学習通信060414
◎友だち親子……
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第一の規則は、なんらかの程度の規則、特に子どもの生活にみなさんがどのくらい干渉すべきかという問題における規準のきまりです。これはきわめて重要な問題ですが、家庭ではよく間違った処置がとられています。どの程度、自主性、自由を子どもに与えるべきか、どの程度まで《手を取って教える》べきか、どの程度まで、なにを許し、なにを禁じなければならないか、なにを子どもの意志にまかせるべきなのか? という問題です。
子どもが通りへ出る。すぐ親は「あっちへ行くんじゃない、こっちへくるんじゃない。」と大声をあげます。これははたして正しいのでしょうか? 子どもに無制限な自由を与えるなどというのでは、問題になりません。けれども、かりに子どもはどんなことでもいちいちきいてみなければならないとか、いちいち親のところへこなければならない、いちいち親の許しをもらって、親のいった通りにしなければならないというのであれば、子どもには自分の創意や機智を働かせたり、冒険をしてみようという余地が全然ないことになります。これもやはりよくありません。
私は《冒険》ということばを使いました。子どもも七・八歳になると時には冒険をしてみたいと思うものです。ですから親はこの冒険を見守って、子どもが勇敢に育つように、なんでも親の責任にしてしまう癖がつかないように、つまり、おかあさんがそういったの、おとうさんがいったわよ、親はなんでもしっている、親はよくわかっている、だから親のいった通りにすればよいと思わないように、ある程度の冒険は認めてやらなければなりません。
親の干渉が限界を越えると、息子は男らしい男には育ちません。時には、意志の弱い、決断力のない、冒険をしてみる気持ちも勇気もない人間になったり、時には逆に、親のいうことを聞くには聞いてもある限度までで、はけ口を求めているつもりつもった力が時には爆発して、《いい子だったのに、いったいどうしたのだろう》といった家庭の騒ぎになるのがおちです。ところが実際にはいいつけを守ったり、いうことを聞いていた時、その時期にそうなったのですが、生れつきその子にあって、成長と学習に応じて伸びていく力が、その働きをあらわしたのです。それもはじめはひそかに反抗しはじめますが、そのうちにあからさまになるのです。
これもよく見受ける極端な例ですが、子どもというものは思う存分創意を発揮し、好きなように行動すべきものだと考え、どのように過しているのか、なにをしているのか全く気に留めません。ですから子どもは無統制な生活、考え方、無統制な取り決めに慣れているのです。こんな場合に、多くの人は子どもに強い意志が育つと考えています。そうではありません。そんな場合、意志が育つものではありません。
真の強い意志というものは──なにか望みのものを手に入れるという能力では決してありません。強い意志というものは、望みのものを手に入れる能力であると同時に、必要に応じて、意をまげても断念する能力でもあるのです。意志というものは──単なる願望だとか満足ではなくて、それは望むことでもあり、中断することでもあり、望むことと同時に、拒否することでもあるのです。かりに子どもが自分の望みを果たすことだけに熱中し、それをおさえることをしなければ、強い意志などは生まれません。ブレーキのない機械などあり得ないように、ブレーキのない意志もあり得ないのです。
私のコムーナ員はこの問題をとてもよく理解しています。《なぜ自分にブレーキをかけなかったのだ、そこでやめなければならないことをよく知ってるのに。》私は子どもたちによく問いただしました。同時にこうも要求しました。《なぜじーっとしているのだ。なぜ思いきってしないのだ。私がいうまでなぜ待っていたのだ》と。これも悪い一例です。
子どもたちには自分を阻止したり、抑えたりする能力をつけてやらなければなりません。勿論、これは簡単なことではありません。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p78-81)
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親
二月のある日の夕方、私鉄のある駅を通りかかったところ、同じような年代の女性が数十人、駅前の広場に立っていた。しかも、仲間連れでもなくそれぞれひとり。いったい何事か、と思ってしばらく見ていると、まもなく大量の高校生が駅に向かってやって来て謎は解けた。彼女たちは、その駅のすぐ近くにある大学の入試を受けに来たわが子を迎えに来ていたのだ。
今や、大学の入学式、卒業式に両親が同伴するのはあたりまえなので、入試の送り迎えに親が来るくらい、驚くことではないのかもしれない。しかし、儀式である入学式などとは違って、入試はあくまで本人自身の実力を試される場だ。そんなところにまで親が来て「どうだった? 合格しそう?」などと言われたら、子どもとしてはイヤな気分になるのではないだろうか。そう思ったが、迎えの親の顔を見つけた受験生の多くは、うれしそうに手を振ったりしていた。
かつて思春期にある若者にとっては、親は乗り越えるべき怪物、強敵のような存在だった。それまでは何気なく聞いていた「顔洗ったの?」「もっと牛乳飲みなさい」といった指示や言いつけが、やっと出てきた自分らしさの芽を摘み取るハサミのように恐ろしく思えてくる。そして、「どうでもいいじゃない、私の勝手でしょ!」「牛乳なんて絶対飲まないからな」とつい声を荒げて、怪物のハサミ≠ゥら自我の芽を守ろうとする。親としては、子どもによかれと思って声をかけているのに、なぜそれほど反抗されるかわからない。「それが親に対する口のきき方なの? 黙って早く顔を洗ってきなさい!」と言い返し、いわゆる切った張った≠フ親子ゲンカになってしまうことも少なくない。
ところが今の若者の多くは、そういう激烈な思春期の親子ゲンカの時期を体験していない。親も「○○しなさい」と口うるさく命じることもないし、たとえ言われたとしても、子どもの側もあらがうことなく素直に「そうだね」と従う。より友好的な方向への変化が、親にも子にも起きているようだ。その関係を指して、一卵性親子とか友だち親子と呼ぶこともある。
もちろん、怒鳴り合う親子よりは、いつも穏やかにすごす親子の方が好ましいようにも思える。しかし、そういった友だち親子の子どもの側が、ある年代になって思わぬ心の問題に直面することもある。以前、カウンセリングを担当していた二十代の女性は、両親との間で目立ったケンカをしたこともなく、大学を出て専門職についた。ところが、数年してから不安感や「これでいいの?」という不全感が高まり、生活にも支障が出てくるほどになった。彼女は言っていた。「私と両親はなんでも話し合うことができるので、とても恵まれていると思います」。ただ、あまりに両親とコミュニケーションしながらそこまでやって来た結果、彼女はどれが自分自身の気持ちでどれが親の気持ちなのか、自分でも判断がつかなくなっていたのだ。
親が乗り越えるべき壁として立ちはだかっていれば、それとの距離をはかることで自分自身の心理的な特性や傾向などを確認していくこともできる。
しかし親と自分との間があまりに平らで地続きのまま育つと、大人になってからも自分を親から独立した存在として自覚できなくなってしまうことがあるのだ。
そういう意味では、子どもから「あんたみたいな大人にはなりたくない」「お父さんなんて欠点だらけ」などときらわれることのできる親の方が、子ども孝行≠ネのかもしれない。
親の送り迎え付きで大学入試を受ける受験生はどうなのだろう。その大学を受けたいと思ったのは自分自身の意志なのだ、と彼らははっきり自覚できているだろうか。それとも「お母さんもこの大学に入ってもらいたいみたいだから」と、親の気持ちを肩代わりして受験しただけなのだろうか。
もし後者である場合、実際に大学に通い出してから、「ここに来たのは自分の意志じゃなかった、自分にはもっと行きたい学校があった」と、はっと気づいて後悔するようなことはないのだろうか。肩を並べて帰る受験生親子たちを見ながら、やや心配になった。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p10-13)
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小さいときから薄着を
冬は「寒くないように」ということだけを考えて、暖房と厚着のことばかり心配している親を多く見受けます。
冬の子どもの部屋の適温は十八度から二十度とされています。そのなかでは子どもらしい運動のできる、かなりの薄着でよいのです。丈夫な子どもは、まる裸でいてもよいくらいです。
それを、むっとするへやに、外にでるときのような厚着そのままにして、子どもは汗をかいている……などは最低です。これでは、皮膚や神経系の調節能力が働かないように、カゼや病気にかかりやすいように育てているといってもいいすぎではありません。このような過保護は、とかくひ弱な子どもをつくってしまいます。
高層アバートがふえれば、土さえ一袋三十円の商品となり、よごれた空気を一日吸ったサラリーマンは、喫茶店で十五分間百円の「びん入りのいい空気」を吸って帰るなど、まさに資本主義末期の大都会の姿です。暖房と厚着で守られた子どもたちの多くが、愛育病院などで「クル病」の診断を受けて高い治療費を払うという現象がある一方では、「人工雪焼け室」などが生まれて宣伝に大わらわです。
こんな風潮にしっかりと批判的な目をもち、人間本来の素朴な生活に立脚した、ほんとうに健康な子どもを育てるように努力したいと思います。
皮膚や内臓には自律神経が支配していて、文字どおり自動的に働くことによって身体を調節しています。厚着によってこの調節能力はおとろえます。だから小さいときから薄着の習慣をつける方がよいのです。赤ちゃんも暖かい日には日光浴をさせましょう。おむつ替えのひととき、下半身を日にあてるだけでも効果があります。幼児になれば病気でないかぎり薄着であそび、素手素足もそう心配いりません。
親や保育者は気温の差によって衣服の調節を助言し、だんだん一人で加減できるようにしむけましょう。いつも車ではなく、寒風にさらされても適度な道は歩かせましょう。小・中学生は一日一回の乾布まさつもよし。寝まきに着替えるとき、素はだになってタオルでまさつするなど、寒さに抵抗する日課は、子どもの意志を鍛えるにも効果があるのです。
ここでは薄着のことに関してからだと意志をきたえる方法についてのべてみましたが、できれば親子ともども、大きくなったらひとりででも自分から、からだを鍛えてゆく習慣を身につけさせたいものです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p64-65)
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◎「親が乗り越えるべき壁として立ちはだかっていれば、それとの距離をはかることで自分自身の心理的な特性や傾向などを確認していくこともできる」と。