学習通信060420
◎ラダイト運動は峠を……
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こういう抵抗もまた散発的なものにすぎず、一定の地域にかぎられていて、現在の状態のただ一つの面だけにむけられたものであった。当面の目的が達成されてしまうと、社会の力の重圧がすべて、もとのように抵抗力を失った犯罪者たちのうえにのしかかり、思うぞんぶん彼らをこらしめ、その一方で機械はやはり導入された。新しい抵抗の形態を見つけなければならなくなった。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p45)
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ラダイトヘの手紙
ラダイト運動を終息させるうえで、一八ー六年一一月三〇日付の『ポリティカル・レジスター』という週刊誌にのった「ラダイトヘの手紙」という論説が大きな役割を果たしたといわれている。筆者 は、この雑誌の編集者ウィリアム・コベットである。この「手紙」は都築忠七編『資料イギリス初期社会主義』(一九七五)の中で抄訳収録されているが、日本ではあまり研究されていないこのコベットという人物について、まず簡単に紹介しておこう。
ダニエル・グリーンによる伝記『偉大なコベット』(一九八三)は、コベットの生涯を三つの時期に分け、それぞれの時期のかれの政治的立場を特徴づけているが、それによると、第一期は一七八九年から一八○○年までで、この時期のコベットはトーリ右派であった。第二の時期は一八○一年から四年までで、この時期はウィッグ的傾向である。そして第三の時期は一八○五年からその死、一八三五年までで、この時期のコベットはラディカルであったとされている。
ただし、トーりになる以前のコベットはむしろラディカルであったとも見られている。とはいっても、かれは一七六三年生まれで、トーりになる以前というのは、まだ彼の思想をうかがうような資料はない。ただかれの父親がサーリ州の田舎でパブを経営していてアメリカ独立戦争を熱心に支持していたので、その影響があったと推定できるぐらいである。かれは一七八四年、二一歳のときに軍隊に入隊し、以後、一七九一年まで七年間、兵隊暮らしをし、その間にカナダのノヴァ・スコシアに駐留していたという経験をもつ。
帰国後、かつての上官四名に不正があったとして告発するが、逆に告訴されそうになり、一七九一年にフランスヘ逃亡、ここで革命の動乱を身近に見た後、アメリカヘ渡った。このフランスでの体験がかれを反共和主義者にしたらしいが、アメリカヘ渡ってからはフランス人亡命者に英語を教えて生活をたてていたから、あるいはそのときの経験から革命嫌いになったのかもしれない。ともかくコベットの最初のパンフレットは、イギリスで身の危険に晒(さら)されてアメリカヘ逃げ、そこで大歓迎をうけたジョージフ・プリーストリにたいする匿名の批判の書であった。
イギリスとフランスとの戦争がはじまるとコベットは熱狂的な愛国者となり、フランスとこれを支持するアメリカ人に攻撃の矢をむけた。一七九七年からかれは『ポーキュパイン・ガゼット』という新聞をフィラデルフィアで発行しはじめるが、その鋭い論調はたちまち評判になり、ときには言葉がすぎて罰金刑をくったこともあった。一八○○年に帰国するが、その愛国的論調のために大歓迎を受け、ピットら政府首脳との会食に招かれるほどであった。
しかし、そこで政府の側から『トゥルー・ブリトン』という政府の広報紙のような役割をしていた新聞の編集を依頼され、これを断ったために、政府の信用をうしなったという。しかしかれのフランス嫌いは収まらず、フランスとの和平交渉に反対し、そのために和平脈の群集に襲われたこともあった。しかし、やがてコベットの方もビットに失望するようになる。それはピットが戦争の遂行に失敗し、財政難や金融危機が生じ、また穀物価格が騰貴して民衆生活を苦境におとしいれたためであった。
イギリスに帰ってからもイギリス版の『ポーキュバイン』を出しつづけていたコベットは、一八○一年にこれを一二冊本にまとめて出版したのち、一八○二年から『ポリティカル・レジスター』という週刊誌を出しはじめる。この雑誌は世論に大きな影響を与え、のちにウィリアム・ハズリットによって「この国の政治における一種の第四身分」といわれたほどであった。そしてこの雑誌によりながら政治評論を続けていくうちに、コベットはしだいにラディカルになっていくのである。
一八○四年にコベットは、サウサンプトンの近くに土地を買って農場の経営をはじめるが、もちろん評論活動をやめたわけではなかった。その論法の鋭さは「イギリス・ジャーナリズムのロベスピエール」とよばれるほどであった。かれの農業のやり方はきわめて復古的であって、すでに農業革命を経過していた当時のイギリスにあって、馬に引かせる大型のプラウをもちいず、手で土を掘り返すスペードという先の四角になった鍬を使い、脱穀にはフレールという殻竿を使い、自給自足の生活をめざしていた。労働者も何人か雇っていたが、賃金は現物で支払っていたという。
彼は機械化に反対であり、古い農法を続けていた方が失業者もでないと考えていたのである。そういう立場からすれば、コベットはラダイトを支持していたと考えられるのだが、じつはそうではなく、ラダイトに共感しつつも、その行動は支持できないというのである。
打ちこわしから議会改革へ
手紙の内容を見てみよう。まずコベットは現代は自由と進歩の時代だという。スペードと殻竿に固執しているコベットが進歩を賛美するのも奇妙な感じであるが、そういう時代にあって「理性の声に耳をかたむけず、激情に身をゆだね、法においても公正さにおいてもまったく正当化されえない行為をおかす」ことが時代の流れを阻止している、とかれはいう。
あなた方の行為を扇動したり、ゆがめて報道したりするものもいるが、それらのことは別として、「あなた方が隣人の財産に暴力行為をくわえ、ある場合には隣人やその家族の身体を脅かしたということは否定することはできない」。それは勇気と公共精神に富むノッティンガムの歴史を汚すものである。そしてコベットはラダイトに向かって、雇い主にたいする不満はあるかもしれないが、彼らのやり方もけっして貪欲のせいではなく、かれらもあなた方の幸せを願っていて、ただそのやり方を知らなかっただけだと説得をこころみている。
さてこれからが本論である。「機械一般の使用については、いかなる反対もありえないと私は確信している。しかし、これはきわめて重要な問題であるので、いっしょに考えてみよう」。機械とはなにか。それは人問の身体の力でなしうる以上のことをなしうるものであって、それが発明されたことによって皆が利益をうるのである。「文明社会においては機械なしで生きていくことはできない。なぜなら、機械とは人問の手とは区別される物であるから、人間が使う道具はすべて機械である」。
プラウも機械である。スペードも機械である。「機械を全部否定したら素手で土を掘らなければならない」。ここまではラダイトもみとめるであろう。しかし現状においては機械は職人や労働者に不利に用いられ、かれらの惨めな状態のひとつの原因となっているのではないか。これが大問題なのだ。ここでコベットはかれの経済理論を展開する。
それはつぎのようなものである。農業労働者は脱穀機によって仕事を奪われるという。これは大きな誤りであって、脱穀機を用いることによって借地農は経費を節約することができ、その節約分で排水作業や垣根づくりなど、ほかの仕事のために労働者を雇うから仕事を奪うことにはならないのである。また機械を使用すれば価格を下げることができるので、同じ支出で多くの商品を買うことができるし、外国との競争にも有利である。
しかし機械の導入によって職人たちが職を失い、困窮していることも事実なのである。これはなぜなのか。コベットは答える。それは機械に原因があるのではなく、雇用の不足のためであり、雇用の不足は需要の不足から生じている。需要の不足は購買手段の不足から生じているのだが、「商品を購買する手段の不足は重税と紙幣のバブルとが結びついて生じているのだ。税の膨大な重荷と紙幣のバブルは戦争、無用な官職、常備軍、借り入れとイングランド銀行の支払停止によって生じた。そしてこれらのことは、もし庶民院の議員が国民全体から毎年選出されていれば、けっしておこらなかったであろうことは、私にはきわめて明白であるように思われる」。これがコベットの答えである。
かれはここにあげたひとつひとつの項目について説明しているが、それは省略しよう。ではどうすればよいのか。コベットはいう、「すべての階級の人びとが集まり、改革をもとめて議会へ請願をしよう。……われわれはすべて請願の権利をもっている。この権利を行使することは神聖な義務であり、これを妨げることは最悪の犯罪である。ただし、これらの請願においては唯一の本質的な目的は改革であるべきである。……改革はすべての害悪をただちにあらためるであろう。貿易も商業も製造業も農業もすべて問もなく復活し、わが国はふたたび自由で幸福になるであろう」
コベットはこの手紙のおかげでラダイト運動は終息したとのべたというが、これはもちろん自画自賛のたぐいであろう。その後も散発的に打ちこわしがおこったことはさきにのべたとおりであり、また、この手紙の出た一八一六年にはすでにラダイト運動は峠をこえていたのであるが、しかしこの手紙がかなり大きな影響をもったことも事実である。リカードもこのコベットの見解を支持したという。ただし、のちになってリカードは、コベットは機械による失業の増大を過小評価していると、少しコベット評価をあらためたのであった。
この手紙だけではなく、コベットの評論の影響力はきわめて大きかったので、その翌年、摂政の馬車が狙撃され、人身保護法が停止されるという緊迫した情勢のときに、コベットは内務相から、一万ポンドと引き換えに『レジスター』を止めて田舎へ引っ込んでほしいという申し出を受けたほどであった。そのときかれは「沈黙させられるという、考えただけでもぞっとするようなこと」に耐えられなくてこれを拒否した。
しかしその後、身の危険を感じてアメリカヘわたり、二年後帰国して大歓迎をうけた。アメリカ滞在中、コベットはトマス・ペインの伝記を書こうとしてはたさなかったが、ペインが草深い片田舎の墓に人知れず眠っているのには我慢できないといって一八一九年のある日、ペインの墓を掘り起こし、イギリスヘ帰国するさい、ペインの骨をもちかえった。しかし、その後、その骨は別人のものといわれたという。
少年のころ、父親の影響でアメリカ独立にふかい共感を覚えた「三つ子の魂」は五〇歳をこえたコベットにもまだ残っていたのかもしれない。選挙法改正後最初の選挙でコベットは当選し、一八三五年にも再選をはたした。コベットが後世に名を残しているのはここにあげたことよりも、一八二一年からはじめた『農村騎行』という農村視察記である。
(浜林正夫著「パブと労働組合」新日本出版社 p76-83)
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◎「散発的なものにすぎず、一定の地域にかぎられていて、現在の状態のただ一つの面だけにむけられたもの」と。