学習通信060210
◎いわばどん詰まりまで……

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九 人類史における資本主義の位置

(1)社会的生産の最後の敵対的形態としての資本主義

 資本主義は、歴史的には封建制の解体過程から生まれた。「資本主義社会の経済的構造は封建社会の経済的構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を解き放したのである」。だが、資本主義の意義は、たんに、アジア的・古代的・封建的・近代ブルジョア的(=資本主義的)と並ぶさまざまの生産様式のうちの一つというだけではない。

 第一に、資本主義は、不払剰余労働の搾取に立脚する制度の一つであり、階級関係からなる制度の一つとして、奴隷制・農奴制と一括される。この視角から見るかぎり、人類の歴史は、「原始共同体──三つの階級社会──社会主義社会」、という三段階に大きく区分される。資本主義は三つの階級社会のなかの最後の形態にほかならない。これが基本である。

 だが、資本主義の位置はそれだけにつきない。資本の本源的蓄積過程の分析をつうじてわれわれは、資本主義が、過去一切の社会諸形態──原始共同体とその遺制も、奴隷制・農奴制の人身隷属的形態も、労働する小生産者の私的所有もひっくるめて──の対立物であり、両者の間に明確な境界が引かれることを見た。この場合の基準は、生産手段と直接的生産者との関係であった。この視角から見るかぎり、歴史は、「生産手段と直接的生産者との直接的結合=癒着──両者の完全分離──再び両者の統一」として、すなわち、「前近代社会──資本主義──社会主義」として、えがくことができる。

 このことに含まれる内容を明確にすることによって、われわれは、「ブルジョア的生産諸関係が社会的生産過程の最後の敵対的形態である」ことの意味を深く理解することができるであろう。

(2)人身的隷属・原生的共同体からの解放

 資本主義的生産様式の特性は、生産手段と労働力とが完全に分離したところにある。「資本」とは何か? 資本とは非生産者による生産手段私有の一種である。だがそれは、形態としては、自己増殖する価値・貨幣にすぎず(それはたんなる数字の増加としてあらわれる!)、直接的生産者との一切の癒着関係をたちきった「純粋の私的所有」そのものである。

 ではこの資本と交換され合体される「労働」とは何か?──それは一切の人身的隷属や束縛から解放され、職種から職種への移動の自由をもち、そのかわり一切の生産手段の所有から解き放され、そのうえ一切の原生的共同体とのつながりをも断ち切った、あらゆる意味で自由な、生身の、裸の労働、純粋の労働そのものである。

 資本主義がこのような、純粋の私的所有と純粋の労働との結合──であるということは、まず第一に、それが一切の人身的隷属や原生的共同体関係から離別したことを意味する。

 過去の社会における非生産者の私的所有は、古代貴族の場合も、封建領主の場合も、基本的には、土地所有であった。それは二つの特色をもつ。第一に、それは、起源からみて共同体所有の転化物である、だからそれが、「横領」され、共同体成員の手から奪い去られ、非生産者の階級の私的所有となったのちも、なおかつ、共同体の外観をまとってあらわれる。第二に、貴族や領主は、神授的身分であり、「政治的または神政的支配者」の権威をもって人民に君臨した。すなわち、過去の搾取は人身的支配・隷属関係のもとに実現されたのである。

 これにたいして資本主義は、第一に、そうした古い人身的支配・隷属関係を打ちやぶる。

 「人身的な隷属・支配関係を基礎とする土地所有の権力と貨幣の非人身的な権力との対立は、次のような、フランスの二つのことわざにはっきり言い表わされている。『領主のいない土地はない。』『貨幣に主人はない』」。

 第二に、資本主義は、原生的人間関係を投げすてる。それは、人と人との関係から共同体的ヴェールをはぎとって、人間関係を「ろこつな利害」、「ただの金銭関係に還元」する。それは「宗教的・政治的形態でおおわれた搾取」のかわりに「むきだしの搾取」をおくのである。

 このようにして、生産の客体的要因=生産手段が、資本=一定額の貨幣(純粋の私的所有そのもの)にまで純化され、生産の主体的要因=労働力が、自由な労働(純粋の、生身の労働そのもの)にまで純化されるにいたった過程は、同時に、一切の人身的支配・隷属関係が破砕され、また個人としての独立をさまたげる原生的人間関係が根こそぎにされる歴史でもあった。ここに資本主義の歴史的進歩的意義がある。

(3)資本主義の矛盾の爆発─略─

(4)私的所有の完成態。生産の敵対性解決のための物質的条件

 生産手段と労働力との徹底的分離に立脚する資本主義的生産様式の成立は、原始共同体の解体を起点とする私的所有の歴史が今や終着点へ、完成態へ到達したことを意味する。

 一、人類史の始原には、労働者と生産手段との本源的統一、すなわち共同体成員全体による生産手段の共有があった。この統一は、生産諸力の発展にともなって次第にくずれ、二筋の方向でさまざまの私有形態をうみだした。

 二、まず一方の系列では、非生産者が共同体の手から生産手段(土地)をもぎとって横領・独占し、直接的生産者を土地の付属物としてこれに合体する、人身隷属的諸形態が発展した(奴隷制・農奴制)。ここでは、非生産者が生産手段を所有し、直接的生産者の方は、生産手段の所有から(全部的に、あるいは基本的部分において)もぎ離され、収奪されている。しかし、生産者は生産手段から分離されたわけでなく、かえって生産手段に緊縛(きんばく)されているのである。

 三、もう一方の系列として、直接的生産者が自己労働にもとづいて生産手段を私有する自由小土地私有(独立自営農民など)もまた誕生した。ここでは、たしかに生産手段と労働力とは分離されず、かたく統一されている。だが、それはあくまで生産者個々における統一にすぎず、社会全体から見れば統一でなくて、個々の小単位への分裂であり、分散である。したがって、この統一は社会的所有の反対物として、私的所有の一形態である。

 ところで、資本主義は、生産手段と労働力とを徹底的に相互剥離(はくり)することによって、これらの私有の諸形態を全部解体し、自らの所有形態でもっておきかえた。資本主義的所有もまた、非生産者による私的所有である。

だが、それは、生産手段と労働力との完全な分離に立脚するものとして、過去のどの所有とも異なった特質をもっている。社会の全生産手段は、資本という純粋な私的所有そのものの形態をとり、この形態のもとに社会的に集中され、一個の普遍的世界を形作っている。

他方、直接的生産者の側は、生産手段への緊縛から解放されるとともに生産手段の所有からも離され、要するに生産手段との一切の結合関係から洗い清められた、純粋な労働そのものに昇華されている。これはもう私的所有が、いわばどん詰まりまで達した状態、私的所有の極致たといわねばならない。この状態が、生産諸力の空前の発展を前提としていることはいうまでもない。

 さて、この状態を内側から反転するならば、すなわち、無所有の生産者たちが、その対極にある社会的生産手段をつかみとるならば、そこには、生産手段と労働力との統一の、全く新たな姿態が現出するであろう。すなわち社会全成員による社会的生産手段の所有、すなわち生産手段の社会的所有がそれである。

 労働者がその無所有の苦しみからのがれるために、生産手段の所有に眼を向けたとしても、もはや、部分的、個別的な形態で、すなわち生産手段の私的小所有として、所有を回復することは階級全体としては不可能である。生産手段は資本の形態の下で、ますます全社会をおおう巨大な姿に成長しているからである。したがって労働者による所有の回復は、一挙に生産手段の全社会的所有として実現されるほかはない。

 そしてこの転換を遂行する主体としての労働者階級は、社会全体の利益以外に自己のせまい階級的利益をもたず、人間一般の解放によってのみ自己を解放しうる、そのような階級である。かれらは、全く無所有の抽象的個人に還元されているがゆえに、私的所有者=私人としてではなくて純粋に個人として結ばれ合うことができる。プロレタリアートの階級的団結とはこのようなものである。

 難解ではあるが、含蓄に富んだ『ドイツ・イデオロギー』の一節を引用しよう。

 「かくて一方の側に生産力の或る全体が存在し、このものはいわば一つの物的な姿をとってきていて、諸個人自身にとってはもはや彼らの力であるのではなくて、私的所有の力〔なのであり〕、それゆえに私的所有者であるかぎりでのみの諸個人の力なのである。どのような以前の時期においても生産力が諸個人としての諸個人の交通にとってこのような無縁な姿をとっていたためしはない。なぜなら彼らの交通そのものがまだ限られたものだったからである。いま一方の側にはこの生産力に対立して大多数の個人がいる。これらの人々は生産力をその手からもぎはなされており、したがってあらゆる現実的生活内容を奪われて抽象的な個人となっているのであるが、しかしまさにそのためにこそ、彼らは個人として結ばれ合うことができる立場におかれるのである」。

 「したがって、いまや諸個人が、存在する生産力の全体をわが物として取得しなければならないところまできた。それは諸個人がたんに彼らの自己表出に到達するためのみならず、総じて彼らの生存を護るためだけにでも必要なことなのである。この取得は占有されるべき対象によってまず条件づけられている。ところでこの場合、取得されるべき対象というのは、一つのまとまった全体にまで伸びてきた生産力、そして一つの普遍的交通の枠内でのみ現存する生産力である。それゆえにこの取得はすでにこの面からしても、生産力と交通とに適合した普遍的性格をもたざるをえない。こうした力の取得はそれ自体、物質的生産用具に適合した個々の諸能力の展開にほかならない」。

 以上のようにして、社会主義実現のための条件は、客観的にも主観的にも、すっかり煮つまっているといわなければならない。この意味で、「ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成体でもって人間社会の前史は終わる」のである。
(林直道著「史的唯物論と経済学 上 『資本論』と史的唯物論」大月書店 p165-174)

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『デモクラーティッシェス・ヴォッヘンブラット』に掲載された『資本論』第1巻書評

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 以上が、厳密に科学的に論証された──そこで官許経済学者たちはおそらく論駁を試みることさえもしないように用心している──近代資本主義的社会システムのいくつかの主要法則である。だが、これですべてが言いつくされたか? 決してそうではない。

マルクスは資本主義的生産の悪い面をするどく強調するが、彼は、社会のすべての成員にたいして一様な人間にふさわしい発展を可能にする高い程度にまで社会の生産諸力を発展させるためには、この社会形態がぜひとも必要であったことを、同じようにはっきり論証する。

そのためには、以前のすべての社会形態はあまりにも貧しかった。

はじめて資本主義的生産がそれに必要である富と生産諸力をつくり出すが、それはまた同時に、大量の抑圧された労働者として、社会全体のために──こんにちのように、独占的階級のためにではなく──この富と生産諸力の利用を要求することをますます余儀なくされる社会階級をつくり出すのである。
(エンゲルス著「『資本論』書評」新日本出版社 p176-177)

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 もう一つは、資本主義社会では、生産力の不断の増大が経済の法則となりますが、その生産力の管理・運営は自らの利潤を追求する個々の資本の自分勝手な行動にゆだねられているために、恐慌・不況に周期的に襲われるという、体制の根本にかかわる致命的な病気からまぬかれえないことです。

 これらの矛盾は、一九世紀から二〇世紀へ、二〇世紀から二一世紀へと、世紀を新たにするごとに、いよいよ鋭い形態をとるようになってきました。そして、二一世紀を迎えて、いよいよ、資本主義制度の存続の是非が大規模に問われるような段階に入ってきたと、私たちは考えています。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p354-355)

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◎「資本主義的生産……、彼は、社会のすべての成員にたいして一様な人間にふさわしい発展を可能にする高い程度にまで社会の生産諸力を発展させるためには、この社会形態がぜひとも必要であった」と。