学習通信060502
◎企業のワクをこえた個人加盟の原則……
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クラフト・ユニオン
ーハ世紀のはじめごろにトレード・クラブあるいはトレード・ユニオンを組織していたのは先にあげた仕立て職人だけではない。先に引用した一七二〇年の請願書は、つづけてつぎのようにのべている。
「これはほかの業種の職人にもたいへん悪い見本となり、なめし皮仕立て職人、鍛治屋、蹄鉄屋、帆製造職人、馬車製造職人など多くの職業の職人が同じような組織をつくり、また大工、煉瓦積み工、指物師も組織化の準備をはじめ、ほかの組織のなりゆきをうかがっている。……先にのべた集会所やパブはロンドンやその郊外にはたくさんあり、仕立て職人はしばしばそこにあつまって、これを利用し、賃金として受け取った金の大部分をそこで使ってしまう。パブの主人は、賃上げと時間短縮のための職人たちの不法な結社を支持し、激励し、扇動している」
組織化されていたのは、ここにあげられた職人だけではない。C・R・ドブソン『親方と職人。労使関係前史、一七一七〜一八〇〇』(一九八〇)によると、一八世紀にすでに組織をもっていた職人は、うえにあげたもの以外につぎのように多数にのぼっている。車大工、織物職人、製靴工、ガラス職人、かつら職人、パン焼き職人、床屋、ペンキ屋、石工、銀細工師、金銀針金細工師、製本職人、桶職人、帽子職人、帽子染色職人、刀剣柄職人、植字工、フェルト帽子職人、馬具職人、印刷工。
こういう状況はロンドンだけのことではなかった。先の請願にもとづいて、ロンドンの仕立て職人の結社を禁止するイギリス最初といわれる結社禁止法が一七二〇年に制定されたが、 これに続いて、一七二五年に結社禁止法が制定されたのはイングランド南西部のウィルトシャの毛織物織布工であった。アイルランドでも一七二九年に結社禁止法が制定されている。この一連の法律については後に改めてのべるので、ここでは立ち入らないが、アイルランド、スコットランドをふくめて広範な地域で職人層の組織が広がっていったことがうかがわれる。
ところでここで注目しておきたいのは、これらの結社が企業ごとではなく、職種ごとに組織されていることである。もちろん、時代はまだ一八世紀のはじめであるから企業と呼ぶほどの大きな経営があるわけではない。ウィルトシャの場合には問屋制手工業が広範に展開していたが、ロンドンの場合にはおそらく家内工業に毛の生えた程度のものであったと思われる。そういう小経営で働く職人層が横に連帯して組織化されたのである。労働組合の組織形態でいえば、企業内組合(カンパニ・ユニオン)ではなく、職業別(あるいは職能別あるいは職種別)組合(クラフト・ユニオン)といわれるものである。
したがって賃上げ要求も時間短縮要求も個々の親方つまり企業主にたいしておこなわれるのではなく、その地域の親方層全体にたいしておこなわれる。組合側の言い分によれば、親方の方が先に結社をつくったのでわれわれの側も組織をもつようになったのだという。そこで賃金も企業ごとにではなく、地域ごとにきまってくるし、労働時間も地域ごとにきまる。日本の場合には労働組合の名称にはふつう企業名がつき、たとえば三菱電機労働組合というような名称になるが、イギリスでは、たとえばマンチェスター紡績工組合というように、地域名と職種名がつく。日本とは違って、どこの会社へ勤めているかが問題なのではなく、どういう仕事をしているかが問題なのである。当然、賃金も年功序列型ではなく、職種別賃金となる。
マルクスは『資本論』の中でよく「社会的平均的」ということをいっているが、賃銀にしても熟練度にしても、こういう横断的な労働市場を前提にしないと「社会的平均的」というのは分かりにくい。労働者が横に動かなければ平均はなりたたないからであり、企業別に賃金格差があるような社会では労働者は横には動かないからである。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p27-29)
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産業資本主義の成立と労働組合の結成
日清戦争と産業革命
日本で産業革命(工場制機械生産が支配的となることによっておこる社会全体の変化)が急速になしとげられて、日本の資本主義が一人まえの産業資本主義に成長したのは、労働者をこんなひどい低賃金と無権利でしぼりあげたからです。しかし、それだけではありません。他の資本主義国からおくれて出発したという弱点を、天皇制政府は比類のない軍国主義の力でおぎない、これを武器として、となりの民族を侵略して、その資源や労働力をうばったことが、日本の資本主義の成長をはやめた、もう一つの原因です。
日本の資本主義は、いわば、うまれつき、こういう侵略的な性格をそなえていたのです。そして、その第一歩を、朝鮮半島の植民地化からふみだしました。
一八九四年(明治二七年)、朝鮮に甲午(こうご)農民戦争という大農民戦争がおこって京城にせまったのをきっかけに、日本政府は朝鮮に出兵して、朝鮮の支配権をめぐって清国(中国)とのあいだに戦争をはじめました。そして、戦争に勝ち、一八九五年四月、下関での講和談判で、賠償金約三億円のほか、台湾と膨湖(ほうこ)島を手にいれ、朝鮮の市場と清国(中国)の四つの港をひらかせました。この賠償金をもとでに、日本は金本位制にきりかえて、世界経済とむすびつく土台をつくるとともに、八幡製鉄所をつくって、ますます軍備に力をいれました。
一八九七年(明治三〇年)には、一〇人以上の労働者をつかう民間工場が七三二七にふえ、そのうち原動力をつかう工場が二九五〇工場、工業会社の払込資本金総額は一億五三八万円に達しました。労働者の数も四五万人、そのうち婦人労働者(主として繊維労働者)が六五パーセントの二六万人となりました。こうして、資本主義の成長とともに、労働者も階級としてかたちづけられていきました。
労働組合期成会と鉄工組合
日本に、はじめて近代的な労働組合がつくられたのは、ちょうどいまから約八○年ほどまえ、日本の資本主義が一人まえに成長した、このころでした。
一八八四年(明治二七年)から一八八七年(明治二〇年)にかけて、活版工や鉄工のあいだで、組合をつくろうといううごきはありましたが、片山潜、高野房太郎らの先覚者によって、一八九七年(明治三〇年)に労働組合期成会がつくられ、そのはたらきかけで、鉄工組合(一八九七年末)、ついで、日鉄矯正(きょうせい)会(一八九八年)がうまれました。
日清戦争を中心にして、軍備拡張のために税金がおもくなり、一八八四年(明治一七年)には一升九銭くらいだったお米が、一八九七年(明治三〇年)には一五銭、九八年には一九銭とたかくなっていきました。しかし賃金はほんのすこししかふえなかったため、九七年から九八年にかけて、賃金のひきあげを要求するストライキがさかんになりました。
労働組合期成会は、一八九七年一二月に『労働世界』という日本で最初の労働組合についての機関誌をだしました。その第一ページには「労働は神聖なり」「団結は勢力なり」と書いてあり、期成会が労働者になにをうったえようとしていたかがよくわかります。しかし期成会も、はじめは、労働者の教育、相互共済、労働市場の調整をおもな目的とするなど、かならずしも階級的な性格をはっきりとはもっていませんでした。
ですから、一八九七年『労働世界』の創刊と同時にうまれた鉄工組合の発会式には、政府の役人がお祝いに参列したり、「君が代」をうたうなどということもありました。しかし、東京砲兵工廠の六七七人を先頭に、横浜ドック、甲武鉄道、新橋鉄道局、逓信省、東京紡績、日本鉄道大宮工場の鉄工労働者が組合員になり、ついで翌年には、芝浦製作所、石川島造船所、横須賀造船所、赤羽海軍工廠などに支部ができ、一九○○年(明治三三年)には、全国で四二支部五四〇〇余人の鉄工労働者が組織されました。
日本鉄道矯正会
日本鉄道矯正会は、文宇どおりたたかいのなかからうまれました。
当時、民営(いまでいう私鉄)であった日本鉄道会社(いまの東北本線、上野〜青森間)では、かねて機関方や火夫(いまでいう機関士や機関助士)のあいだに、会社の差別待遇にたいしてつよい不満があったところへ、どこからか「我党待遇期成大同盟」と署名したビラがくばられ、びっくりした会社は、数名の「首謀者」を解雇しました。これに怒った労働者は、一八九八年二月二四日からストライキにはいりました。
ストライキは二七日までつづけられ、解雇者一〇名のうち首謀者をのぞいて新規採用する、機関方および機関方心得を三等役員にする、機開方以下名称を改める、増給を考えるという条件をかちとって労働者側の勝利におわりました。そして四月五日、一〇〇〇人ばかりの機関車乗務員で「日本鉄道矯正会」という労働組合をつくって、会社が仕返しをするのにそなえたのです。そして、いまでいう争議資金の積立をはじめ、一八九九年(明治三二年)末には、積立金額が二万円にのぼったといわれます。
このほか、労働組合期成会は、活版工組合をはじめ労働組合をつくったり、メーデーをまねた労働者大運動会をひらいたり、労働者保護のために工場法をつくらせる運動をおこすなどの活動をしました。
これらの初期の労働組合は、熟練工を中心とした職業組合的な色あいもつよかったのですが、企業のワクをこえた個人加盟の原則をとっていましたし、金属産業や交通運輸産業などの基幹産業から労働組合ができたということは、この部門の労働者の先進性をしめしたものといえます。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p31-34)
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◎「日本とは違って、どこの会社へ勤めているかが問題なのではなく、どういう仕事をしているかが問題……当然、賃金も年功序列型ではなく、職種別賃金となる」と。