学習通信060427
◎赤旗の歌……

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民主人民戦線運動

 さきに述べたように、国際的には一九三〇年代から統一戦線運動が活発に展開されたが、日本では弾圧のきびしさと民主主義勢力の力量不足から、その経験の蓄積はきわめて乏しかった。戦後はじめて合法政党として活動を再開した日本共産党は、当初から民主主義的統一戦線の結成を運動方針にかかげ、日本社会党にたいしてくりかえし共同闘争を申入れたが、社会党はそのつどこれを拒否した。

 一九四六年一月、共産党の野坂参三が、ソ連、アメリカ、中国での一六年間の活動ののち帰国して、民主主義的統一戦線の結成を訴えた。同じ時期に、戦前いらいの社会主義運動の長老山川均が、民主人民戦線を提唱し、かれを中心に民主人民連盟を組織した。

 統一戦線の結成による政治革新の気運が急速に高まり、一月二六日に東京日比谷公園でひらかれた「野坂参三帰日歓迎国民大会」には五万人が参加し、社会党指導者をふくむすべての発言者が、民主人民戦線の重要性を強調した。野坂参三は、「民主戦線のために」という演説をおこない、そのなかで「真の愛国者はだれか」という問題を提起した。かれの主張の要点はつぎのようなものであった。

 すなわち、当面の深刻な危機を克服するために切実に必要とされている民主人民戦線は、具体的目標として、第一に、国民生活の防衛、第二に、「現在の政府(進歩党の幣原内閣)の即時辞職を要求すること、および民主人民戦線を土台にした民主主義者党派の連立政府の組織」、第三に、軍国主義的勢力、反動勢力の清掃、第四に、「天皇制」を撤廃して、民主主義の原則にもとづいて憲法を制定すること、などであった(以下第九項目まであるが省略)。要するに、ただちに資本主義を打倒して社会主義を実現しようというのではなく、国民の九五パーセントをしめる勤労人民の利益と幸福のために、民主主義的統一戦線を結成して連立政府をつくり、民主主義的な改革を実現しようと呼びかけたのであった。

 しかしこの直後、社会党は共産党との共闘に応じない態度をきめ、三月に活動を開始した山川均らの民主人民連盟にも不参加の方針をきめ、若干の左派の幹部がこれに個人的に参加したにとどまった。共産党は、この統一戦線運動を積極的に支持する態度をあきらかにし、野坂をはじめ有力な党員が個人の資格で参加した。

 戦後第一回の総選挙(一九四六年四月一〇日)を直前にした四月七日、民主人民連盟準備会の主催で、東京日比谷公園で幣原内閣打倒人民大会がひらかれ、七万人のデモ隊が首相官邸を包囲し、内閣退陣を要求した。婦人参政権が実現してはじめての総選挙の結果は、社会党九二議席、共産党五議席であった。

 五月一日、戦争のため一〇年間中断していたメーデーが復活し、第一七回メーデーが催された。全国で二〇〇万人が参加したといわれたが、東京では五〇万の労働者と勤労大衆が皇居前広場に参集して、「はたらけるだけ食わせろ」「民主人民戦線即時結成」などのスローガンを採択して、つぎのように宣言した。


わが日本の労働階級は十一年ぶりでメーデーに参加した。今日のメーデーこそ、日本に初めての大きさと、初めての自由とに輝く歴史的メーデーである。だが同時に、現在のわれわれは歴史上はじめての苦しみをも味はつてゐる。住むに家なく、着るに衣服なく、食ふに米はない。しかも、戦争をたくらみ、戦争で儲けた憎むべき資本家、地主、官僚どもは、われわれの苦しみを平然と眺めて、何の手も打たうとしない。……われわれは政府をとりかへなくてはならない。働く者の民主人民政府を打ちたてなくてはならない。そのためにまづわれわれは労働戦線を強固に統一しよう。そして世界の労働階級と手を握つて、その固い団結のもとに、再び世界に戦争の種をまく専制主義、封建主義、ファシズムを叩きつぶすのだ。


 そして、保守反動政権反対、民主人民政府の即時樹立、食糧の人民管理などを決議して、うたごえ高らかにデモ行進した。五〇万労働者、市民のデモは、日本ではじめてのできごとであった。

 それ以来、皇居前広場ではたびたび大衆集会がひらかれ、メーデー中央集会も一九五〇年までは毎年そこで開催されて、「人民広場」という呼び名がひろまった。しかし、(のちに述べるように)一九五〇年六月にはじまった朝鮮戦争を境にして、この広場での人民の集会は禁止されて現在にいたっている。

 ところで主食の遅配、欠配が重なって栄養失調ということばがひろがり、食糧危機が深刻化するもとで、各地で危機打開のために食糧管理委員会を組織して、大衆行動がおこされた。一九四六年五月一二日、集会をひらいた東京世田谷区民代表一〇〇余名は、赤旗を押し立てて皇居内に行進した。

 五月一九日、「食糧メーデー」と呼ばれる集会が皇居前広場でひらかれた。二五万人が参加し、食糧危機の解決を政府と占領軍にたいして要求するとともに、「民主戦線即時結成の決議」を採択した。それは次のように説明した。


民主戦線の即時結成こそは民族の破滅を救ふ唯一の道であり、われわれ勤労大衆すべてが切実に要求するところである。われわれのいふ民主戦線とは労働組合、農民組合など勤労大衆の民主主義組織を基礎とし、その上に立つ社会党、共産党の共同戦線を指し、その主体をなすものはあくまでわれわれ勤労大衆自身でなければならぬ。情勢は寸刻の猶予をも許さぬ。


 この飯米獲得人民大会の代表は、天皇にあてた「上奏文」をたずさえて、皇居にはいって面会を求めたが拒否された。一方、デモ隊は首相官邸にむかって行進した。このような生活防衛闘争と結びついた大衆的政治行動の圧力で、四月の総選挙で敗北して以後もなお居すわり工作をつづけていた幣原内閣を退陣させ、また後継首相に指名された日本自由党の吉田茂も組閣が難航して、約四〇日にわたって内閣空白がつづくという支配階級にとっての危機状態があらわれた。これをみてアメリカ占領軍は強硬な態度をしめした。

 すなわち、メーデーのあとの対日理事会でアメリカ代表は、「アメリカは決して共産主義を歓迎するものではない」という反共主義の立場を表明した。また、食糧メーデーに応ずるかのように輸入小麦粉の放出許可を発表するとともに、翌五月二〇日、占領軍司令官マッカーサー元帥が声明を発表して、「今日既にその兆しを見る如き秩序なき暴力行為は今後絶対に許容されない」と大衆運動にたいする脅迫的警告をおこなった。このようなアメリカ占領軍の態度に助けられて、ようやく第一次吉田内閣は成立した。

 すると、社会党右派の理論的指導者森戸辰男などのイニシアチーブで、六月に救日民主連盟の提唱がおこなわれた。これは社会党の指導権が保障されることを前提としたものであった。この巻き返しによって民主人民戦線運動は流産した。
(塩田庄兵衛著「日本社会運動史」岩波全書 p165-170)

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躍進する労働運動

 戦後最初の労働組合は、昭和二十年(一九四五)十月五日復活した全日本海員組合舞鶴支部で、つづいて十一月五日結成された市電関係の京都市電気局労働組合・同車輛労働組合であった。以下、同年末までに、京都陶磁器労働組合をはじめ、京滋一般労働組合・京都サラリーマン協会(京都市職員組合の母体)・日本輸送機労聖会などが結成された。十二月「労働組合法」が公布され、翌年一月に島津製作所・日本電池・三菱重工業京都機器製作所など、大企業にも組合がぞくぞくと結成された。四月、旧舞鶴海軍工廠を引きついだ飯野産業舞鶴造船所に労働組合が結成され、舞鶴地方の労働運動発展の核となった。

 昭和二十一年(一九四六)三月十五日現在の組合数三二・組合員数一万七九三九人が、同年七月末には組台数二四七・組合員数九万二〇九一人に激増、府下の主要な事業所のほとんどに労働組合が誕生した。多くの場合、労組結成と同時に要求を提出したが、インフレと食糧難のため賃上げ要求が中心で、月収の二倍、三倍増をかちとることもめずらしくなかった。

 戦後京都における最初の本格的な争議は、三菱京都機器労組の解雇反対争議(昭和二十一年三月二日〜二十一日ストライキ)であった。組合は生産管理戦術で組合役員の解雇を撤回させ、会社側に「民主的な運営をする」と表明させ争議を終結した。府労政課の調査によれば、昭和二十一年六月までは賃上げ、七月から食糧危機突破、大量馘首反対が多く、十月から人事権や経営権をめぐる協約締結要求が増加した。

 昭和二十一年(一九四六)三月一日、労働総同盟京都連合会主催で労働組合法施行記念の労働者解放大会が円山音楽堂でもたれた。戦後はじめての労働者の大集会であり、三四組合一万人が参加、デモ行進をおこなった。そして五月一日、これも戦後初の第一七回メーデーが京都御所建礼門前と東本願寺広場で開かれた。昭和十一年(一九三六)の第一六回から一一年ぶりの復活であった。当日は土砂降りの雨にもかかわらず、「予定数ニ近キ三七、九〇〇名ノ参加ヲ見……、参加者ハ欣喜雀躍(きんきじゃくやく)行進ニ参加シ居タルモノニシテ如斯(かくのごとき)情景ハ曽(かつ)テノ産業報国運動等ノ行事ニハ見ラレザリシ現象ナリ」(『京都労働運動史年表』一九四五〜八五年)と、知事が中央に報告している。

 こうした労働運動の主導権をにぎったのは、昭和二十一年(一九四六)一月二十七日、二四組合二万四〇〇〇人を結集して発足した日本労働総同盟京都連合会であった。会長辻井民之助・相談役水谷長三郎以下、幹部は戦前の労働総同盟系の活動家を中心に、戦後の社会党支部の関係者でもあった。運動路線は、「京都は社会思想発祥の地なり、労働組合健闘の地なり、山宣墳墓の地なり」と、創立宣言の一節にあるように、総同盟左派の影響が強かった。したがって当初は、共産党系の京滋一般労組もこれに加盟していた。

 しかしまもなく、京都の組合運動は四つの潮流に分化していく。昭和二十一年(一九四六)二月十二日、京滋一般労組が総同盟から分立して京都労働組合協議会(五組合・一一六八人)を結成し、全日本産業別労働組合会議(産別)への結集を強め、翌二十二年一月、産別関西地方会議京都地区会議を結成した。さらに、島津製作所や京都機械などの労働組合からなる京都金属労働組合(略称KKR、一万三〇〇〇人)が二十一年六月九日結成され、二十二年二月二十一日に、国鉄・専売・市職・府職など全官公庁労組京都地方協議会(約二万人)ができた。総同盟、産別会議にそれぞれ社会党、共産党の影響力が強く、KKR、全官公は発足当時はいちおう中立であった。

 労働運動の発展は、昭和二十二年(一九四七)二・一ストで最高潮に達する。占領軍は当初の態度を一変し、京都軍政部も三月の島津製作所ストや京都機械の生産管理闘争に介入、弾圧を加えた。しかし四月七日京都地方労働組合協議会(京都地労協)が産別・全官公・KKR・総同盟の四者で設立され、七万四〇〇〇人の労働者を結集した。府下でも昭和二十一年秋に、乙訓労働組合連盟をはじめ、福知山・丹後、翌年三月、舞鶴に協議組織が結成された。京都地労協は、労働会館の建設・消費組合の設立・労働学校の開設などを推進、労働戦線統一に貢献した。

 京都の労働運動の特徴は、戦前の社会運動体験者を中心に、革新政党とともに、統一戦線的な運動を粘り強く展開したところにある。それは民主戦線運動でも遺憾なく発揮された。

京都民主戦線

 昭和二十一年(一九四六)一月の山川均や野坂参三による人民戦線の提唱以前に、京都では食糧問題などで、社・共の統一行動があったのはすでにみた。共産党系ながら多くの無党派の進歩的知識人からなる京都人民解放連盟(昭和二十年十月二十一日結成)を仲立ちに、敗戦の年の暮れごろから独自に統一戦線結成の試みが進行していた。

 昭和二十一年一月十八日、京都新聞会館に共産党・社会党(有志)・自由党(有志)・農民協議会・消費組合・市電労働組合・全国水平社・民科など一八団体一〇〇余人が集まり、人民戦線協議会が結成された。同二十六日には名称を民主戦線京都協議会にあらため、「国民生活の安定確保、一切の封建制の排除、政治主権を人民の手に、戦争責任者の徹底追及、隠匿物資追及」のスローガンのもと運動を開始した。さらに二月二十一日には、社会党京都府連の正式な参加を得て、京都民主戦線へと改組された。

 この京都民主戦線が画期的だったのは、団体加盟を原則としたこと、社会党中央が共産党との統一戦線を拒否していたのに京都では社・共が対等な形で正式に参加し、また保守系で中小企業の利益を代表する自由党京都支部の高山義三派も参加したことである(松尾尊兄「敗戦直後の京都民主戦線」『京都大学文学部研究紀要』一八号)。

 各党ともここにいたるには党内の反対や対立があったが、京都の共産党では徳田球一など獄中派幹部の戦前的な「下からの統一戦線」よりも、社・共共闘を重視する柔軟な野坂路線の方がより優勢であった。また社会党においても、辻井民之助に代表される左派の社・共共闘派が主導権をにぎっており、さらに自由党京都支部では、戦前の友愛会・総同盟など労働運動にかかわった高山義三とその一派が有力であった。こうして京都では、中央の政治動向にあるときはさきがけ、あるときは逆らって統一戦線運動が展開されたのである。

 京都民主戦線などの具体的な活動は、まず昭和二十一年(一九四六)二月十日の河上肇追悼会、同十四日の野坂参三歓迎演説会、五月一日メーデーなど大衆カンパニアの主催、成功である。そして三菱争議など労働運勤の支援・選挙・食糧危機・婦人団体の統一などにとりくんだ。このうち選挙など各党の思惑や利害がからみ成果をあげえなかったものもあるが、食糧民主協議会などはばひろい大衆行動に力を発揮した。

 また、民主戦線からの派生団体として、その広報紙ともいうべき『夕刊京都新聞』(昭和二十一年五月創刊、社長住谷悦治)、民主勢カの調査機関としての京都産業労働調査所(同六月発足、所長名和統一)、民主主義の学校としての京都人文学園(四月創立、学園長新村猛)などの活動がある。人文学園については後述するが、『夕刊京都新聞』は、戦前の『土曜日』再刊を意図した住谷や能勢克男らと、京都新聞社社長白石古京(こきょう)とが協力して実現した。「報道の新聞よりも意見の新聞を作りたい」という戦闘的民主主義がその立場であり、東京の『民報』(社長松本重治)とならんで、全国最左派の夕刊紙であった。販売部数は上昇の一途をたどり、半年後の十月には七万八〇〇〇部を数えた。

 一方、中央では、昭和二十一年(一九四六)四月幣原内閣総辞職、五月の食糧メーデー、マッカーサーの「暴民デモ許さず」発言、吉田茂自由党・進歩党連立内閣という政治危機の深まりのなかで、社会党は自党中心の救国民主連盟の結成を提唱し、共産党との統一戦線を事実上排除した。京都では、この救民連盟をめぐって各党内は紛糾した。結局、共産党はこれに応じたが、自由党京都支部は分裂、高山を委員長とする左派が京都民主党を十月十日結党し、同十三日結成された救民連盟京都支部に加盟した。当時の国会議員や各種議員数での社・共の力関係は圧倒的に社会党優位であり、救民支部は京都民主戦線と異なり、役員数や運営は社会党主導であった。

 昭和二十二年(一九四七)四月の京都市長選・知事選では、候補者選定をめぐり、労働団体の懸命の斡旋にもかかわらず、社会党の党派的対応のため足並みが乱れ、救民支部側は敗北した。この間、三月には京都民主党は社会党と合同し、さらに六月には社会・民主・国協三派連立の片山哲内閣の成立にともない、社会党府連ははやくも救民支部の解消を決定した。こうして、人民戦線協議会にはじまる京都の一年半の統一戦線運動はひとまず休止する。
(井ヶ田良治・原田久美子「京都府の百年」山川出版社 p255-259)

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赤旗の歌

そうだ、きみたちはこの旗を見るだろう、
くりかえし、くりかえし幾度も。
たのしく見るか、いらだたしく見るかは
階級闘争のなかできみたちがとる立場しだいだ。闘争の帰結はうたがいもなく
ぼくたちの完全な勝利、
あらゆる国、あらゆる都市、
労働者のいるところ。
(「ブレヒト詩集」飯塚書店 p66)

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「民主主義の学校としての京都人文学園」……京都労働者学習協議会はその伝統を受け継いでいる。