学習通信060515
◎国民生活のあらゆる分野に深刻な……
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成果主義賃金は、一九九〇年代中ごろから導入が本格化し、すでに上場企業の九割が導入し、公務労働、学校現場にも急速に広がっています。管理職だけでなく、一般の労働者にも成果主義賃金のおしつけがすすんでいますが、一般労働者にもこの労務管理をおしつけるというのは、米国でもおこなっていない異常なものであります。
今回の聞き取り調査では、全国各地から成果主義労務管理のもたらしているすさまじい害悪が、いっせいによせられました。その特徴は以下の諸点にあります。
賃下げ
成果主義賃金では、目標を100%達成したとしても「並」の賃金にしかならず、ほとんどの人は達成できず賃下げという結果がおしつけられています。年齢にかかわらず、賃金が下がるシステムとなっています。これは、成果主義賃金が、もともと総額人件費の削減を目的として導入されていることからくる必然的な結果であります。
長時間過密労働
労働者は「成果」を出すために残業をしいられます。しかし、残業を申告すれば、残業をしなければ「成果」が出せないのは能力が低いからだとされ、「評価」が下がる。だから申告したくても、申告できない。こうして「サービス残業」がまん延する最悪の温床となっています。
成果主義賃金が裁量労働制と結びついたときには、際限ない長時間過密労働をしいるもっとも深刻な結果を労働者にもたらしています。
命と健康の破壊、メンタルヘルス問題
成果主義賃金は、耐え難い長時間過密労働にくわえて、労働者への個別管理が強められ、労働者間の競争があおり立てられることによるストレスをひきおこし、労働者の体と心をむしばみ、在職死、過労死を増やしています。まともな人間関係が破壊された荒涼たる職場で、メンタルヘルス(心の健康づくり)の障害が、すさまじい勢いで広がり、どの職場でも大問題になっています。
公務労働と教職員での矛盾
この職場管理が、公務労働や教職員の現場に持ち込まれた場合には、労働者自身の状態悪化にくわえて、公共性をもった仕事自身がなりたたなくなる、住民や子どもに目が向かなくなるという問題を引き起こしています。
神奈川の公務労働の現場からは、「保育所の民営化や福祉関係の切り捨てなど、市民生活に直結する分野のリストラを推進すればするほど高い評価になる仕掛けになっている」という告発がよせられました。
福岡の教職員の現場からは、「『不登校生徒を○○%削減する』という目標をたて、その達成を競い合わされる。目標設定、自己点検、上司への報告などに時間をとられ、子どもに向き合うことが困難になっている。『目標』も子どもにではなく上司にむきがちになり、教員間の共同意識は細くなり、教員間の競争が強まっていく。その結果、ますます教育現場は荒れていく」という深刻な実態がよせられました。
聞き取り調査をつうじても、この道をつづけるなら、日本の経済も社会も破壊されることになることを痛感しました。財界・大企業の身勝手な雇用破壊――非正規雇用、成果主義が、国民生活のあらゆる分野に深刻な問題を引き起こしていることを社会的に広く告発し、社会的な反撃で包囲し、無法・横暴な職場支配を打開することは、日本社会の切実な要請となっています。わが党は、そのために全力をあげて奮闘するものです。
(「職場問題学習・交流講座への報告 幹部会委員長 志位 和夫」しんぶん赤旗 2006.4.25)
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現代資本主義は、労働者の「貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取をますます増大」させているのだろうか。
いまもみてきたように、戦後の資本主義は、労働者階級のますます膨張する社会的集団をつくりだし、それを国家独占資本主義によって補強された搾取機構に合体させてきた。そこで、もしこの搾取機構が、このような労働者の集団にたいして、日常不断に、ますます増大する「貧困の泥沼」を体験させているとすれば、それは労働者をいたるところで立ちあがらせるスプリング・ボードとして作用するにちがいない。
国家独占資本主義のもとでは、どこにもこうした近似的な搾取条件が存在する。
こういう意味でこの「貧困化」問題は、それをみとめるかみとめないか、その発現形態の特徴はどうなっているか、を見きわめることが、現代労働組合運動の針路を決定するうえで、分水嶺的な意義をもつ重要問題になっているのである。
(注)
だから、ストレーチー(イギリス労働党)、W・タイマー(ドイツ社会民主党)、P・ランベール(フランス社会党)などの改良主義的理論家は、すべて、口をそろえるように、マルクス主義の貧困化理論は時代おくれになったというのである。たとえば──
「労働運動の『平衡力』に直面するかわりに、正統派経済学者たちの教科書にしたがって自動的に機能していたとすれば、資本主義は、たしかに富の全増加分を少数の所有者階級に留保する傾向を示していたことだろう。しかしこの傾向は、マルクスがその存在を看過した本質的に非経済的な諸力によって、諸先進資本主義国においては、くつがえされている。もっとも、その他のところでは、そうではないが。」(ストレーチー『現代の資本主義』、東洋経済社刊、一三二ページ)
「本質的に非経済的な諸力」、とは、労働運動の「平衡力」、つまり労働党とTUCのことであろう。なおそのうえに資本主義国家の理性的な政策? などもふくまれているのかもしれない。これらの「諸力」のおかげで、イギリスではマルクスの貧困化論はくつがえされたというのである。しかし、依然として、富んでいるのは、イギリスであって、イギリス人ではない。だからイギリスでは山ねこストライキが流行する。
ストレーチー以下、改良主義者のマルクス主義批判なるものは、結局、だれのでも同じだか、注に例示したような、現代資本主義のかちえたと自称する理性的、進歩的な「成果」の無条件的な礼賛をもって、理論的批判にかえるという性質をもっている。それらは、理論としては無責任な他愛のないものである。しかし、こういうむきだしのブルジョア弁護論がどこの国でもかなり大量的に生産されて、国家独占資本主義のもとでは、社会的貧困の問題はすでに基本的に克服されたというような虚偽の社会的影像をつくりだすことに、ある程度成功しているのはなぜか。
この問題については、われわれも、マスコミが独占されているからだとばかりいわないで、もっとこだわって考える必要がある。このような、労働者的現実とはかけはなれた現実の「理論的」な再構成が、当の労働者にさえ案外な影響をあたえ、彼らじしんが虚偽の社会的影像のとりこになっている場合が少なくないからである。
虚偽の社会的影像の生産を可能にする条件には現実的なものと観念的なものとの二種類がある。
1 まず現実的なものとしては、──戦後の資本主義が相対的に持続的な生産の増大を実現し、その過程で、一定の歪みをともなっているとしても生産様式の高度化または近代化が現われ、実質賃金の上昇も、どの時点とくらべるかということが問題ではあるが、すくなくとも戦前の「永続的不況」の時期などからみれば、かなりの持続的上昇になっていることである。そして、そのうえこうした状態のもとでは、労働者、人民大衆の不満や不安も、爆発的ではない内乱的な形をとりやすく、個別的に、妥協的解決をもとめることになりやすいという事情もある。
2 観念的なものが案外に重要な意味をもっている。というのは、資本主義制度のもとで、どのみち、社会的、個人的な「不幸」とのまぬかれがたい共存関係におかれてきた人民大衆のあいだには、宿命的、生物学的な貧困観が定着しやすい条件がある。彼らにとっては、たいていの貧困、抑圧、隷属等々は日常的な当り前のことである。それを資本家階級とブルジョア理論家が利用する。つまり貧困化の度量単位を最低にきめておいて、自分たちはまさかあんなものにはかからない、つまり貧困ではないと信じこませてしまうのである。
注「貧困が増大するというのは、肉体的な意味ではなく、社会的な意味で、すなわち、ブルジョアジーの需要や全社会の需要の高まりゆく水準と、勤労大衆の生活水準とが照応しない、という意味でいっているのである。」(レーニン「カウツキー『ベルンシュタインと社会民主党綱領』の書評」、全集第四巻二一七ページ)
しかし、戦後資本主義が社会的貧困の問題を基本的に解決したかどうかについては、われわれがのりだしてそれほど時間つぶしをする必要もない。いまも述べたように、ブルジョア弁護論者は虚偽の社会像づくりに夢中だが、彼らの主人公は、時と場合では、そうもいわないことがある。一例をあげよう。
一九六四年度「大統領特別報告」、によると、時のジョンソン政府は、年間三〇〇〇ドル以下のすべての世帯と年間所得一〇〇〇ドル以下の単身者を貧困者と規定している。そして一九六二年にこれに該当したのは約三五〇〇万人──全人口のおよそ五分の一だった。そこでジョンソン大統領は、貧困にたいして「無条件降伏まで戦争」するという例の有名な布告を出した。もし相手がいないのであれば、戦争もできなければ、無条件降伏をさせることなどなおさらできないのは明らかである。
しかも、それはそれとして、われわれとしては、この問題を、労働組合運動の立場にもっとひきつけて検討してみたい。
すでに、実質賃金のかなり持続的な上昇についての指標をあげてある。このことが労働組合運動の場にはどのように影響するのか、それを問題にしてみよう。
だが、その前に念をおす意味で断っておきたいことがある。それは、われわれとしては、社会的貧困の問題を賃金との関係だけでみているわけではないということである。その点、マルクスが、資本主義的生産の発展にともなう社会的貧困の諸形態を具体的に展開してみせた、これまた有名な箇所を、そういうつもりで読んでおくことにする。
「資本主義体制のもとでは、労働の社会的生産力を高めるための方法は、すべて、個々の労働者の犠牲においておこなわれるということ、生産の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具の部分人間にし、彼を機械の付属物にひきさげ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件をゆがめ、労働過程にあるあいだは狭量陰険きわまる専制に彼を服従させ、彼の生活時間を労働時間とし、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げこむということ、これらのことをわれわれは知った。
しかし、剰余価値の生産のための方法は、すべて、同時に蓄積の方法であり、蓄積の拡大はすべてまた逆にかの方法の発展のための手段になる。
そこで、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと低かろうと悪化せざるをえないということになる。
さいごに、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の範囲および精力と均衡させておくという法則は、ヘファイストスのくさりがプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。
だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち、自分の生産物を資本として生産する階級の側での貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。」(『資本論』第一巻、普及版A八四〇ページ)
このように、マルクスによれば、労働者の状態は、彼のうけとる支払いが、高かろうと安かろうと悪化するのである。それなら、われわれの場合は、実質賃金は、この表のとおりではないにしても(税金、その他の引きさりや独占価格をこの表は考慮していない。そのうえ、消費物価指数というのは天下公知の作為的なものである)ともかく上昇したとしておこう。それにもかかわらず、労働者の状態は悪化したといえるのだろうか。
実質賃金があがったとすれば、もしその他の条件にすべて変動がなければ、このことはたしかに社会的貧困の圧力を、一時的にもせよ、緩和するのに役だつであろう。しかし、残念なことに、この実質賃金の上昇を、それが大衆の憤激をそらす目的からおこなわれたかどうかは別にして、ともかく容認してきた資本の蓄積過程は、それと同時に大衆生活の条件をもいや応なしに、いっそう高くつくものに変動させている。それは現代資本主義の寄生主義的生産にとっては不可避的なことである。
(堀江正規著「現代資本主義と労働組合運動」 労働組合運動の理論@ 大月書店 p76-81)
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◎「実質賃金の上昇を、それが大衆の憤激をそらす目的からおこなわれたかどうかは別にして、ともかく容認してきた資本の蓄積過程は、それと同時に大衆生活の条件をもいや応なしに、いっそう高くつくものに変動させている」と。