学習通信060213
◎うそとごまかし……

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 物質的生産物の共産主義的な取得様式および生産様式にたいして向けられるあらゆる非難は、同じように、精神的生産物の取得および生産にもひろげられる。ブルジョアにとっては、階級的所有の廃止が生産そのものの廃止であるのと同じように、階級的教養の廃止は教養そのものの廃止と同一である。

 失われるのをブルジョアが嘆いている教養は、大多数にとって機械となるための養成である。

 しかし、諸君は、自由、教養、権利(英語版 法)などについての諸君のブルジョア的観念でブルジョア的所有の廃止をはかることによって、われわれと論争することはしないでほしい。諸君の理念そのものが、ブルジョア的生産諸関係および所有諸関係の産物である。

たとえば、諸君の権利は、ただ、法律にまで高められた諸君の階級の意志、すなわち、諸君の階級の物質的生活諸条件のうちにその内容が与えられている意志ににすぎないのである。

 諸君が自分の生産諸関係および所有諸関係を、歴史的で生産の経過のなかで過ぎ去ってゆく諸関係から、自然および理性の永遠の法則に変えるさいの、利害にとらわれた観念、諸君がすべての没落した支配諸階級とわかちもっているものである。

諸君が古代の所有について理解していることを、諸君が封建的所有について理解していることを、諸君はもはやブルジョア的所有についてあえて理解しようとはしないのである。
(マルクス、エンゲルス著「共産党宣言」新日本出版社 p77-78)

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第三章 最も強いものの権利について

 最も強いものでも、自分の力を権利に、〔他人の〕服従を義務にかえないかぎり、いつまでも人でありうるほど強いものでは決してない。ここから最も強いものの権利などというものが出てくる。みたところ皮肉にとれる権利だが、実際は原理として確立されているのだ。

しかし、この言葉は、いつまでも説明のつかないものだろうか? 暴力は一つの物理的な力である。そのはたらきからどんな道徳的なものが結果しうるか、をえない行為だが、意志による行為ではない。それはせいぜい慎重を期した行為なのだ。いかなる意味でそれが義務でありうるだろうか!

 しばらく、この権利と称するところのものが存在すると仮定しておこう。わたしは、そこから結果するものはただわけのわからぬたわごとにすぎぬ、といいたい。なぜなら、権利を生みだすものは力だということになれば、すぐさま結果は原因とともに変ってしまうからだ。

つまり、最初の力に打ちかった力はすべで、前者の権利を受けつぐのである。服従しなくても罰せられないということになれば、ひとは服従しなくても合法的でありうる。そして、最も強いものがいつでも正しい以上、問題は自分が最も強いものになるようにするだけのことである。

ところで、力がなくなればほろんでしまうような権利とは、いったいどんなものだろう? もし力のために服従せねばならぬのなら、義務のために服従する必要はない。

またもし、ひとがもはや服従を強制されなくなれば、もはや服従の義務はなくなる。そこで、この権利という言葉が力に附加するものは何ひとつない、ということがわかる。この言葉は、ここではまったく何の意味もないのだ。

 権力者には従え。もしそれが、力には屈せよ、という意味なら、その教訓は結構だが、よけいなものだ。その教訓にそむくようなことが決しておこらぬことはわたしが保証する。すべて権力は神から出てくる、それはわたしもみとめる。

しかし、すべての病気もまた神から出てくる。ということは、医者をよんではならないことになるのだろうか? もしわたしが、森の奥で追いはぎにおそわれたら、力のために財布をやらねばならないだけでなく、財布をかくせるときでも、良心的に財布をやる義務があるのだろうか? なぜなら、けっきょく、彼がもっているピストルもまた、ひとつの権力なのだから。

 そこで、力は権利を生みださないこと、また、ひとは正当な権力にしか従う義務がないこと、をみとめよう。だから、いつもわたしの最初の問題にもどることになるのだ。
(ルソー著「社会契約論」岩波文庫 p19-20)

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「悪徳のすすめ」

 歴史や経済の問題を考えるときに、神さまがでてくると科学にはならないということを、くりかえしのべてきたが、国家の問題についても同じことがいえる。国王の権威は神が与えたものといわれると、それ以上に科学的な研究をすすめることはできなくなってしまうからだ。そこでまず、国家を神の権威から解放することが必要だった。

 ヨーロッパでこのことを最初に主張したのは一六世紀のイタリア人マキャヴェリだった。マキャヴェリの代表作『君主論』(一五三二年)をよんでみると、びっくりするようなことがたくさん書いてある。この本は君主の心得を書いたものだが、ひとことでいうと、君主は悪いことをやれ、という忠告だ。

たとえば君主は約束を守る必要はない、という。世間にはウソつきの人間がいっぱいいるのだから、君主の方も適当にウソをついていないとその地位を失ってしまうことになる。いまのいい方でいえば、政治家はどんどん公約違反をやれ、正直に公約などを守っていては大物にはなれないぞ、ということだ。また、君主は人民に愛されようなどと思ってはいけないとも書いてある。

愛情などというものも信用できないもので、いつ裏切られるかわからない。愛されるよりは恐れられている方が安全なのだ。恵みぶかい君主よりも残酷な君主の方が治安をよく守ることができる。外国にたいしては、チャンスがあればどんどん侵略して領土を拡大すべきで、これはけっして非難されるべきことでなく、むしろほめられるべきことだ。

 こういう「悪徳のすすめ」は『君主論』のなかでこのほかにもたくさんのべられているが、いちいちあげていったらキリがない。ようするに、君主は「悪徳の汚名」をあびせられても気にせずに、どんどん悪いことをやれ、とマキァヴェリはいっているのである。

 こういう主張からマキャヴェリズムという言葉がつくられ、権力を獲得し維持するためならどんな手段を使ってもよいという権謀術数主義を意味するようになった。別な言葉でいえば、政治には道徳も倫理もいらないということである。

 しかし、マキャヴェリというのはとんでもないことをいうやつだときめつけてしまうまえに、すこし考えてみなければならないことがある。

それはマキャヴェリのいっていることは、建前論ではなく政治の現実をリアルにえがいているのではないか、ということである。政治というのは、ようするに権力をめぐる闘争なのであって、キレイごとではすまされないのだ。神さまをもちだしてキレイごとですませようとしても、じっさいには駆けひきや裏切りや妥協などで権力闘争はつづいている。

そんな汚い世界はイヤだといってソッポをむいていれば、政治の世界からはじきだされてしまうし、そうなると結果的には、いまある権力をみとめることになる。だからなによりもまず、政治というものをリアルにみつめることが大切なのだ。そのうえであらためて政治のあり方を考えてゆかなければならない。これが『君主論』から私たちが学ぶべき教訓であろう。

 経済学の場合と同じように、現実をリアルにみるということが、「科学する」ための大前提である。『君主論』はまだ科学ではない。それはまだ権力闘争の法則を解明していない。しかしここではじめて政治を「科学する」ための前提がつくられたのである。政治の中心問題が権力であることがあきらかにされたのである。
(浜林正夫著「社会を科学する」学習の友社 p141-143)

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 さきの総選挙で、小泉・自民党は、郵政問題一本に争点をしぼり、自らの失政と悪政を覆い隠すという、国民をあざむく方法で、危機におちいった自民党政治の延命をはかる戦術をとった。それは、財界とマスメディアの全面支援をえて、国民の一定の支持を獲得し、自民・公明両党は、議席では多数をしめることに成功した。

 しかし、それは自民党政治の一時の延命になっても、この政治のもつ異常な特質と国民との矛盾、世界の流れとの矛盾を解決するものではない。うそとごまかしが明らかになれば、政治の大きな激動はさけられない。
(「日本共産党第24回党大会決議」 赤旗2006.1.12)

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◎「諸君の権利は、ただ、法律にまで高められた諸君の階級の意志、すなわち、諸君の階級の物質的生活諸条件のうちにその内容が与えられている意志ににすぎない」と。