学習通信060601
◎プロレタリアートそれ自体を違法……
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雇用契約と労働者
民法では、自由、独立、平等に個人というものが登場して、一方の当事者となって労務に服することを約束する。そして相手側の個人であるものも、また当事者としてでており、これがその労務に対して報酬を支払う。こういう関係を約束することが、雇用契約になっている。
だから、雇用契約をむすべば、たしかに労働者と使用者ということになるわけだが、雇用契約をむすぶまでの人間というのは、まったく平等、独立の個人ということになる。
ところが労働法は、労働者あるいはそれに対応して使用者という言葉を使っているが、それは雇用契約をむすんではじめて労働者になったり、使用者になったりする、という人間をとらえているわけではなく、むしろ、労働者だからこそ労務に服することを約束することにならざるをえないという、社会的事実をにらんでいるのである。
だから、労働者という場合、労働法においては、社会的に労働者であるものをさしているのである。
社会的に労働者であるものは、資本家と対立するものである。ファッシズムをこえた今日では、国家の階級性はおおいかくすべくもなくなっており、総資本なるものが、独占資本と公的機関との結合を軸とした様相をしめしている。
かかる時代的背景のもとに公務員の労働関係は、民間と共通の性格をもつ「労使関係」として、労働法の対象となっているといってよい。
労働法は、たんに「使用者」という人間像をとらえているが、それが労働法にあらわれるのは、使用者が資本家たる性格をもつからだといってよい。
労働法上の労働者は、資本家と対立する社会集団人であるが、もとより資本制社会において対立するのであり、そのかぎり労働法は、労資の敵対的矛盾を承認するわけではなく、したがって革命的人間として労働者をとらえるのではない。
かえって、使用者のもとでの従属労働によって生活せざるをえない人間をとらえるのである。かかる人間は、社会集団としての労働者にほかならない。
労働法は、まず彼らの保護をとりあげる。はじめは慈恵的人道主義的な観点から「保護」するが、今日では労働者の貧困や災害は、資本制社会それじたいの社会的責任であることを支配階級も承認せざるをえなくなっている。
そこから人間らしい生活をなす権利、ないし生存権の保障ということが法の原理となる。
しかし個別資本にしてみれば、生存権無視が利潤の条件なのだから、労働保護立法をなかなか守りたがらないというわけである。
労働者を一定の社会集団に属する人間──彼の自由意思によってではなく、彼の意思をこえる社会的な力によって労働者集団に属するのだから──としてとらえるということは、労働者は社会集団として社会的に規定せられる行動方式、ないしモラルによって行動するほかはない人間だ、ということを承認することでなければならない。
そして労働者は、社会的に団結せざるをえないし、団体行動をなさざるをえないことはいうまでもない。このような集団的行動の形は、しかし法律は容易に承認しようとはしなかったものである。
だが、これを認めないかぎり、本当の意味で労働者を社会的人間としてとらえるものとはいえないし、独自の法原理をもつ領域としての労働法の展開をみることはできない。
(沼田稲次郎著「運動のなかの労働法」労働旬報社 p25-27)
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そしてもし、こういう美しい約束が偽善であることをはっきりと見きわめたいならば、彼らの実際のやり方を見るがよい。
われわれは以上の報告のなかで、ブルジョアジーがありとあらゆる方法で、自分たちの目的のために、どんなにプロレタリアートを搾取しているかを見てきた。
しかしこれまで見てきたのは、個々のブルジョアが個別的にプロレタリアートを虐待していることだけであった。
いまやわれわれは、ブルジョアジーが党派として、いや、まさに国家権力として、プロレタリアートに対立して行動している関係にうつろう。
──まず第一に、立法全体が無産者にたいし有産者を守ることを目的としていることは明白である。無産者がいるという理由だけで法律が必要になるのである。
そしてこのことは、プロレタリアートそれ自体を違法と宣言している浮浪者や宿なしをとりしまる若干の法においてしか直接には明言されていないけれども、法律の基礎にはプロレタリアヘの敵意がつねに存在しているので、裁判官、とくに、みずからがブルジョアであり、プロレタリアートともっとも密接に接触している治安判事は、法律のなかにただちにその意味を見出すのである。
金持が召喚されると、というよりはむしろ、招待されると、裁判官は金持には、御迷惑をおかけしましたと遺憾の意を表明し、なんとかできるだけ彼に有利に審理をすすめ、有罪の判決をくださなければならないときには、またくどくどと遺憾の意を表するなどして、その結果はわずかばかりの罰金ですませる。
ブルジョアジーは軽蔑した様子でそれを机に投げすてて帰っていく。
しかし、貧乏なやつが治安判事の前に出頭することになると、ほとんどつねに大勢の仲間といっしょに留置所に一晩泊められ、はじめから罪人あつかいにされ、どなりつけられ、言いわけをしても「おい、そんなことは分かっている」と馬鹿にされ──はねつけられて罰金をかけられる。
彼は罰金を払えないので、一ヵ月、あるいは数ヵ月も、踏み車の刑でつぐないをさせられる。そしてなに一つ有罪の証拠がなくても、彼はならず者で浮浪者として、やはり踏み車の刑におくられる。
治安判事の不公平さは、とくに農村においては、想像を絶する。
そしてこのことはまったく当たり前のこととされているので、とくに大きな事件でなければ、新聞はまったく平穏に、こまかい注釈抜きで報道している。
しかしそれも当然のことである。これらの「ドッグベリ」たちは、一面では法律をそのうちにこめられた真意に沿って解釈しているだけであり、そしてもう一面では彼ら自身がブルジョアであって、彼らの階級の利益をなによりも真の秩序の基礎と見ているのである。また警察も治安判事と同じような態度をとっている。
ブルジョアはやりたいことはなんでもできる。ブルジョアにたいしては警官はいつも親切で、厳格に法律を守る。しかしプロレタリアはぞんざいに乱暴にあつかわれ、貧しいということだけであらゆる犯罪の疑いがかけられ、同時に、権力者の勝手なやり方に対抗する法律手段はすべて彼には閉ざされている。だから彼にとっては法律という形の保護は存在しない。警官はいきなり彼の家へはいってきて、彼を逮捕し、虐待する。
そして鉱山労働者のように、労働組合がロバーツのような人を雇うときにだけ、そのときにだけ、法律の保護という側面がプロレタリアにとってはどんなにわずかしか存在しないか、彼は法律の利益を一つも享受せずに法律の重荷をどんなにしばしば負わなければならないか、ということが明るみにでるのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p136-137)
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◎「社会的に労働者であるものは、資本家と対立するものである」と。