学習通信060531
◎日本型経営の王道……
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日本共産党の志位和夫委員長は、二十七日に東京・代々木公園で開かれた「5・27国民大行動」であいさつしました。大要は次のとおりです。
全国からお集まりのみなさん、こんにちは。(「こんにちは」の声、拍手)
日本共産党を代表して、心からの連帯のあいさつをおくります。
国会会期延長を許さず、四つの悪法をそろって廃案に
この集会は、国会会期末にむけた、重大法案をめぐる緊迫した攻防のなかで開かれました。参議院を舞台にたたかわれている医療改悪の法案、憲法九条改定の手続きをきめる国民投票法案、行為ではなく思想を罰する憲法違反の共謀罪法案、教育基本法を全面的につくりかえる改悪法案――この四つの悪法を食い止めるために力をつくそうではありませんか(拍手)。悪法強行のための国会会期延長を許さず、四つの悪法をそろって廃案に追い込もうではありませんか。(「そうだ」の声、拍手)
暮らし―格差社会ただし、財界・大企業に社会的責任をはたさせよう
暮らしの問題では、格差社会と貧困の広がりが、一大社会問題となっています。これはけっして自然現象ではありません。小泉「改革」の名ですすめられた弱肉強食の政治こそ、今日の事態をもたらした責任があります。
格差社会と貧困の根源には、人間らしい労働の破壊があります。パート、派遣など非正規雇用労働者が急増し、差別と無法のなかで使い捨ての労働をしいられています。正規労働者は、成果主義賃金のおしつけで、競争があおられ、賃下げ、長時間過密労働、過労死がしいられ、心の病が急増しています。
みなさん。財界の大リストラとそれを応援した政治の責任が、いま厳しく問われているのではないでしょうか(拍手)。職場から無法を一掃し、均等待遇のルールをもとめ、人間らしい労働をとりもどすために、力をあわせようではありませんか。(拍手)
社会保障の破壊も重大であります。格差が拡大したら本来命綱になるのが社会保障ではないでしょうか。それなのに、年金、介護につづき、医療大改悪の法案が、強行されようとしています。お年寄りに無慈悲な負担増を強要し、保険のきかない医療を大幅に拡大し、所得の格差を命の格差にする、医療大改悪の法案を廃案に追い込むために、私たちはみなさんと最後まで力をあわせて奮闘する決意を申し上げるものです。(拍手)
国民生活のあらゆる分野に犠牲をおしつけながら、財界・大企業は空前のもうけを誇っています。トヨタ自動車の利益は三年連続で一兆円を突破しました。大手銀行の利益は三兆円とバブルの時代をはるかにこえています。銀行のために三十兆円の公的資金を使い、十兆円はかえってこない。こんなにもうけているんだったら、税金をかえせと私たちはいいたいのであります。(大きな拍手、歓声)
みなさん。ならば、大企業にもうけ相応の社会的負担と責任をはたさせようではありませんか。財界・大企業は、人間らしい雇用のルールをまもれ、社会保障への責任をはたせ(「そうだ」の声)、もうけ相応の税金を払え(「そうだ」の声)――このことを声をそろえて要求しようではありませんか。(大きな拍手)
(「しんぶん赤旗」2006.5.29)
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私はイギリスのブルジョアジーほどひどく退廃し、私利私欲のために救いがたいまでに腐敗し、内面的にむしばまれ、あらゆる進歩の能力を失った階級に出会ったことがない──ここで私の念頭にあるのは、とくに本来のブルジョアジー、なかでも自由主義的な穀物法廃止論者である。
彼らにとっては、この世に存在するものは、彼ら自身をもふくめて、ただお金のためにあるものだけである。
というのは、彼らはただ金もうけのためだけに生きていて、手早くもうけること以外にはなんの喜びも知らず、お金を失う以外にはなんの苦しみも知らないからである。このような所有欲や金銭欲をもっていると、どんな人間的な見方も汚されずに残っているということは不可能である。
たしかに、これらのイギリスのブルジョアはよい夫であり、家族のよい一員であり、そのほかにもいろいろな個人的美徳をもち、日常の交際では、ほかの国のすべてのブルジョアと同じように、上品で礼儀正しいし、商売においてもドイツ人よりも交渉しやすい。彼らはわが国の小商人根性のブルジョアほどうるさくなく、値切ったりしない。
しかしこういうことがすべてなんの役に立つのだろうか? 結局のところ、自分の利益と、とくに金もうけが、唯一の決定的な動機なのである。
私はあるとき、こういうブルジョアの一人とマンチェスターの町へいったことがある。そして労働者街のみじめな不健康な家の建て方や、そのぞっとするような状態について彼と話をし、こんなひどいつくり方の町は見たことがないと、断言した。その男は黙って全部聞いていたが、町角で私と別れるときに、こういった、でもここはお金がうんともうかるところですよ、さようなら! イギリスのブルジョアにとっては、お金さえもうかるのなら、労働者が飢えようと飢えまいと、まったくどうでもよいことなのである。
すべての生活関係は金もうけという物差しではかられ、金にならないことはくだらないことであり、非現実的で観念的である。したがって、金もうけの学問である国民経済学が金もうけ主義のユダヤ人どものお気にいりの学問なのだ。みんなが国民経済学者である。
工場主と労働者との関係は、人間的な関係ではなく、純粋に経済的な関係である。工場主は「資本」であり、労働者は「労働」である。
そしてもし労働者がこういう抽象的なもののなかへ押しこまれたくないならば、またもし彼が、たしかに労働するという特別の性質をとくにもってはいるけれども自分は「労働」ではなく人間であると主張するならば、さらにもし彼が自分は「労働」として、商品として、市場で売買される必要はないのだということを考えるようになるならば、ブルジョアはどう考えたらよいか、分からなくなってしまう。
彼は労働者とのあいだに売買以外の関係があるということを理解できない。
彼は労働者を人間とは見ず、「人手(hands)」と見る。いつも面とむかって労働者をそう呼んでいるのだ。彼は、カーライルがいっているように、人間と人間とのあいだに、現金勘定以外のつながりをみとめていない。
彼とその妻との結びつきさえ、一〇〇のうち九九は「現金勘定」である。ブルジョアはお金のためにみじめな奴隷状態におかれているのだが、このことはブルジョアジーの支配をつうじて言葉にまできざみつけられている。
お金が人間の価値をつくる。この人は一万ポンドの値打ちがあるということは、つまり、彼は一万ポンド持っているということである。お金をもっている人は「尊敬すべき人」であり、「上流の人びと」の一員であり、「影響力がある」人であり、彼のすることはその仲間うちで重視される。
暴利をむさぼる精神がどの言葉をもつらぬいており、すべての関係が商売用語で表現され、経済学のカテゴリーで説明される。需要と供給、欲求と提供、supply and dema〔供給と需要〕、これが、イギリス人の論理ですべての人間生活を判断する公式である。
ここから、すべての関係における自由競争が生まれ、自由放任が行政にも、医療にも、教育にも、そして間もなく、宗教においても、おこなわれるのである。宗教においても国教会の支配はますますくずれつつある。
自由競争は、いっさいの制限、国家によるいっさいの監督を望まず、国家全体を重荷と感じており、それは、たとえばわが友シュティルナーの「連合」のように、すべての人が他人を思いのままに搾取できるような完全な無政府状態において、完全なものとなるであろう。
しかし、ブルジョアジーにとってプロレタリアートは自由競争と同じように必要であり、これを押さえこんでおくためだけでも国家は欠かすことができないので、国家をプロレタリアートの方へむかわせ、自分からはできるだけ遠ざけておこうとするのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p128-131)
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企業の社会的責任(CSR)は人々の仕事観に支えられているのではないだろうか。現場で企業活動を担っている人々こそCSRの根幹ではないかという問題意識のもと、日本経済新聞社は五月十日、第五回日経CSRシンポジウム「なぜはたらくのか」(協賛=オムロン、佐川急便、住友林業、東京海上日動火災保険、三井住友銀行、後援=経済産業省、経済同友会)を開催した。今回はCSRの観点からこれからの働き方、仕事の報酬、会社と社員の新しい関係に焦点を当て、企業の最前線で働ぐビジネスパーソンらが活発な議論を展開した。
基調講演1 「なぜ私たちは働くのか」
リッチモンド大学教授 ジョアン・キウラー
社会で何を果たすべきかを考え
仕事がプラスに機能する人生を
変化する社会契約
私が初めて来日した一九七九年は、日本が一躍脚光を集めた年でした。エズラ・ボーゲルがその年、「ジャパン・アズ・ナンバーーワン」を出版したからです。日本人は米国人よりも長い時間一生懸命に仕事し、休日は少なく、また貯蓄率も高い。まさに社会学者のマックス・ウェーバーが言ったプロテスタントの労働倫理をプロテスタント以上に日本人は実践していました。だからこそ、日本経済は当時、世界最強だったのです。
同じくエズラ・ボーゲルが六三年に書いた「日本の新中間階級」も示唆に富んだ一冊でした。そのなかでボーゲルは、日本のサラリーマンは四十年前どのような状況であったかを書いています。「みんな秩序のある生活を送っていて、大手の安定した組織での長期雇用がそれを可能にしている。サラリーマンは、定期的に決まった報酬を受け取るので、五年後、十年後、十五年後、あるいは二十年後、自分の立場やサラリーがどのようになっているかを予見することができる」と。現状と大きく異なっていることがわかります。
かつてのように秩序だった生活は、いまや日本にはなくなりました。米国の労働者は八〇年代の後半から九〇年代の前半にかけて一足早くそれを経験しています。大手の企業が大規模なレイオフを始めたからです。
先ごろフランスで企業社会のあり方を巡って大きな事件が起きました。学生たちが中心となった若者雇用促進策への反対デモです。彼らが問題視したのは仕事に対する社会契約の変化でした。社会契約というのは、雇い手と働き手の間にある仕事に関する期待、そして倫理的な義務を明示あるいは暗黙の形で記したものです。企業はこうした契約がフェアなものであり、従業員がそれに同意することを担保しなくてはなりません。しかし、この社会契約の中身がいま大きく変わろうとしています。
新たな社会的責任提示
昔は仕事をこなしさえすれば職を失うことはありませんでしたが、いまでは仕事ができても失職することが珍しくありません。仕事をうまくやれば雇用を続けようという社会契約は過去のものです。こうした中、社会的に責任のある企業はいったい従業員に何を約束でき、何を与えられるのかを自らに問う必要に迫られています。不安定な経済環境のなかで、長期的な雇用が約束できないのであれば、なんらかの新しい社会的に責任のある契約を企業は考え出さなくてはなりません。
会社自体が社員に対し、忠誠心やコミットメント(約束)を与えられないのであれば、社員からそれを求めることができないのは当然です。二十一世紀のいま、仕事と人生に関して選択をする際の価値観、さらには先進国の間で起こる社会的な変化を理解することなくして、新しい社会契約を定義することはできません。たとえば日本では現在、女性の高学歴化とともに、少子化が進んでいます。彼女たちは働きたいし、子供も欲しいのです。しかし、企業は一般にそうした女性を受け入れる社会的責任を考えて来ませんでした。
責任ある企業は何をコミットメントし、社会で何を果たすべきなのかを考える前提として、仕事の意味、そして人生におけるその位置づけについて考えてみる必要があります。かつては職業倫理が私たちの道徳的な価値観の中心にありました。自らのアイデンティティーや自尊心、幸福感が実は仕事に危険なほどに依存していたのです。経済が不確定ないま、このような依存は危険と言わざるを得ません。いまや多くの企業は社員に対して、株主に対するほど多くの約束ができなくなっているからです。
仕事の価値を考える
先進国においては、どこに住むか、生業を何で立てるか、どのように暮らすか、そしてどのような人物になりたいかに関して先祖よりも多くの選択肢を持っています。生きて子孫を残すこと以外に、なぜ仕事は余暇や遊びよりも重要なのか、仕事の価値とは何なのか、どのように生きるべきなのか、文化的背景によって答えはさまざまでしょうが、いま一度考えてみることが必要です。
そうした疑問を解くヒントを、われわれはイソップの寓話(ぐうわ)に見つけることができます。物語に出てくる生物たちはそれぞれが価値観を体現しており、われわれに仕事と人生の意味を問いかけます。アリ、キリギリス、そしてミツバチは、人生に対する三つのアプローチを示しています。アリは勤勉、キリギリスは怠惰の象徴として描かれています。ミツバチは、アリのように働き、キリギリスのように楽しみます。
アリは確かに働き者には違いありませんが、それは他人や社会のためではありません。ミツバチは他人に役に立つものをつくることに意味を見いだし、他者から感謝されています。今日ではミツバチの生き方にこそCSRの理想型を見ることができるかもしれません。
多様化する価値観
これだけ価値観が多様化している中で、企業の果たすべき社会的責任とは、よりよい人生を形成するものを社員に与えることです。しかし、かつてのような家族主義的な企業のあり方は、今日では必ずしも社員に歓迎されません。だからといって、社員の面倒を見るなと言うのではなく、家族主義的な職場を改め、そこで働く人々の価値観に合わせることが大切なのです。
企業には、よい人生を指南する必要はありません。きちんとした賃金を払い、十分な休みを与え、仕事で学び成長する機会を与えることで十分なのです。最も大切なのは、仕事の現状について、きちんとした情報を伝達することに尽きます。企業には社員が自らの人生を計画できるようにする義務があります。
人生には仕事のほかにもやるべきことがたくさんあります。にもかかわらず、個人の幸福やアイデンティティーが仕事になぜこれほど依存しなくてはならないのでしょうか。それは、仕事がしばしば私たちの生き方をも決めるものだからです。多くの人は意味ある仕事を求めますが、それはたやすくは得られません。しかし、本当に望めば見つかるでしょう。
とはいえ、全員が意味ある仕事を求めているのではないし、誰にも等しく意味ある仕事があるわけでもありません。どう生きるかについての統一的な規定はないのです。人によっては、娯楽や余暇を優先する人もいるでしょうし、仕事だけの人もいるでしょう。重要なのは、仕事に生活を合わせるのではなく、人生にどう仕事を合わせるかです。
自分の仕事は、残りの人生において自分を幸せにし、周りの人も幸せにするのか、それとも惨めにするのかと自問することが必要です。大切なのは仕事に依存する人生ではなく、仕事がプラスに機能する人生でしょう。そうした人生の基本は、生まれてから死ぬまでの限られた時間の中で、仕事とは何か、何を仕事でなしたいのか、はっきりとした絵を描けるかどうかにかかっているのです。
基調講演2 「仕事の報酬とはなにか」
シンクタンク・ソフィアバンク代表 田坂 広志
働き甲斐・能力・成長をもとめる
「プラサム報酬」で職場に変革
仕事の先を見つめる
欧米から到来したCSRの思想は、いま、「日本型CSR」と呼ぶべき、深みある思想に進化しています。そして、この日本型CSRの思想の根底には、「企業は、本業を通じて社会貢献する」という日本型経営の精神があります。
もちろん、企業が利益の一部を環境団体に寄付したり、福祉事業に使うことも明確な社会貢献です。しかし、この国においては、そもそも「働く」とは、「傍」(はた)を「楽」(らく)にすることの意。我々が働くのも、企業が事業に取り組むのも、本来、世の人々を幸せにするため。その深みある労働観と事業観こそが、本来、日本型経営の原点であったことを思い起こすべきでしょう。
では、本業を通じて社会貢献する企業とは、いかなる企業か。ただ事業を行っているだけで、社会貢献しているとは言えません。
どのような社員が働いているか。そのことを問うべきでしょう。それを教えてくれる、心に残る寓話(ぐうわ)があります。
ある建設現場で二人の石切り職人が働いていた。何をしているのかと聞くと、一人は顔を曇らせ「この石を切るために悪戦苦闘しているのさ」と答えた。しかし、もう一人は、顔を輝かせ、こう答えた。「ええ私は、多くの人々の心の安らぎの場となる、素晴らしい教会をつくっているのです」
この二人目の石切り職人は、仕事の彼方に素晴らしい何かを見つめていた。本業を通じて社会貢献する企業とは、この二人目の石切り職人が数多く働く企業でしょう。日々の仕事の彼方に、その仕事を通じて実現する良き世の中の姿を思い描き、仕事との格闘を通じて、腕を磨き、人間を磨き、職場の仲間とともに働き甲斐(がい)を求めて歩む社員。そうした社員が、数多く働く企業です。
見えない三つの報酬
では、どうすれば、この「二人目の石切り職人」を職場に育てることができるのか。そのためには、何よりも「企業文化」の変革が求められます。そして、企業文化を変えるためには、「報酬観」の変革が必要です。すなわち、「仕事の報酬とは何か」という考え方を、職場の隅々で変革していかなければなりません。
では、仕事の報酬とは、何か。この問いは、「なぜ、我々は働くのか」という深い問いでもありますが、いま世の中にあふれているのは、「給料・年収」や「役職・地位」という答えです。
これは誰もが認める仕事の報酬です。しかし、実は、仕事には、これら「目に見える二つの報酬」だけでなく、「目に見えない三つの報酬」があるのです。
「働き甲斐ある仕事」「職業人としての能力」「人間としての成長」。その三つの報酬です。
ところが、現在の競争原理、成果主義の中で、我々は、残念ながら「目に見える報酬」だけに目を奪われてしまいます。しかし、本当に活力ある企業となるためには、この「目に見えない報酬」をしっかりと見つめ、「報酬観」の変革を通じて、企業文化を変えていかなければなりません。
では、第一の「働き甲斐ある仕事」とは何か。昔から日本企業には「仕事の報酬は仕事だ」という言葉がありました。仕事を通じて「働き甲斐」を感じられること、それ自身が素晴らしい報酬だという文化がありました。では、「働き甲斐」とは何か。それは「傍」を「楽」にすることの喜びですが、腕を磨くにつれ、この「傍」という言葉の意味が広がり、喜びが大きくなっていきます。
まず最初は、職場の仲間や先輩、上司を楽にできるようになる。次に、会社のお客様、顧客に喜んでいただけるようになる。そして、世の多くの人々の幸せに貢献していると感じられるようになる。プロフェッショナルの成長とは、この「傍」が大きく広がっていくことにほかなりません。
腕を磨く、己を磨く
では、第二の「職業人としての能力」とは何か。 それは、「腕を磨くことの喜び」でもありますが、実は、二つの意味がある。
一つは、腕を磨くと、それだけ「傍」を「楽」にすることができるようになり、「働き甲斐」が大きくなるという意味です。しかし、逆に言えば、どれほど大きな夢や情熱を持っても、プロフェッショナルとしての腕を磨かなければ、本当の「働き甲斐」は得られないということでもあります。
もう一つは、「能力を磨くこと」そのものが喜びであるという意味です。一人の人間として生まれ、一度限りの人生の中で、自分の中に眠る可能性を開花させていく。それは、人間にとって本源的な喜びです。
では、第三の「人間としての成長」とは何か。 かつての日本企業においては、「仕事を通じて己を磨く」という言葉が使われました。そして、定年まで勤め、職場を去るとき、「良い苦労をさせていただきました」とあいさつされる方が少なくなかった。この言葉は、「おかけで、人間として成長できました」という意味でもありました。この「成長」とは、働くことの最高の報酬であることを、我々は忘れるべきではないでしょう。
そして、この「人間としての成長」という報酬は、「職業人としての能力」という報酬を求めるならば、必ず、同時に得られます。なぜなら、本当のプロフェッショナルの「力量」とは、スキルやテクニックなどの優れた「技術」だけではないからです。その奥に、マインドやパーソナリティーなどと結びついた深い「心得」が求められるからです。すなわち、良き仕事を残そうと腕を磨き続けるならば、必ずそれは、人間を磨く道へとつながっている。それが、仕事の素晴らしさです。
商品価値論の落とし穴
そして、この「目に見えない報酬」である仕事・能力・成長と、「目に見える報酬」である年収・地位には、さらに二つの大きな違いがあります。
一つは、仕事・能力・成長は「自ら求めて得るべき報酬」であるのに対して、年収・地位は、「結果として与えられる報酬」だということです。しかし、残念ながら、いま、世の中には、この違いを理解せず、「結果」として得られる報酬を「目的」にしてしまうという錯誤があふれています。
例えば、「自分の商品価値を高めるために、腕を磨く」という発想。もし、いま世の中で活躍するプロフェッショナルの姿を深く見つめるならば、この発想の落とし穴に気が付くでしょう。彼らは、商品価値を高めるために腕を磨いてきたわけではない。仕事を通じて傍を楽にすることの喜びを求め、良き仕事を残そうと腕を磨き、ときに寝食を忘れ、夢中で仕事に取り組んできた結果、気が付けば、世の中が商品価値と呼ぶものが身に付いていた。それが真実でしょう。
もう一つは、年収・地位は、誰かがそれを得れば、誰かがそれを失う「ゼロサムの報酬」であるのに対し、仕事・能力・成長は、職場の仲間で力をあわせてつくり出していける「プラスサムの報酬」だということです。そして、前者は、マネジャーが自由裁量で増やせない報酬ですが、後者は、マネジャーの力量と心得次第で自由に部下に与えることのできる報酬なのです。
これが、いま、日本企業が取組むべき「報酬観」の変革にほかなりません。この変革を成し遂げたとき、その企業には、自然に「二人目の石切り職人」が数多く生まれてくるでしょう。そして、そのとき、「本業を通じての社会貢献」という日本型経営の王道を歩む、素晴らしい企業が生まれてくるのでしょう。
(日経新聞 20060529)
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「おれ、クビって言われちまった」。東京・新宿区の居酒屋で語り合う青年――。ビールを飲みながら、タカシさん(25)は友人に打ち明けました。「おれは頑張ってたよ。納得できない。悔しいよ」
社長に呼び出され、解雇が告げられたのは一月のこと。「君には、この仕事は向いていないな。三月に辞めてほしい」
昨年十一月に正社員として就職したばかりでした。都内の出版関係会社で、本の編集を担当。仕事を覚えるために昼休みも勉強し、やっと仕事に慣れ始めていました。
事情を聞いた友人が言いました。「個人でも加盟できる労働組合がある。首都圏青年ユニオンに相談したらどうだ?」。タカシさんはメールを送りました。
「向いてないからというだけで正当な解雇の事由になるのでしょうか。このまま何もしなければ、何の保障もないまま放り出されてしまいます」
ユニオンに加入したタカシさん。三月初め、解雇の撤回を求める団体交渉を会社側に申し入れました。
──略──
企業には人育てる責任
一緒に交渉した首都圏青年ユニオンの河添誠副執行委員長の話
能力がないと言って、企業が一方的に解雇するのは不当です。自分を責める人もいるかもしれませんが、それはその人のせいではありません。不誠実な企業のもとで、多くの若者が同じように苦しんでいます。個人の問題ではないのです。
そもそも「向いていない」というのは、解雇の理由になりません。企業が人を雇えば、仕事を担えるように育てる責任があります。ところが、多くの企業が、即戦力を求めて労働者を短期的に評価し、まともな教育もせずに安易な解雇をしています。
タカシさんの場合は不当解雇のほかに、残業代の不払いもありました。会社側は、月2万円以上の残業代は払わないという勝手なきまりをつくり、違法なただ働きを強いていました。
団体交渉の場で会社側は、タカシさんに対し「ほかの仕事を探した方が君のためだから(解雇した)」とまで発言しました。あまりに不誠実な態度です。残業代を払わなければならないという認識もありませんでした。
企業の違法行為、不正がまん延し、横行しています。青年の労働実態は残酷で、深刻です。こんなとき、社会の不正義を告発し追及するのは、困っている当事者だけの役割ではありません。困っている人も、困っていない人も、ぜひ組合に加入してほしいと思います。
(「しんぶん赤旗」2006.5.29)
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プロレタリアの労働は、機械設備の普及および分業によって、あらゆる独立の性格を、したがって労働者にとってのあらゆる魅力を失った。
労働者は、機械のたんなる付属物となって、ただもっとも簡単で、もっとも単調で、もっとも容易に覚えられる操作を求められるだけである。
したがって、労働者にかかる費用は、ほとんどただ、彼が生計を維持し、彼の種族を繁殖させるのに要する生活手段だけにかぎられる。
しかし、ある商品の価格は、それゆえ労働の価格もまた、その生産費に等しい。
したがって、労働のいとわしさが増すのに応じて、賃金は下がる。
その上、機械設備および分業が増大するのに応じて、労働時間の延長によるにせよ、与えられた時間内に要求される労働の増加や、機械の運転速度の増大などによるにせよ、労働の分量もまた増加する。
近代的工業は、家父長的な親方の小さな仕事部屋を、産業資本家の大工場に変えた。
労働者大衆は、工場のなかにつめこまれて、軍隊式に組織される。
彼らは、普通の産業兵士として、下士官および将校の完全な位階制の監督のもとにおかれる。
彼らは、ただブルジョア階級の奴隷、ブルジョア国家の奴隷であるだけではなく、毎日また毎時間、機械によって、監督者によって、またとりわけ工場を経営する個々のブルジョア自身によって、奴隷にされている。
この専制は、営利をその終局の目的として公然と宣言すればするほど、ますますこせこせした、いとわしい、腹立たしいものになる。
(マルクス・エンゲルス「共産党宣言」新日本出版社 p60-61)
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◎「彼は労働者を人間とは見ず、「人手(hands)」と見る」と。