学習通信060221
◎人の心をわし掴み……
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わたしが一番きれいだったとき
茨本のり子
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を棒げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな目差だけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
(「現代詩文庫 20 茨木のり子」思潮社、一九六九年)
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私が毎日じたばた暮らしているせいか、生きるというのは、なんてこう、じたばたしなくちゃならないのかと思います。喜怒哀楽のさざなみ、大波にゆすぶられて、ひとびともまた、そのようです。生きることに深く根ざしている詩も、とどのつまり、この章の中にすべて入ってしまうでしょう。
詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできません。どんなに上手にソツなく作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無残な屍をさらすのは、感情の耕しかたがたりず、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。
感情は軽視されがちで「感情的な人」と言われればけなされたようでおもしろくなく、「理性的な人」と言われればほめられたと思ってしまうのも、理智のほうが上等という意識があるためです。けれど高度の数学や物理の発見は、しばしば直観によるといわれ、実証もされています。もっともボヤッとしていて、突如、霊感によってひらめいたというのではなく、理づめで追っていって迷路をぐるぐる廻るような苦しみの果て、或る日或る時、直観によって飛躍できたということでしょう。科学的なことはてんで駄目ですが、しかしこういう瞬問のことは十分想像でき、そうだろうなと思います。
感性といい、理性といっても、右折左折の交通標識のように、はっきり二分されるものではないようです。私の好きな詩は、私の感情と理智を同時に満足させてくれるからです。
くるあさごとに 岸田衿子
くるあさごとに
くるくるしごと
くるまはぐるま
くるわばくるえ
──詩集『あかるい日の歌』
ときどきとなえたくなる呪文の一つ。
大人も子供も、毎日毎日、時計のぜんまいを巻くように、ぎりぎり予定を巻きあげて日程を消化するのにせいいっぱい。なぜ、こんなに忙しい思いをしなくちゃならないのか、これが生きることのすべてなのかしら?
ときどき頭が痛くなったりするのも、弱い頭をそんなに酷使してもらっちゃ困るという、頭脳のストライキです。下痢するのは胃腸の、風邪ひくのはからだぜんたいのストライキ。
からだに関しては一人ひとりがそれぞれの経営者であり、労働者でもあって、歯車の一つが「もう厭!」と言えばちぐはぐになって、全体がダウンです。休めということで、その言いぶんを聞いてやらなくてはなりません。
くるまはぐるま
くるわばくるえ
時にはそんなふうに自分に言いきかせ、解き放ってやることも必要でしょう。
言いきかせるまでもなく、この作者は「くるわばくるえ」を地でいっていて、まったく自由に生きています。約束の時間、つまり人間のとりきめた時刻にあんまり従いませんし、待ちぼうけをくわされることもしばしば。たまにきっかり会えると異変が起こるのでは……と思えるほどです。一緒に旅をしてもゆったりしていて、指定券を買った列車に乗れそうになく、きちょうめんな私は心の中で「スケジュール、狂わば狂え」と叫び、野宿するつもりならあわてることはないのだと言いきかせていると、あわや、というところで乗れたりするのでした。
社会生活をするには、さまざまな約束を守ったほうが人に迷惑をかけず、すべてなめらかにゆくわけですが、ただそれだけのことにすぎません。そしてこれができないと落伍者にされがちなので、みんななんとなくがんばるわけです。同じ空気を吸いながら、まったく自分一人のペースで生き、人に何とおもわれようとかまわず、自分の歌しかうたわない岸田衿子の存在と詩は、思いがけない方角に、ぽっかり風穴あけるような、作用をはたしてくれています。
行のはじめはぜんぶ〈くる〉ではじまっていて、〈くる〉をくるくるまわしていたら詩ができてしまったらしく、ことばあそびからもいい詩が生まれる例の一つです。昔のわらべうたや民謡がしばしばそうであったように。
(茨木のりこ著「詩のこころを読む」岩波ジュニア新書 p78-81)
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潮流
茨木のり子さんの詩はユーモラスで優しさを感じさせながら読むものの背筋をぴんとさせるところがあります。国語の教科書にもいくつかが掲載されました
▼その一つが「わたしが一番きれいだったとき」です。「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で海で 名もない島で/わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった」
▼一九二六年生まれの茨木さんの「一番きれいだったとき」は、日本が侵略戦争に突き進み、そして敗戦した時代でした。女学校でも行進訓練があり、茨木さんは号令をかける役をさせられたそうです
▼「りゅうりぇんれんの物語」も教材として取り上げられたり、演劇で上演されています。中国から強制連行され北海道での過酷な労働から逃亡、終戦を知らないまま十三年も山中で生活をしていた劉連仁さんのことをうたった長編詩です
▼茨木さんは劉さんが発見されたとき「内部から衝きあげてくるものがあって、どうしても書かねばならぬという思いに従った」(詩集『鎮魂歌』〈童話屋版〉のあとがき)と書いています。「これは現実にあった話なんですか」と尋ねる人が多くなったとも
▼平和を願い、「九条の会・詩人の輪」の呼びかけ人になっていました。一昨年、「赤旗」日曜販のインタビューでこう語っています。「野党はもっとおもしろい、生き生きとした言葉で、人の心をわし掴みしてほしいんですよ」。訃報に接し、その期待にこたえなければとの想いを強くしました。
(「しんぶん赤旗2006.2.21)
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◎「感性といい、理性といっても、右折左折の交通標識のように、はっきり二分されるものではない」と。
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わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
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