学習通信060627
◎幼虫の数は匹ではなく頭で……

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 しかし、労働力を働かせること、労働は、労働者自身の生命の働きであり、彼自身の生命のあらわれである。

そして、この生命の働きを、彼は必要な生活手段を自分に確保するために、第三者に売るのである。

だから、彼の生命の働きは、彼にとってはただ生存しうるための一つの手段にすぎない。生きるために、彼は働くのである。

彼は、労働を彼の生活のなかに数えいれることさえしない。労働はむしろ彼の生活の犠牲である。

それは、彼が第三者に売りわたした一つの商品である。

したがって、彼の活動の生産物もまた、彼の活動の目的ではない。

彼が自分自身のために生産するものは、彼が織る絹織物でもなく、彼が鉱山から掘りだす金でもなく、彼が建てる大邸宅でもない。彼が自分自身のために生産するものは、労賃である。

そして、絹織物や金や大邸宅は、彼にとっては、一定量の生活手段に、おそらく一枚の木綿の上衣や銅貨や地下の住居に変わってしまうのである。

そして、一二時間、織ったり、つむいだり、掘ったり、〔臼で〕礒いたり、建てたり、シャベルですくったり、石をくだいたり、運んだりなどする労働者──彼にとっては、この一二時間にわたる織布、紡績、採掘、〔臼による〕粉砕、建築、土すくい、砕石は、彼の生命のあらわれであり、生活であるとみなされるであろうか? 逆である。

彼にとっては、生活は、この活動が終わるところで、すなわち食卓で、飲屋の腰掛で、寝床で、はじまる。

これに反して、一二時間の労働は、彼にとっては、織布、紡績、採掘などとしてはなんの意味もなく、彼を食卓や飲屋の腰掛や寝床につれてゆくかせぎ口として意味があるのである。

もし蚕が幼虫としてその生存をつづけるために繭をつむいでいるとしたら、蚕は完全な賃労働者であるということになろう。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p35-36)

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人間とは「労働力」なのか

●労働とは──経済学にその解答は用意されているのだろうか

佐藤……労働って何だろうと考えると、えてして経済行為としての労働というより、働くことの意味とか、自己実現としての仕事とか、そういう人生的な方向にどうしてもいってしまいがちですね。確かに自分にとって働く意味とは何だろうとか、どんな職業に就くのが幸せなのだろうかと悩んだりすることもいいと思うんです。

 だけど、僕はそれをあえて「贅沢な思い」と思ってるんです。本当はそこで迷うことは正しいんでしょうけど、何だか贅沢な感じがするんです。だってついこの前まで、日本人のほとんどが「生きるため」に働いでいたわけですよね。日本が「悩めるだけ」豊かになったということの証だと思いますが……。僕個人としては、働くことの意味をあえて語るというのはあまりしたことがないし、したいことでもないんです。

 だから僕は、ここでは人は何のために働くべきかとか、労働は美しいとか、そういった形而上の解答じゃなくて、経済学的な解答を知りたいんです。税制が共同体のあり方を変えるように、労働や労働の制度が人間のあり方や社会のあり方を変えることも当然あるだろうし、もしそうであるなら、税に公平、中立、簡素という三つの原則があったように、労働とはこうあるべきだという理想論が経済学にはあるのか……。ここではそういうことを知りたいと思ったんです。

竹中……面白いですが、すごく難しい問題ですね。ケインズという学者がいました。二〇世紀を代表する偉大な経済学者ですが、彼は経済学者の仕事なんか全然大したことないと公言してたんです。経済学は要するに虫歯の治療みたいなもんだ。虫歯がなくなれば、歯医者の仕事はなくなる。だから、みんなが食べていけるようになれば、経済学者の仕事なんかなくなる。つまり食べていけるかどうかを問題にしてるうちはそれなりに幸せで、そこから先、衣食住がある程度満ちて、自分はどう生きるか、自分の幸せとは何か考えはじめたら、こんな厄介なことはない。だから、経済学者の仕事が終わったときに、実は本当の人間の問題が始まる、という言い方をケインズはしているんです。

 しかし、同時に難しいのは、「どう生きるべきか」なんてことを言っているのは人類の中でも限られたごく一部の人間だということです。コソボの人々の例を挙げるまでもないですよね。

 そしてもう一つ重要なのは、我々はそういう時代になって、新しい問題に直面すると同時に世界の大部分の人が今日口に入れる物さえなくて苦しんでいて、この瞬間にも飢え死にしている人がいるという事実をどう受け止めるかですね。

佐藤……ケインズの言葉を借りるなら、この地球はまだ虫歯だらけだということになりますよね。その虫歯を治療することが経済学の使命だとすると、食べられない人をなくす、つまりは貧困とか失業をなくすために経済学はあるということですね。

竹中……そうですね。言葉を換えれば、それが政府の最終的な目的なんです。

佐藤……みんなが好きな仕事をできるようになるために政府はあるんじゃなくて、人間として最低限の暮らしができるようみんなに仕事がある状態にする、失業をなくすっていうことですね。

竹中……労働を考えているうちに、経済学が持っている弱点が、労働に関する経済学に集約されているなあと私も思い始めたんです。「パッチアダムス」という映画、ご覧になりましたか。人間味あふれたお医者さんの物語ですが、この主人公が医学部に入ってまず言われたことは「感情は捨てろ」ということなんです。極端に言えば、医学というのは人間を蛋白質のかたまりと見るわけです。

 それに対する批判も当然あるけれど、人間を蛋白質のかたまりとして客観的に見るからこそ病気の根元がわかることがありますよね。我々はそれを「近代化」ないしは「科学的」と呼んできた。労働にもどういうわけかそれに近いところがあるんです。経済学は人間を「労働力」と見てるんですよ。

 我々は価値を生み出したい。生み出した価値は基本的には生み出した人のものになるから、それによって我々は豊かになれるはずだ。じゃあ価値を生み出すためにはどうしたらいいか……。価値を生み出すというのは言い換えれば「アウトプット」ですよね。アウトプットを生み出すには、「インプット」が必要ですね。そしてこのインプットには二つあると考えるわけです。

佐藤……資本と労働ですね。
(佐藤雅彦・竹中平蔵「経済ってそういうことだったのか」日本経済新聞社 p304-308)

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養蚕(ようさん)農民の仕事

 蚕は桑の葉を食べて生糸の原料となる繭をつくる。
 桑樹を栽培(栽桑という)して、蚕を飼う(養蚕)のが養蚕農民の仕事であった。養蚕の盛んな地域は、山間の扇状地、河川の自然堤防など水田に向かない土地が桑園に利用された。養蚕貧民の多くは自分の娘を工女として製糸工場に送り出した。養蚕農民は製糸工場にたいする原料と労働力の供給者であった。

 養蚕農民は蚕種(かいこだね)業者から蚕種を買う。蚕種は、特別に漉(す)いた厚手和紙の蚕卵(=さんらん)紙に産卵させたものである。これを種紙という。種紙は当初は一〇〇匹の雌蛾が産卵した物を使ったが、一八八六年以降は、微粒子病を予防するためニ八区画に仕切った木枠の中で産卵させる、これはパスツールの袋取り法の変形である。現在は、散卵といい野菜の種のように一粒ずつ分離した形で販売されている。

 購入した種紙は、紙の端に小さな孔をおけ、糸を通して日陰の風通しのよい場所に吊しておく。

 五月中頃になり桑が芽吹き始めると、蚕は孵化(ふか)することになる。ほんらい春蚕(はるこ)は、春になり桑の葉が芽吹きはじめるころになると、放置して置いても自然に孵化するが、孵化の時期がまちまちとなり、後の蚕の飼育に支障をきたすので、孵化室の温度と湿度を管理していっせいに孵化させることが重要となる。

 桑が発芽して葉が一、二枚開くころに、ちょうど蚕児(さんじ)が孵化するように温度を管理する。約二週間かけて孵化させる。一日ごとに華氏温度で〇・五度(摂氏温度で○・二℃弱)ずつ昇温していき、卵が青みはじめると一日一度(〇・六℃弱)昇温する、そうすると孵化するころに七〇〜七五度(二一〜二四℃)に達する。

 卵の中で蚕児が成長すると頭部が黒くなるので、卵が青みがかってみえる。そのため蚕を孵化させることを催青(さいせい)という。催青で大切なことは、室温を途切れなく上昇させることである。もし途中で温度が低下すると催青が不良となる。また空気が乾燥しすぎると孵化が妨げられるので、湿度を八○%程度に保つことが大切である。

 催青が順調に進むと午前九時ころいっせいに孵化が始まる。卵から孵化した幼虫は色が黒く、毛虫のように毛で覆われているので毛蚕(けご)あるいは蟻と呼ばれる。

 毛蚕を羽箒(はねぼうき)で種紙から紙の上に集める。この作業を掃立(はきたて)という。

 掃立直後に毛蚕の重量を計量する。種紙一枚(一〇〇蛾)から四匁(一五グラム)程度の毛蚕が孵化する。ほぼ四万頭の毛蚕がいる。蚕は昆虫であるが、幼虫の数は匹ではなく頭で数える。これは蚕が馬から生まれたという神話にちなむといわれる。毛蚕の重量で給桑(きゅうそう)量が決まるので、計量は大切である。

 計量が終わると、細かく刻んだ桑の葉を数いてある蚕座(さんざ)に毛蚕を移す。四匁の毛蚕に五・五坪の蚕座が適当である。養蚕の場合一尺平方(三〇センチ平方)の面積を一坪という。毛蚕が成長するにしたがって、順次坪数を増やしていく。

 一枚刷りの飼育標準表が、蚕種業者や蚕業試験場などによってつくられている。一九○○年ころ競進社が配布した「春蚕白玉種正蟻量四匁飼育標準表」や、東京蚕糸講習所でつくった「西ヶ原飼育標準表」などが広く養蚕農家で使われた。

 飼育標準表には掃立から繭になるまでの給桑作業と蚕室の温度・湿度の標準が事細かに記載されている。製糸業者と特約契約している場合は製糸工場が養蚕の技術指導をおこなう。さらに市町村農会の養蚕技術員が養蚕の指導をおこなった。

 蚕児は普通四回脱皮し、成熟して繭を作る。第一回の脱皮までを一齢(または獅子という)、第二回の脱皮までを二齢(鷹)、第三回の脱皮までを三齢(船)、第四回の脱皮までを四齢(庭)、成熟までを五齢(熟座)と呼ぶ。脱皮するとき、蚕は桑を食べるのを止め頭を上げて休眠する。これを眠(みん)という。一齢から三齢までを稚蚕、四、五齢を壮蚕と呼ぶ。

 蚕が繭を作るための足場を「まぶし」といい、蚕を蔟(まぶし)に移すことを上蔟(じょうぞく)という。掃立から上蔟までの日数は飼育の環境(飼育温度、給桑量)および蚕品種などによって異なる。春蚕の場合は三二〜二五日である。夏秋蚕の場合はこれより短い。

 競進社「飼育標準表」によって養蚕の仕事を簡潔に説明する。
 掃き立てた日の桑は、幅五厘(一・五ミリ)、長さ三分(一七センチ)に刻んで蚕に与える。五齢の一日目までは刻んだ桑葉(座桑 ざそう)を与え、それ以降は技に付いた葉(条桑=じょうそう)を与える。

 給桑回数は、一齢七日間で三五回、給桑量は一〇キロ、二齢五日間で二三回約一九キロ、三齢六日間で二三回四六キロ、四齢七日間で二三回一三〇キロ、五齢八日間で二三回五七〇キロ、合計三三日、給桑回数一三七回、給桑量七七五キロとなる。

 一齢の末期の坪数は四四坪であったのが、五齢になると三七〇坪が必要になる。

 給桑の間に、蚕の食べ残した桑と蚕の糞(蚕糞 こくそ)あるいは遺沙(いしゃ)を除去する除沙(じょしゃ)を行わなければならない。

 掃立直後の毛蚕の体重は、約〇・四ミリグラムであるが、給繭前の熟蚕の体重は毛蚕の約一万倍、約四グラム程度に増加する。

 五齢のときに蚕が食べる桑は、四齢までの三倍ほどになり、与えても与えても食べ尽くしてしまう勢いで、蚕が「わっさ、わっさ」と音を立てて勢いよく食べる。

 この時期の作業は養蚕作業の中でいちばん大変である。桑摘み、給桑を早朝から深夜まで続ける毎日である。

 蚕に濡れた桑を与えると、蚕座や蚕糞が水分を吸い、蚕室内の湿度が上昇し蚕病が発生しやすくなるので注意しなければならない。家中を蚕棚が占拠して人間は蚕の片隅で暮らすことになる。桑の葉は午後四時頃が一番栄養分が豊富なので、この時期に桑葉を摘んで、桑置き場に貯蔵しておき、分けてあたえる。蒸れて傷んだ葉を蚕は食べないので、葉を新鮮に保つことが大切である。

 五齢の蚕は、桑を食べるだけ食べると、だんだんと食欲を失いついには食べることを止める。体内に貯まっていた蚕糞を排泄し、蚕体が縮小し、半透明となる。蚕糞をすべて排泄すると、蚕は糸を吐き繭を作り始める。この状態となった蚕を熟蚕というが、この時期に上蔟を行う。最適の時期に上蔟を行うことが大切である、早すぎると蔟の中に蚕糞を排泄して蔟を湿らせ、繭を汚染する。早すぎても遅すぎても繭糸量が減少することとなる。上蔟中の湿度が高くなると繭の解舒(かいじょ)が不良となり、気温が低くなると熟蚕(ひきこ)の吐糸(とし)が鈍くなり溥皮繭を作ることになる。一方向からの光がぞくを照らすと、蚕は明るい方に多くの糸を吐く傾向があるので上ぞく中は蚕室を暗くする。

 蚕室の温湿度の管理と給桑の良否が、繭の収量に大きな影響をもつ。養蚕に適した温度と湿度を指示するために、特別の寒暖計が作られている。蚕室用の寒暖計は一八四三(天保一四)年頃、奥州岩代国伊達郡梁川村の蚕種業者によって、水銀体温計を改良してつくられた。彼はその寒暖計を「蚕当計(さんとうけい)」と名づけた。さらに蚕当計を使った標準飼育表をつくり、『蚕当計秘訣』として一八四九(嘉永二)年に出版した。これが日本における、寒暖計を使って蚕室温度を管理する科学的養蚕法の始まりである。

 上蔟後、春蚕では、六、七日、夏秋蚕では四、五日、蚕は蛹に変態し皮が硬くなる。この時に繭掻きをして蔟から繭を取りさる。

 良繭と、二頭の蚕が一つの繭を作った玉繭(たままゆ)(同功繭=どうこうまゆ)、下繭(溥皮繭、汚繭、死籠繭、形の不良繭)を選別する。

 上蔟後二〇日ほどたつと、蛹は繭の中で羽化して、繭を唾液で湿し穴をあけて出蛾する。

 繭掻き後、出蛾するまでの一〇日間の内に養蚕農民は、繭を製糸工場あるいはその出張所か繭買付商に売り渡さなければならない。繭のこうした性質によって、繭の売り渡しにおいて養蚕農民がいつも不利な立場におかれ、繭の買いたたきに泣かされる羽目になった。

 一九三〇年代から、催青から三齢の始めまでを稚蚕共同飼育所で共同飼育して、その後蚕を各養蚕農家に配り飼育することが、普及するようになった。
(玉川寛治著「製糸工女と富国強兵の時代」新日本出版社 p160-165)

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◎「彼の生命の働きは、彼にとってはただ生存しうるための一つの手段に……。生きるために、彼は働く」と。