり、強制労働におくったり生地獄のような目にあわせた。
そのありさまは、トーマス・モアの『ユートピア』という物語のなかで、描かれている。これはイギリスの近代史の最も忌わしい一ページであった。このようにして、資本主義の必要とする賃労働者の候補者が大量につくりだされた。
アメリカでは、土着民インディアンの多くが父祖伝来の土地をうばわれた。かれらは鉱山においたてられ、ひどい苦役のためにたくさん死んだ。つぎには、まるで猛獣狩りのようにアフリカで黒人狩りがおこなわれ、生捕られた黒人が奴隷としてアメリカに輸出された。かれらは、アメリカ南部の綿花栽培農場でひどい労働をさせられたのである。
日本では、明治維新以後、貧民の共有地の多くが国家の手にとりあげられたことや、また「地租改正」によって半封建的な高い小作料が維持されたことなどによって、農民の生計が困難になった。そこで農民の家族が家計補助の賃労働に出なければならないという、ねじまげられたかたちで、賃労働力の大群がむりやりつくりだされたのである。
「本源的蓄積」は、国によってさまざまの経過をたどったけれども、農民大衆の一部がむりに土地から引きはなされ、これによって賃労働者の大群がつくりだされたこと、およびこのことが国家権力の手で強行されたという点は、共通しているのである。
土地をうしなった農民大衆は、手工業の徒弟や職人、おちぶれた手工業親方などと合流して、近代の労働者階級の源流をかたちづくった。このほか、封建末期には領主の財政がくるしくなったので、たくさんの下級武士たちがいとまを申しわたされた。日本でも、幕末の失業武士たちは、「武士はくわねど高楊子」などと虚勢をはっていたが、だんだんカネが乏しくなると、家屋敷を売って裏長屋にうつり、カラ章の張りかえなどの内職でその日ぐらしをしたので「傘張浪人」とよばれた。かれらも結局は労働者階級の一人となるほかなかった。
このようにして、資本主義経済は拡大されていった。資本家階級ははじめ自分たちがまだヒヨコであったあいだは絶対君主に庇護されていたが、じぶんの実力ができてくると、資本主義のこれ以上の発展のじゃまになる絶対君主制をうちたおし、封建制度を葬ってしまった。これが「ブルジョア革命」である。一六四八年のイギリスのクロンウェル革命、一七八九〜九三年のフランス革命がその典型である。不徹底におわったが一八四八年のドイツ革命などもその例である。
日本では、幕末における商品経済、初期資本主義経済の発展とともに農民の階層分化がおこり、織物・醸造業をかねる地主・富農的=ブルジョア的要素があらわれた。これは幕府の資本主義抑圧政策に大きな不満をもち、急進的な討幕派となった。明治維新の変革によって成立した維新政府は、それ自体は封建的本質をもつ絶対主義国家であったが、一面では農業の封建的生産関係を改編して維持するとともに(半封建的農業体制)、一連の改革をおこなって急速な資本主義の発達に道をひらいた。
ブルジョア革命のさいに、封建勢力とたたかっていちばん奮闘したのは、貧民であった。かれらは平等と、徹底的な民主主義を要求した。近代のブルジョア革命によってどれだけ封建制が破砕されたか、どれだけ民主主義が実現されたかということは、この革命のさいに農民のエネルギーがどれだけ発揮されたかにかかっていた。けれども農民は、権力をとったり自分たちが主人公になる経済制度をつくることはできなかった。革命の成果をかすめとり、封建領主にかわって社会の主人公となったのは資本家階級であった。
近代の最先進国であったイギリスでは、一八世紀末から一九世紀はじめにかけての産業革命をつうじて、機械制大工業ができ上がり、資本主義経済は完全に社会を支配するものとなった。ほかの国ぐにもこれにつづいた。こうして一九世紀のなかごろまでに、おもな国ぐにの経済制度はすっかり資本主義化されてしまった。ずっとおくれて出発したロシアと日本も一九世紀の末には資本主義の仲間入りをすることとなったのである。
封建制度の胎内から生まれでた資本主義は、はじめのあいだは生産力の急速な発展に役立つ進歩的な経済制度であった。またそれは身分制度や人身的隷属を打破し、すべての人びとにたいして法律のまえの平等をつくりだした点で人類解放の歴史的な流れのなかで重大な進歩を実現したものであった。
しかし、資本主義経済はその内部に、どうにもならない矛盾・対立をはらんでいた。それは第T篇のおわりのところで述べたとおり、一方では生産が社会化されたのに、他方では社会の主要な生産手段がいまだ私的に所有されており、生産の成果が私的資本家的に取得されてしまうという矛盾である。
このために、第一には、一般の勤労者大衆は貧しく、これと対照的に富がごく一握りのブルジョアジーの手もとに集中してしまう。第二に、恐慌や不況が周期的にぼっ発して、せっかく生産されたぼう大な富の一部がこわされてしまう。こうした解決不能な現象は、資本主義という経済制度がけっして永遠につづきうるものではなく、おそかれ早かれ崩壊して、より高度な経済制度へ移ってゆかざるをえないということを示している。
(林直道著「経済学入門」青木書店 p196-206)
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◎「そのさいに彼の問題となるのは、だれかに自分を売りつける、すなわちこの資本家階級のうちに買手を一人みつける、ということである」と。