学習通信060425
◎高く赤旗を……

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晴れた五月
【作詞】江森盛弥
【作曲】関 忠亮

1.晴れた五月の青空に
 うたごえ高くひびかせて
 進むわれらの先頭に
 なびくは赤い組合旗

2.歴史も永いメーデーの
 血でそめられたこの旗は
 ああ万国の労働者
 団結せよと叫んでる

3.人民解放戦線の
 前衛われら労働者
 たたかいぬこう勝ち抜こう
 かかげよ高く赤旗を

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アメリカ合衆国における
労働組合のはげしい闘争
(一八七六〜一九〇〇年)

 一九世紀の最後の四半世紀は、すべての先進資本主義国での労働組合運動の力づよい成長を特徴としていた。それがドイツやイギリスでどんなにめざましいものだったかは、われわれが見てきたとおりであるが、今度はアメリカでの労働者階級の進出をとって見よう。この時期にアメリカの労働組合運動は、他の主要資本主義国のどれとも比較にならないほどの、はげしい階級闘争に直面しなければならなかった。鉄鋼、石炭、繊維その他の産業の労働者の多くは外国生れであった。

 たちまちのうちに世界でいちばんの金持ちになったアメリカの資本家階級は、またいちばんの情知らずであった。南北戦争で奴隷所有者に勝利するや、彼らは従順な政府官僚の助けをえて国中をあらしまわり、国有の土地、森林、鉱山などをぬすんだ。資本家は政府を完全に牛耳っていた。彼らは膨大な移民──一八七〇年から一九一四年までに二五一二万三四五七人──を国内にいれ、工場にほうりこんで殺人的に搾取した。彼らは労働者が組合をつくろうとする企てをはげしく弾圧した。

彼らは恥知らずに貧農を略奪した。彼らは大きなトラストをつくったが、トラストはたがいに無慈悲にたたかい、おたがいの鉄道や産業をありふれたギャングや山賊のようにぬすみあった。これがアメリカに発展しつつある独占資本主義──帝国主義──であった。

ストライキ労働者に軍隊を

 この四半世紀には、多くのストライキが地方的内戦のようなはげしさにたっし、たたかう労働者は政府の軍隊と会社の武装守衛に対抗してスクラムをくんでいた。鉄道労働者がこの広範な階級闘争の正面に立っていた。一八七七年には鉄道労働者のすさまじいストライキが、大爆発のようにこの国を痛打したが、それはアメリカ史上最初の全国ストライキであった。当時の鉄道組合は非常に小さく、大した役割を演じていなかった。

七月一六日にオハイオ州マーチンスバーグで、賃金引下げに反対する黒人と白人をふくむ未組織労働者のあいだではじまったストライキは、いちはやくニューヨークからカリフォルニアヘ、カナダからメキシコ湾へと全国にひろがり、多くの幹線をとめてしまった。

おどろいた当局は、ストライキ労働者にたいしてはげしい手段をとり、前例のないこのストライキをおしつぶすために軍隊をもちいた。鉄道労働者は他の労働者の支援をえて戦闘的に抵抗した。ストライキ中に数十人の労働者、兵士、会社暴力団がころされ、数百人が負傷し、多数のストライキ労働者が逮捕され、鉄道の施設が大量に破壊された。「これはストライキではなくて革命だ」とブルジョア新聞はさけんだ。セントルイスでは、労働者が社会主義者に指導されて、一週間この町をまもった。

しかし八月二日までに、この大ストライキはつぶされたが、全国民は労働者階級のおそるべき力をはじめて本当に学んだのであった。このストライキののち、おどろいた資本家階級は、労働者にむける軍隊の拠点となるように、すべての大都市に強力な州兵部隊本部をつくりはじめたが、今もこのやり方はつづいている。

 この嵐のような時期の、いくつかの大鉄道ストライキの一つとして、アメリカ鉄道組合(ARU)の一八九四年のストがあった。この組合は、のちに社会党の指導者になったユージン・V・デブスによって指導された独立の組織であった。アメリカ鉄道組合は、六月二六日ブルマン・パレス車両会社のシカゴ車両工場のストライキと共同闘争でストにはいった。鉄道友愛会の保守的幹部が敵意ある態度をとったにかかわらず、こんどもストイキはまたたく間にひろがった。おそらく八五万鉄道労働者の、三分の一はストにはいったであろう。

政府と全経営者協会は、この重大なストライキをつぶしにかかった。連邦軍隊が動員され、ストライキ労働者にはげしい攻撃がくわえられた。ストライキが郵便を妨害するのは不法だという連邦の禁止命令がだされ、デブスその他のストライキ指導部は逮捕された。ゴンパースと鉄道友愛会幹部が、全国的ゼネストでこの闘争を支持することを拒否したのちに、ストライキはうちやぶられた。

 この戦闘的な四半世紀には、炭鉱労働者もいくつかのはげしい大ストライキをたたかった。ペンシルヴェニア無煙炭田で、一八七四年一二月から一八七五年六月までおこなわれた最初の「長期スト」は、半ば内戦のような状態のもとでたたかわれた。このストライキが頂点にたっしたとき、アメリカ労働運動史上の大悲劇の一つがおこった──アイルランド人鉱夫の指導者が、秘密テロ組織モリー・マグワイア党の党員であるというでっち上げの口実で、一〇人が絞首刑、一四人が長期刑に処せられたのである。

一八九四年には、一二万五千人の瀝青炭鉱夫がまた、オハイオ州および周辺地方で、深刻な恐慌で全面的に賃金が引下げられたのに反対してストライキにはいった。このストライキはいつもながらのテロ戦術でうちやぶられたが、統一鉱山労働者組合の基礎をすえたたたかいの一つであった。

 三番目の大きな炭鉱ストは、一九〇二年のペンシルヴェニア無煙炭炭鉱労働者一四万五千人のストライキであった。労働者の武装していない平和的な行進に、炭鉱守衛の銃火があびせられて、一九人の死者と四〇人の負傷者をだした事件は、一八九七年のこの地方ラッティモアでの出来事であった。ストライキは六月二日にはじまり、五ヵ月つづいたが、特徴的なテロ状態のもとでたたかわれた。

「どの炭坑も今では柵と有刺鉄線をはりめぐらした陣地さながらであった。」炭鉱経営者の独裁的指導者ジョージ・F・べーカーは、「労働者の権利と利益は、労働者を扇動するやからではなくて、神がかぎりない知恵でこの国の財産権の支配をゆだねたもうたキリスト教徒によってまもられ、配慮されるであろう」と声明した。ストライキ労働者の連帯性はかちとられていたが、ストは連邦の政府仲裁にさそいこまれ、労働者はその勝利の大部分をうばわれた。

この歴史的ストライキは、統一鉱山労働者組合をしっかりと確立し、またジョン・ミッチェルを組合の正面にひきだした。この男は、アメリカ労働運動史上もっとも悪名高い反動の一人となった。第一次世界戦争までアラバマ、ウェスト・ヴァージニアその他の炭田は、何百人という労働者がころされるたえまない戦場になっていた。

 そのころ一方では、ピッツバーグの鉄鋼労働者たちが、労働者階級の歴史のなかにもっとも輝かしい一ページを書きこみつつあった。一八九二年六月三〇日に、アメリカ鉄鋼会社(U・S・スチール会社)の前身であるカーネギー鉄鋼会社は、賃金切下げを実施し、また強力な合同鉄鋼労働者組合を破壊しようとして、ピッツバーグのはずれのホームステッドで八〇〇人の熟練工をロックアウトした。それ以外の三千人の未組織労働者は、ただちにロックアウトされた人々と共同闘争に立ちあがった。闘争はヒュー・オドンネルによって指導された。工場をバリケードにかえてしまった会社は、おきまりの武装暴力で労働者の抵抗をうちやぶろうとかかった。このために会社は、オハイオ州からモナンガヒーラ河を経てピンカートン探偵三〇〇人を工場にひきいれようとした。

しかし一八八九年にこのような侵入を撃退したことのある労働者たちは、鉄鋼工場を占拠し、やってくる探偵にライフルの銃火をあびせた。若干の労働者と探偵が戦闘でころされ、ピンカートンは立往生してこの町を去らなければならなかった。だがこうして労働者が勝利したにもかかわらず、会社は州兵部隊、裁判所および暴力団の助けをかりて、はげしい五ヵ月の闘争ののち、ついにストライキをおしつぶした。この敗北は、その後約三〇年のあいだ、鉄鋼工場での労働組合運動の主力をうしなわせることになったが、それは組織労働者の闘争のなかで、もっとも偉大な伝統の一つをのこしたのである。ホームステッドは、アメリカ労働運動史上永久に輝かしい名前としてのこるであろう。

 この時期には、極西部のロッキー山脈の金属鉱山労働者のあいだでも、多くのはげしい武装ストライキがおこなわれた。労働者たちは英雄的な西部鉱夫連盟の旗のもとにたたかった。この組合は一八九三年に創立され、ウィリアム・D・ヘイウッド、ヴィンセント・&・ジョンその他の革命的指導者に指導されていた。一八九〇年代と一九〇〇年代の初めにモンタナ州、コロラド州およびアイダホ州で、鉱夫たちは、組合を破壊し、彼らをむりやり奴隷に近いものにしてしまおうとする、鉱山主たちの野蛮なたくらみに反対して断固たたかった。これらのストライキはいつも、自衛のために武装した労働者の、州兵と鉱山守衛にたいするほんものの戦闘に発展した。

 この数十年間のはげしい階級闘争の頂点となったのは、一八八六年五月一日の八時間労働日ゼネストであった。

この歴史的ストライキは、わかいアメリカ労働総同盟(AFL)が、一八八四年の大会で採択した決議によって首唱したもので、その決議の趣旨は、一八八六年五月一日当日およびそれ以後、一日の労働時間を八時間とする、当日、全国的に労働日短縮を実施させるためにゼネスト運動をおこなう、というのであった。この行動は、ゼネストで八時間労働日を確立しようという、一〇年前の産業友愛会の提案につながるものであった。一八六五年に南北戦争がおわってからずっと、八時間労働日は労働者の当面の重要問題となってきたが、今やそれを実現するためにおもな努力がはらわれることになった。

アメリカ労働総同盟(AFL)と対立していた労働騎士団の反動的首領ティレンス・V・パウダリーは、労働者を裏切ってこの運動に反対した。

 一八八六年五月一日のストライキは、組合内で左翼の影響が強かったシカゴをおもな中心とする、三五万人の労働者を動員した。約一八万五千人の労働者、とくに建築労働者が八時間労働日をかちとった。このストライキは、労働運動を鼓舞する大きな効果をあげ、多くの組合がこの闘争から発足した。ストライキはまた、そのころアメリカ労働総同盟(AFL)と労働騎士団のあいだですすんでいたはげしい勢力争いで、AFLの優勢を保証した。

この偉大な闘争はまた、一八八九年パリの第ニインタナショナル創立大会が、この日を世界労働者の祭典の日とさだめたことによって、国際的メーデーをうみだした。

 一八八六年の大ゼネストは、労働者階級にたいする資本家のもっとも無法な犯罪の一つをうんだ。五月四日、マッコーミック・ハーヴェスターエ場での六人のスト労働者の虐殺に抗議する、シカゴのヘイマーケットの集会で、何者かが爆弾を投じ、七人の警官と四人の労働者が死に、多数が負傷した。警察は数人の労働運動指導者をとらえた。彼らは無政府主義者、もっと適切にいえばアナルコ・サンディカリストであった。

途方もないヒステリーさわぎと組織的なでっち上げのカンパニアののちに、一八八七年一一月一一日、バーソンズ、スピース、フィッシャーおよびエンジェルは絞首刑、ニーブ、シュワッブおよびフィールデンは長期刑に処せられた。リングは監房で死んでいるのが発見され、当局は自殺だといった。全世界の労働者は、野蛮なヘイマーケット事件に抗議の叫びをあげた。この事件で裁判所は、死にものぐるいでアメリカ労働運動を破壊しようとする、スト破りとならず者の仲間になりさがったのである。

 この時代には、ほかにもたくさんのはげしいストライキがあった。たとえば一八九二年、ニューオルリーンズでの黒人および白人労働者のゼネスト、一九〇五年のシカゴ・ティームスターズのストライキ(このストでは、二〇人がころされ、四〇〇人が負傷し、五〇〇人が逮捕された)などである。一八七五年から一九〇〇年にかけてアメリカではげしい数百のストライキがおこなわれたことの核心には、労働組合運動の確立を妨げようとする組織された雇用主たちのだくらみがあった。それは無慈悲な闘争であり、その後数十年にわたって狂暴に荒れくるうことになったが、ついに一九三〇年代になって、労働者はトラスト化された基礎産業に組織をつくることに成功したのである。
(W・Z・フォスター著「世界労働組合運動史」大月書店 p156-161)

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◎「一八八六年五月一日当日およびそれ以後、一日の労働時間を八時間とする、当日、全国的に労働日短縮を実施させるためにゼネスト運動をおこなう……この行動は、ゼネストで八時間労働日を確立しようという、一〇年前の産業友愛会の提案につながる……一八六五年に南北戦争がおわってからずっと、八時間労働日は労働者の当面の重要問題となってきたが、今やそれを実現するためにおもな努力がはらわれることになった」と。