学習通信060616
◎たがいになんの関係もない……
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さて、労働者が資本家に彼の労働力を売ったのちに、すなわち、あらかじめ約定された賃金──時間賃金あるいは出来高賃金──とひきかえに彼の労働力を資本家の自由処分にゆだねたのちに、なにがおこるか? 資本家は労働者を彼の作業場または工場へつれてゆくが、そこには仕事に必要なすべてのもの、すなわち原料、補助材料(石炭、染料など)、道具、機械が存在する。
ここで労働者は苦労して働きはじめる。彼の日給は、さきにのべたように三マルクだとしよう。
──彼がそれを時間賃金で手にいれるか、出来高賃金で手にいれるかは、このばあいすこしも問題ではない。
われわれは、ここでもまた、ふたたび、労働者は一二時間のうちに、消耗された原料に、彼の労働によって六マルクの新価値をつけくわえ、この新価値を資本家は完成品の販売によって実現するものと、仮定しよう。
彼はそのうちから労働者に三マルク支払うが、残りの三マルクは、彼自身のものにする。
ところで、労働者は、一二時間に六マルクの価値をつくりだすとすれば、六時間には三マルクの価値をつくりだす。
こうして、彼は、資本家のために六時間働いたあとでは、労賃としてうけとった三マルクの対価を、資本家にたいしてすでにつぐなっているのである。
六時間の労働ののちには、双方とも清算ずみで、どちらも相手方に一文(いちもん)の借りもないのである。
「ちょっと待て!」と、今度は資本家がさけぶ。「私は労働者を、まる一日間、一二時間やとったのだ。しかし、六時間は半日だけにすぎない。だから、残りの六時間も終わるまでさっさと働きつづけたら、そのときはじめてわれわれは清算ずみになるのだ!」と。
そして労働者は、実際、彼が「自由意思で」とりむすんだ契約に従わねばならないのであるが、その契約によれば、彼は、六時間の労働を要する労働生産物とひきかえに、まる一二時間働く義務をおうのである。
出来高賃金のばあいも、まったく同じである。われわれの労働者が一二時間に一二個の商品をつくるものと、仮定しよう。
その各々は、原料と摩損とにニマルクを要し、そしてニマルク半で売られる。
そこで資本家は、そのほかは以前と同じ前提であるとすれば、労働者に一個あたり二五ペニヒ〔一〇〇ペニヒは一マルク〕をあたえるであろう。
すなわち、一二個で三マルクになり、それだけ手にいれるのに労働者は一二時間を必要とする。資本家は一二個にたいして三〇マルクをうけとる。
原料と摩損とで二四マルクをさしひけば六マルク残るが、そのうちから彼は三マルクの労賃を支払い、三マルクをポケットにいれる。
まったく前と同じである。このばあいにもまた、労働者は六時間を自分のために、すなわち彼の賃金を埋め合わせるために(一二時間の各一時間に半時間ずつ)、そして六時間を資本家のために、働くのである。
もっともすぐれた経済学者たちでさえも、彼らが「労働」の価値から出発したかぎり、ぶつかって失敗した困難は、われわれがそのかわりに「労働力」の価値から出発するやいなや、きえてしまう。
労働力は、今日の資本主義社会では、商品であり、他のどの商品とも同じように商品であるが、しかし、まったく特別な商品である。
すなわち、労働力は価値の源泉であり、しかも適当にとりあつかえば、それ自身がもっているよりも大きな価値の源泉であるという、特別な属性を、価値を創造する力を、もっている。
今日の生産の状態のもとでは、人間の労働力は、一日のうちに、それ自身がもっており、そして必要とする価値よりも大きな価値を生産するだけではない。
新しい科学的発見がなされるごとに、新しい技術的発明がなされるごとに、労働力の一日分の費用をこえる労働力の一日分の生産物のこの剰余は大きくなり、したがって、労働日〔一日の労働時間〕のうち、労働者が彼の日給の代償をかせぎだす部分はみじかくなり、したがって他方では、労働日のうち、労働者が資本家にたいして、その代償を支払われないで自分の労働を贈与しなければならない部分が長くなるのである。
(マルクス著「賃労働と資本 エンゲルスの序論」新日本出版社 p22-25)
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4 労働力の使用価値
さて労働者から労働力という商品を買った資本家は、労働者を生産過程で働かせる。つまり、買った労働力を消費するのである・そうすると、労働という生産的エネルギーが出てくる。労働こそ、労働力商品の使用価値なのである。
ここで第1章の「商品と価値」で述べたことをおもいだしていただきたい。労働こそは、価値の実体であり、価値をつくりだす源であった。だから資本家が、買い入れた労働力を消費する(労働者を働かせる)と、新たな価値がつくりだされ、この新しい価値は、労働力商品の買い手である資本家のものとなる。
もういちど、説明しよう。商品は価値と使用価値をもつ。労働力も価値と便用価値をもつ。ところが労働力の使用価値とは労働のことであり、労働は価値の源である。だから労働力の使用価値からは、ふたたび価値がつくりだされる。これを図にしてみよう。
ふつうの商品
─価値
─使用価値
労働力商品
─価値
─使用価値(労働)⇒価値
労働力はそれ自身が価値をもった商品である。その労働力を消費すると、また価値が出てくる。
価値のもとは労働である。その労働は労働力からでてくる。だから労働力とは、価値のもとのもとである。この、価値のもとのもとである労働力が、それ自身の価値をもっている! このところをハッキわかっていただきたい。
いま、労働力商品にかんして二通りの価値が問題になっている。この二つの価値の関係がわかればよい。
一つは、労働力それじしんがもっている価値、すなわち労働力の価値(=労働者とその家族が生きてゆくのに必要な生活資料の価値)。この価値を、資本家は賃金というかたちで労働者に支払う。
もう一つは、生産過程において労働力が新たにつくりだすところの価値。この価値を、資本家は労働者から受けとって自分のものとする。
この二つの価値はまったくべつべつの原理で決まる。
「労働力の価値」のほうは、労働者の生活資料の価値、つまり標準的な必要生活費で決まる。
「労働力が新たにつくりだす価値」のほうは、生産過程における労働時間の長さによって、決まる。
だから、その二つの価値の大きさのあいだには、たがいになんの関係もない。そして「自分のもっている価値よりも大きい価値をつくりだすことができる」という点に、労働力のもつ特殊な使用価値がある。
大昔、生産力の低かった時代には、人類は、必要な生活資料を生産するためにずいぶん長時間の労働をしなければならなかった。ところが、生産力が進歩発達するのにつれて、ますますわずかの労働時間で生活資料を生産できるようになった。こんにちの資本主義は非常に生産力が高いから、労働者の家庭で消費されている一日分の生活資料を生産するには、ほんの数時間の労働でこと足りる。
いいかえると、労働者は、ほんの数時間働くだけで、自分の労働力の価値(生活資料の価値)に相当するだけの価値を、りっぱに生産してしまっているのである。経済統計学者の計算によると、現在の日本では、労働者の賃金に相当するだけの価値は、だいたい一日ニ〜三時間の労働でつくりだせているといわれている。
わかりやすくするために、普通の平均労働が一時間に三〇〇〇円の価値をつくりだし、労働力の価値が一日あたり九〇〇〇円にひとしいと仮定しよう。労働者は、自分が賃金としてうけとる労働力の価値をうめあわせるだけの価値をつくりだすには3時間働けばよいことになる。
しかし、こんな計算をして「公正に」労働時間を3時間と決めるような「愚直」な資本家はいない。なぜなら、こんなことをしていては、かれは労働者に九〇〇〇円を支払って、そして労働者から三〇〇〇円×3=九〇〇〇円を受けとるだけであって、差引き少しももうけがでてこないからである。
資本家としては基準労働時間をできるだけ長くしたい。労働者としてはできるだけ短くしたい。だから労働時間がいくらになるかということは、まったく労資の力関係によって決まるものである。はじめは一六時間とか一二時問とかいうようなひどい長時間労働が法律でみとめられていた時代もあった。
が、世界の労働者階級は労働時間短縮のたたかいを、うまずたゆまずくりかえしてきた。とくに一八八六年五月一日、シカゴを中心にアメリカの労働者が八時間労働制を要求してはげしいゼネストをおこなったのは有名である。今日でもこの争いを記念して五月一日には全世界労働者の団結と連帯を示す大統一行動がおこなわれている(メーデー)。そしてついに、一九一七年のロシア社会主義革命によって樹立されたソビエト政権は、世界ではじめて八時間労働制を法制化した。その影響のもとに、ようやく一九一九年、ILO(国際労働機関)において八時間労働制条約が採択されたのである。しかし、当時の日本は、この条約にくわわらなかったので、日本の労働時間は外国にくらべてずっと長かった。日本で八時間労働制がみとめられたのは、やっと第二次大戦後の民主改革の一環としての「労働基準法」(一九四七年)によってであった。
しかしこの八時間労働でも、労働者のつくりだす価値は、労働力じしんの価値をはるかに上回っている。前の例でいうと、労働者ははじめの3時間ですでに労働力の価値をうめあわせる価値をつくりだし、あとの5時間には、資本家のもうけとなる余分の価値をつくりだしていることになる、この資本家のもうけとなる余分の価値のことを剰余価値という(くわしくは次章)。
だから資本家は、労働者にたいして、かりに労働力の価値どおりの賃金を支払ったとしても、なおかつ剰余価値をかくとくすることができるわけである。
常識の世界では、搾取が生じるのは、労働者にたいして労働力の価値以下の賃金しか支払われないからだと考えられている。たしかに労働力の価値以下の賃金しか払われなければ、それだけ搾取が大きくなることは当然である。けれども、かりに労働力の価値どおりの賃金が支払われたとしても、なお資本による労働の搾取はおこなわれている。──これが資本主義のしくみだったのである。
(林直道著「経済学入門」青木書店 p34-37)
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◎「新しい科学的発見がなされるごとに、新しい技術的発明がなされるごとに、労働力の一日分の費用をこえる労働力の一日分の生産物のこの剰余は大き」くなると。