学習通信060620
◎長所を見出す……
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おだてることとほめることはちがう
私どもが子どもの時代のほめられ方は、「えらくなった」 「お兄さんになった」という本人にとってわけのわからないはげましを受けたことをおぼえています。もっとも、ほめられたことはまれでしたが。
戦後のしつけの特徴は、子どもの立場の「尊重」ということが強くいわれ、しかる、罰するというやり方より、むしろ「しからずにほめる」という傾向が強くなりました。
ところで、戦前と比べ戦後のほめ方は、やや「子どもの立場」に立っているかに見えます。が、しかし、「しからずにほめる」という考え方もやはり問題がみられます。
おりこうねって ゆうと
いやさ
だって ぼく
へんな きもちに なる
この詩は、五歳の子どもとおかあさんの対話から生まれたもので、おとなのほめ方への率直な気持ちをあらわしていると思います。
子どもの要求、気持ちを深くとらえず、ただやたらにほめればよいと考え、それをつづけていますと、的はずれのほめ方──おだてやおせじにおちいり、けっきょく子どもは、おとなから離れていきます。子どもにたいして、正しい成長の評価──ほめるということと、おだてる、おせじをいうこととは、つぎの点で区別されましょう。
つまり、おだてる、おせじのばあいは、どちらも、えらい者、上の者(おとな)が、下の者(子ども)をだましながら、上の者の意に従わせる考え方、やり方です。ここには、伸間としてのつながりも実感もありません。
ところが、子どもの正しい成長への評価、はげましであるほめるということは、父母と子どもが仲間として生活し、仲間としての子どもが、気づいていないことを、仲間としてのおとなが助言を与えるということです。この結果、助言された子どもは、自分で気づき、成長に誇りをもち、さらに生活を力づよいものにしていくといえましょう。
なお、子どものおとなへの助言、批判についても、おとなはいいかげんな気持ちではなく本気で受けとめ、そんなにまで成長したということをともに喜んでやりたいものです。そういうこともほめ方のばあい必要です。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p94-95)
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高橋尚子──小出流「再生」術
プロ化宣言
この国のスポーツ界では、なぜか強権的、強制的な指導が幅を利かせてきた。選手とコーチの関係でいうと、教科書にない、コーチの理解の範躊にないものは、すべて否定し、矯正しようとする。残念ながらこうした状況は、いまも一向に改善されていないようである。
自分の成功なり経験なりをそのまま選手に押し付けることで指導とする風潮がある中、陸上競技の小出義雄監督の場合、明らかにそれとは異なる指導法をとっている。彼は、一般的には欠点と思われることの中にさえ、長所を見出すことができる、限りなく前向きな指導者なのである。
ここでは、小出と高橋を例に、才能を引き出す技術について考えてみたい。
積水化学の女子陸上競技部に小出義雄を訪ねたのは、高橋尚子の「プロ化」が世間を騒がせている二〇〇一年三月半ばのことだった。
「忙しそうですね」と切り出すと、高橋のプロ化騒ぎで予定が狂っちゃった、と言って小出は笑った。
「でもね、これだけ一生懸命やって、金メダルを取って『はい、ご苦労さん』じゃ選手がかわいそうだよね。できるだけ稼がせてやりたいと思いますよ、それは」
高橋プロ化──そのニュースを初めて目にしたときに、有森裕子のことを思い出した人は多かったのではないだろうか。
高橋の先輩である有森がプロ化宣言をしたのは、バルセロナに続いてメダルを獲得したアトランタ五輪後、一九九六年のことである。
有森はその年いっぱいで、所属していたリクルートを退社した。その後、有森は登録選手の立場のままで、CM出演なども含めて自由に活動できることを日本陸上競技連盟に求めたが、日本陸連は登録を保留した。
プロとして活動を開始した有森に対して、陸連から登録復帰が認められたのは九八年七月のことである。それまで一年三ヵ月もの間、有森は日本陸連登録選手として、レースに出場することもできなかったのだ。
日本陸上競技連盟にとっては、その名称が示すとおり、選手がアマチュアであることを崩すことは認められない。また一方では、選手の肖像権を一括管理し、それを利用した宣伝活動による収入を大きな財源にしている日本オリンピック委員会(JOC)の存在もある。
有森のプロ化以降も、その原則は変わっていない。彼女の登録復帰も、選手規定の改定によって認められたものにすぎず、その場しのぎ的な対応と言わざるをえないものだった。
有森の行動はアマチュアリズム至上主義≠ノよって歪められて伝えられることが多く、正当な評価を得たとは言い難い。
JOC、陸連のいずれもが、面子と収人のために躍起になり、選手個人の権利に目配りする余裕などまったくなかった。
こうした一連の騒動が、また繰り返される不安は少なからずあったのである。まさか、高橋も同じ苦労をしなければいけないことになるのか──そう考えた人も少なくなかったに違いない。
しかし、高橋のケースでは、話が難航していたわけではなかった。手順としては、小出が考えていたとおりに進んでいた。ただ、手続きに時間がかかっていたのである。
小出はおそらく、有森のときの轍を踏まぬよう、陸連に、JOCに、そして所属する積水化学に対して万全の根回しをしたに違いない。スーツ姿の小出をさまざまなメディアで見かける機会は、有森プロ化≠フときよりもずっと多かった。
メディアを通して世間に自らの主張を展開し、世論を味方に付けていたことも大きかった。
オリンピック後、小出はことあるごとに高橋のプロ転向を示唆する発言をし、その正当性を訴えてきたのだ。それが効を奏し、オリンピック以降、高橋のプロ化はほぼ既定路線となっていたといえる。
「有言実行」を身をもって示した男
著名選手を使って得た広告収人を一括管理し、各競技団体に分配するというJOCのやり方に対して、小出はこんな疑問を抱いている。
「弱い人と強い人を同じ待遇で扱おうとするいまの日本のやり方は、かえって不公平とも言えるんじゃないでしょうか。実力があって、はじめて目標が達成できるわけだけど、そのためには努力が必要なんだから」
安易に収入を得ることができる環境は、小さな競技団体にとっては、かえって努力を妨げる結果を生み出しはしないか、というのである。
「努力して、強くなった選手が実力に応じた収入を得る。それが、これから陸上を始めようっていう人たちに夢を与えることにもなるんです」
小出が言い続けてきたセリフである。競争原理の導人こそが小出の指導法の柱なのだ。
四月に入ると、JOC、陸連、積水化学の同意を得て、高橋尚子が自らの肖像を使用して活動することが正式に認められた。
陸連をはじめとする、関係団体の都合によって、いまだ「プロ」という呼び方は日の目を見ていないが、実質上は立派なプロ選手である。
少なくとも高橋は、有森ほどは苦労せずに、その立場を手に入れることに成功したのである。
当然のことだが、小出義雄の存在を抜きにして、それは決して成しえることができなかった。
小出は常に「有言実行」を身をもって示してきた男である。
有森裕子がバルセロナ、アトランタの二大会連続でメダルを獲得したとき、鈴本博美が世界陸上を制したとき、そして高橋尚子がバンコクのアジア大会を制し、シドニー五輪で金メダルを獲得、ベルリンで世界記録を出すに至るまで、小出は「できる」と言い続けてきた。
その足跡を振り返ってみよう。
基本はすべて人のつながりにある
高橋尚子が大学を卒業して実業団人りするとき、当時リクルートの陸上部監督だった小出を頼って、いわば押しかけ≠フような形で弟子入りしたことは有名な話である。
当時、小出はすでに九二年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した有森、当時の日本トップランナーといわれていた鈴木の指導者として、高い評価を受けていた。
その後、有森は九六年のアトランタ五輪で二大会連続となるメダル獲得を果たし、鈴木は九七年にアテネで開催された世界陸上選手権を制した。ここに至って、小出の手腕は広く一般にも知られるところとなるのだが、彼自身、その少し前に白らのもとに訪れた、スラリとした大学出の選手が、後にオリンピックで金メダルを獲得することになる逸材だとは思ってもみなかったに違いない。
「高橋はね、就職先がほぼ決まってたんですよ」
高橋の入門当時のことを、小出はそんなふうに語り始めた。
「もちろん、僕のところじゃないですよ。僕は大学を卒業した選手をとっていなかったんです」
高橋は当初、高校の教員になることを考えていた。そのために大学で教員免許を取得し、両親も彼女が教員となって地元に帰ってくることを望んでいた。しかし、大学卒業が近づくにつれて、彼女の陸上への思いは断ち切り難いものとなり、誘いがかかっていた実業団で競技を続ける決意をする。
「それで、彼女の高校の恩師にそれを報告に行った。その人がたまたま僕の後輩の教え子でね。僕の名前を出してくれたというんですよ」
実業団に行くのなら、日本一の監督であるリクルートの小出義雄に入門すべきだ──恩師の言葉に従い、高橋は小出義雄に弟子入りすることになる。
「どうつながってるかわからないよね。人は大切にしないと……。僕はいつもそう考えてるんですよ」
基本はすべて人のつながりにある──小出はそう考えているのだ。
高橋の場合は話が回り回ってリクルートに入門することが決まったが、それとて決して偶然ではない。小出の人徳が可能にした、必然の出会いなのである。
ほめて、ほめて、ほめ倒す
小出はかつてマスコミに、大学を卒業した選手はとっていなかったと語ったが、それは本当ではない。高橋以前にも、大学を卒業して小出のところに押しかけて入門した選手がひとり存在した。有森裕子である。彼女も高橋と同じように、大学卒だからという理由で一旦、入門を断わられている。
オリンピックニ大会連続メダル獲得という偉業を成し遂げた有森も、入門当時はまったくの無名選手だった。
「あの子は遅くてねえ」
小出は笑いながら話した。
「ベストタイムでも十六分はかかってました。五〇〇〇メートルでね」
現在の五〇〇〇メートル日本記録は、シドニー五輪の一万メートル日本代表・弘山晴美が一九九八年に記録した十五分○三秒である。
層が厚くなったといわれる現在の日本の女子中長距離界にあっては、この距離を十五分三十秒前後で走る選手は決して珍しくない。だが十六分というのは、一流と呼ぶにはほど遠い、むしろ凡庸といってもいいタイムである。
「ただね、負けん気というか、それは強かった。有森の『負けたくない』『絶対勝つんだ』という気持ちの強さは、ちょっと信じられないほどなんです」
そんな気持ちの強さに、指導者である小出はホレたのである。
小出の指導は、常に相手の長所を見出し、そこにホレ込むことからスタートする。選手のことをほめて、ほめて、ほめ倒すのだ。
「有森の場合は、気持ちの強さと、坂道が得意だったこと。この長所をいかに生かしてやるか、そこでした」
五〇〇〇メートルではタイムがそれほど上がらないが、この長所を生かせばマラソンなら……。小出はそう考え、マラソンランナー有森を誕生させたのだ。
単純計算でいえば、五〇〇〇メートルを十六分三十秒のイーブンペースで走りきることができれば、四二・一九五キロメートルを二時間二十分弱で走ることが可能ということにはなる。実際問題として、自分の最高に近いスピードで最初から最後まで走りきることは無理な相談だが、有森はその可能性を感じさせる気持ちの強さを持っていた。
小出はそこにかけてみようと思ったのだ。
気持ちの強さ≠ヘ、裏を返せば頑固さ≠ノつながる。有森のそんな一面を感じさせるエピソードがある。
アトランタ五輪の前のことである。
有森はレースに臨むにあたって、ソックスを履かずにシューズを身に着けようとしていた。
「それを聞いて、僕は反対したんですよ。あんな暑い中でやるレースで、素足にシューズでレースをしたら、絶対に靴擦れを起こしちやいますよ。四二キロも走り抜けるはずがない。で、僕は靴下を履いたほうがいいよ、って言うんですが、彼女は頑固だから、自分がこうと決めたら絶対に聞かない」
小出は、いかにして有森を説得するかに腐心した。
「結局、実際に体験させるのが一番だと思って、試走させることにしたんですよ。靴下なしでね」
笑いながら小出は振り返るが、それは思いのほか仰々しいものだった。
アトランタ市警に協力を仰ぎ、なんとコース上の信号をすべてストップしてもらったうえでの試走だったのだという。本番さながらである。
「もちろん、はじめは警察がどの程度協力してくれるかもわからない。でも、最終的には地元の警官を総動員してくれて、全面的に協力してくれました」
そうまでして実現した試走だったが、小出が思ったようには、ことは運んでくれなかった。
「走ったら靴擦れしてないんですよ。それで、もう一回走らせた。今度は警察も最初から協力してくれました(笑)。で、やっと靴擦れして『監督、痛くて走れません』ということになって、ついに納得してくれたんです」
二度も信号をストップさせた結果が銀メダルというのなら、アトランタの市民にも申し訳が立つ。
普通の指導者であれば、最初に「ソックスを履かない」という選手の考えを耳にした時点で、いかに本人を説得するかという点に力点を置くだろう。
あるいは、頭ごなしに選手の考えを否定し、強引に自分の考えに従わせることも考えられる。日本によくある、体育会的℃t弟関係であれば、このケースが圧倒的に多いだろう。
しかし、小出の場合は、選手の考えを頭から否定しない。長所を誉めはするが、欠点をけなすようなことは決してしないのだ。遠回りであっても、選手本人のやる気≠最優先に考えるのが彼のやり方なのだ。
欠点の中にも必ず長所がある
高橋尚子については、こんなエピソードがある。
「あの子の場合はね、今でもちょっと残ってるんですが、左腕の振りが小さく、右腕を大きく横に振って走るクセがあるんです」
確かに、高橋は右腕を女の子走り≠フように横に振って走る。これは彼女独特のフォームといっていいだろう。
「彼女は中学から高校、大学と、ずっとそれを直せって言われてきた。それを直さないと速くなれないって。でも僕は『いい腕の振りだ』って誉めたんです。いままでそんなこと言われたことなかったから、本人はキョトンとしてましたけど。でも、それは決して嘘を言ってるわけじゃない。少なくとも、振りが小さいということは、速く動かすことができるということで、効率的なんですから」
「腕を振れ」「足を前に出せ」「ヒザ(腿)を上げろ」──多くのランナーは、コーチからこんな指示を受ける。これらを満たす走りこそが無駄のない理想的なフォームだというのが陸上競技の通説であり、競技者は陸上を始めた頃から同じセリフを繰り返し聞き続けることになる。
しかし、小出の場合、これとは正反対の指導をする。
一般的には欠点と思われることの中にさえ、彼は長所を見出すことができる。限りなく前向きなのである。
「でも、そのままの走りじゃやっぱりバランスが悪い。それで、それまで練習では道路の右側を走っていたのを、左側を走るように変えたんです」
これについては、若干の解説が必要かもしれない。
道路を断面で考えると、微妙にではあるが通常、中央部分が一番高く、両端に向かって低くなるカマボコ状≠フ構造になっている。少々誇張していえば、道路の右側を走るということは、右に傾斜した道を走ることと同じなのである。その状態で走ろうとすると、選手は体を右に傾けた状態で走ることになる。まっすぐ走ろうとすれば、無意識に左腕の振りを抑え、右腕を大きく振ることになる。
もちろん、実際にはその傾斜はごくわずかなものである。ランナーでさえ、ほとんど体感できない傾斜といえる。それでも、それを長い間積み重ねることで、小出は結果を導き出してみせたのだ。
「三年かかったけど、ずいぶんバランスが良くなりましたよ」
小出はさらりとそう言った。
バランスさえ是正されれば、後に残るのは小出が誉めた、ロスがない腕の振りだけということになる。
有森のときに大がかりに信号を止めた荒治療≠ニは対照的に、高橋の場合は三年もの時間をかけることで、根気よく彼女の走りのバランスを治したのである。
ふたつとも決してたやすい話ではないが、それをさらりとやってのけてしまうところに小出の指導がマジック≠ニ呼ばれる所以がある。
普通ならば苦痛であり、忍耐を必要とすることであっても、小出にとっては至極当然の手順なのである。そしてこれは、前述した彼の前向きさと無縁ではない。
彼の指導力は、こんなセリフにも見てとることができる。
「僕はね、レースの結果が悪くて選手を叱ったことは一度もないんですよ」
そして、こう続けた。
「だって、考えてみてくださいよ。レースの結果は、僕の指導の結果でもあるんです。選手は僕の指導で走ってるんですから。その走りを否定することは、自分の指導法は間違ってるって公言してるようなものだと思うんですよ。みんなよくそんなことできるよなって」
説明を聞けば納得できる。確かに、簡単な話ではある。しかし、自らの口ではっきりそう言える指導者は小出義雄をおいて他にはいない。
(二宮清純著「「超」一流の自己再生術」PHP新書 p61-75)
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◎「子どもは、自分で気づき、成長に誇りをもち、さらに生活を力づよいものにしていく」と。
このごろ「おだてることとほめること」をごっちゃにする大人に青年が潰されています。