学習通信060413
◎立ちすくんで……
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習慣をつける
寒さがきびしくなると、どこの家庭でも、「保育園おくれるよ」「学校休むの」という声がとびかいます。いままで元気に登回、登校していた子どもが、急にぐずぐずしだすようです。もっとも、おとながいちいち「手洗った?」「歯みがいた?」といわなければ実行できない子どもは、習慣化の前段階にいるわけです。
今日、習慣についての考え方は、からだでひとつひとつ生活に必要なことを覚えていくとされています。ですから、「あなたは、歯をみがくとき、前の歯からみがきますか、横の歯ですか?」と問われると、とっさに答えられず、一度、毎日の歯みがきの動作をしてから、「前からです」という奇妙な応答になるのです。
子どもの習慣づけも、この動作、行動が中心になります。最初、おとなが、手に手をとって、そのやり方を教えます。つぎに、おとなのやり口を手本にして、見よう見まねで自分なりのやり方を覚えていくわけです。そして、毎日、毎日、根気よくからだの努力をつづけていきますと、やがて、努力感がなくなり、その場、その時間になると、自動的にひとつの動作、たとえば歯をみがくようになります。こうなると、ひとつの習慣がその子どものからだのなかに定着した、習慣化したといえましょう。
このように確実に習慣化する上で、考えなければならないことを二、三あげてみます。
まず、一通りのやり方を教えても、子どもは毎日の努力が必要です。こんなばあい、すぐに 「歯みがいた?」と口先で、毎日注意を与えることは、子どもが自分からやろうとする意欲を失いますし、おとなに注意されなければやらない子どもになってしまいます。
夏休み、冬休み、正月休みなどには、とかく例外をつくりがちです。努力して習慣を身につけようとしている子どもにとっては、毎日のつみ重ねが大切です。休みだからといって例外をつくりますと、いままでのつみ重ねがくずれ、再教育というかえってめんどうなことになります。
さいごに、習慣化でもっとも大切なことは、昔の「道徳教育」のように、納得も説得もぬきに頭ごなしに習慣づけを強制しないことです。
近ごろの保育園の便所は、とてもきれいです。子どもは楽しんで排便をしています。また、家庭のなかには、こどもがオサルさんのようにとびあがらなければ、手ぬぐいにさわれないという例をみかけます。子ども向け、年齢向きに、何枚かの手ぬぐいをぬい合わせるということもひとつの工夫です。
こうした環境の工夫によって、子どもは楽しんで自主的に習慣を身につけていくことでしょう。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p66-67)
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好きなことを続けるということ
みんなの中の半分は、たぶん女の子だよね。そしてそのほとんどは、「大きくなったら仕事したい!」と考えていると思う。「私は外で仕事するより、すぐに結婚して家の中のことしたい」という人もほんのちょっとはいるかもしれないけど。
その仕事派≠フ女子にききたいんだけど、あなたは五〇歳になっても六〇歳になっても仕事を続けたい? それとも、「先のことはわからないけれど、そんな年までバリバリ働こうとは思わないな」という考え?
どうしてそんな話をしたくなったかというと、最近、何人もの働く先輩たち≠ノ会う機会があったからだ。
ある女性は、五〇代。まだ日本でファッションの仕事がさかんでなかった時代から、雑誌などのモデルの洋服を用意するスタイリストをずっと続けている。「二〇代のころは、スタイリスト? なに、それ? って感じで、仕事をしても謝礼さえ払ってもらえないこともあった。編集者やカメラマンにさえ、趣味でやってるんだろうって思われたりしてね。だから、いつもお金がなかったわよ」
私はびっくりして、たずねた。「お金ももらえないのに、どうしてそんな仕事を続けたんですか?」。すると彼女は、明るく笑いながらこう答えたのだ。「それは、洋服が好きだったからよ。好きなことができるって、お金よりずっと大切だしね」
もうひとりは、六〇代の女性医師。彼女も、病院に勤務して給料をためては、アジアやアフリカの貧しい地域に出かけ、予防接種やHIV(エイズ)検査などの医療をボランティアでしている。ずっと日本の病院にいたら、自分のためのおしゃれや趣味などの時間もお金も取れるはずなのに、いつもシンプルな服にノーメーク。「休みの日はなにしてるんですか」ときくと、「たまりにたまった洗濯と掃除ね」と笑った。彼女も、「つらいときもあるけれど、仕事を続けてよかった。本当に楽しい」と言っていた。
私は今、四〇代。みんなから見れば十分、「そんな年までよく仕事、続けてますね」と思うかもしれないけど、迷いもなくきびしい仕事を続けている先輩たちとはだいぶ違う。いつも「もうやめようかな!」なんて言いながら、手抜きすることもしょっちゆう。これ以上、つらくなったらきっと「もう、やーめた」ってなっちゃうと思う。
でも、たいへんな環境で長いあいだ働き続けてきた先輩たちを見ているうちに、「好きなことを続けるって、すごく大事なのかも」と思った。だってその人たちって、これまで会ったことのあるお金持ちの奥さんとかどこかの社長さんとかより、何倍も生き生きした顔をしてたから。
みんなにとっては、六〇代まで働き続けるなんて気が遠くなる話かもしれないけれど、いつか「好きなことを続けるって、なにより大事」ということば、思い出してね。私も忘れないようにするから。
□何歳から何歳まで仕事をしたいですか
□二億円あげるから四五歳で定年退職してください、と言われたらどうしますか
□ー○○歳になっても現役で仕事をしている人をどう思いますか
(香山リカ著「10代のうちに考えておくこと」岩波ジュニア新書 p21-23)
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この問題に関する講義を組み立てること自体全くまだまだ未解決の問題があって無理なのです。というのは家庭における子どもの教育に関する標題を並べるだけでも、一時問ではとうてい足りないと思われるからです。ですから私はこの短い話の中で、私たちみんなを悩ましている主な問題についてお話しをしたいと思います。この意味で、つまり教育の基本的諸問題のいくつかを提起する意味で、この話もあるいはこの最も重要な領域におけるみなさんの考え方の出発点となるような利点はあるかもしれません。なぜなのですか? その理由はこうです。という具合にです。
教育詩≠ェ出版されてこのかた、教育者や若い人々、それにもっと年長の社会の各階層の人々が私のところへやってくるようになりました。その人々は新しいソビエト的道徳の基準を求め、自分の生活がその基準に従うように望み、どのように生きるべきか私にたずねるのです。
ある時、若い地質学者が私のところへやってきて、こういうのです。
「私は研究のためにカフカスか、シベリアヘ派遣されますが、私はどちらを選ぶべきでしょうか。」私は彼にいいました。「とくに難しい仕事が待っているところへおいきなさい。」彼はパミル高原へいきましたが、ついさきごろ、私の忠告に感謝するという手紙が届きました。
ところが『親のための本』が出てからは、子どもに手を焼いている親が来るようになりました。よい子をもっている親はなんのために私のところへ来ることがありましょうか。来る親はこんな親なのです、父親と母親がそろってやって来ました。
「私どもは二人とも共産党員で、社会活動家です。私は技師で、家内は教育者です。うちの息子はいい子だったのですが、今ではもうどうすることもできないのです。母親ににくまれ口はきくし、家はすぐとび出す、物はなくなるという始末です。私どもはどうすればいいでしよう? 私どもは立派にあの子を教育してきたつもりです。かなり気をつけています。部屋も別ですし、おもちゃも欲しがるだけ与えました。着るものも靴も充分に買ってやったつもりです。いろいろの気晴しもさせてやりました。今だって(十五歳になりますが)映画に行きたい、芝居に行きたいといえば、行っておいで、自転車を欲しがれば、そら自転車だよという具合なのです。ごらんの通り、私どもはごくあたりまえの人間で、悪い遺伝などありません。それなのにどうしてこんな悪い息子になったのでしょう。」
「お子さんが起きたあと、毎朝寝床を片付けてあげるのですか。」母親に私はたずねてみました。「毎朝ですか。」「ええ、毎朝ですわ。」
「お子さんに自分で寝床を片付けさせようと一度も考えてはみなかったのですか?」
父親に質問してみました。
「ところであなたは息子さんの靴を磨いてやりますか。」
「磨いてやります。」
「そうですか、お引き取りください。これ以上だれのところへいっても無駄です。公園の並木か、どこか静かなベンチにでもすわって、あなたがたが息子さんにどんなことをしたのかよく思い出してみてください。息子さんがそうなったのはだれのせいかあなたがたの胸に聞いてみることです。そうすればその答もでてきますし、息子さんをたち直らせる方法もみつかるでしょう。」
まったくもって、息子の靴を磨いてやる、毎朝母親が寝床を片付けてやるというのでは、どんな息子ができあがるものやらわかったものではありません。
『親のための本』第二部で私はこの問題を扱ってみるつもりです。高等教育さえ受けた人々、つまり正常の知性と能力を備え、りっぱに働くことも学ぶこともできる良識ある人々が、公共機関全体や官庁、工場やその他の企業を統括することができたり、千差万別の多くの人々と、正常な人間関係や、同僚としての関係、友人としての関係やその他どんな望ましい関係ももてる社会人が、そういった人々が、どうして自分の子どものことになると、単純な問題もわからない人間になってしまうのでしょうか? それは結局、そういったことにぶつかった場合になると、生涯かかって蓄積した良識、生活経験、分別、総明さ、そういったものがどこかヘいってしまうからなのです。
自分の子どもの前では、ごく小さい問題さえもどうしてよいのかわからない《精神異常》の人問のように立ちすくんでしまうのです。なぜなのでしょうか? 唯一の原因、それはわが子に対する盲愛です。愛情というものは、およそ奇蹟を生み、新しい人間を創り、最大の人間的価値を作りだす最も偉大な感情といえますが……。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p68-71)
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◎「もっとも大切なことは、昔の「道徳教育」のように、納得も説得もぬきに頭ごなしに習慣づけを強制しないこと」と。