学習通信060203
◎その人の根っこにある想い……

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──ここで一言のべておきたいのは、「ものの見方・考え方」ということについてです。

「天災」という落語があります。道を歩いていると水をぶっかけられる。おこっていると、それは他人から水をかけられたと思うからだ。天から雨がふってきたと思えばあきらめもつく、とさとされる。なるほどそうか、と思うという話ですが、これも、ものの見方・考え方の一つのあり方を示しています。

なるほど、そう思えば腹も立たず、周囲は無事におさまり、波風は立ちません。しかし、そう思ったからといって事態が変わるわけではありません。解釈がかわるだけです。物事は無事におさまりますが、だからといって、そのようなことがなくなるわけでもありません。

道で水をかけられる程度のことはこれでもおさまり、その人はおこりっぼくなくなるという効果もあるかもしれません。しかし、その程度のことではなく、もっと大きな被害が出た場合、「天災」といって済ませるわけにはいきません。悪いことをした者に対しては、正当ないかりを感じ、この事態を正そうというのが当然のことでしょう。

そうすると、「ものの見方・考え方」というのは、ただ、ものをどう見るか、にとどまるのではなく、事実を正しくつかむ、ということとつながらざるをえません。

これから私がのべていくことは、ものをどう見るか、ということにとどまるのではなく、どうすれば正しい事物の認識ができるのか、どうすればあやまりを正すことができるのか、ということにもつながります。「ものの見方・考え方」をそのように考えていただきたいと思います。
(関幸夫著「個性的に自由に生きるとは」新日本出版社 p8-9)

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どんな問いに基づいて話してますか?

 かみ合わない会話って、いったい何がいけないのでしょう?

部長 この商品企画じゃ戦力にならん。うちはいま火の車なんだ。
社員A いえ、これだけ質のよい商品はよそには作れません。品質は業界一です。

 二人とも商品の話をしていますが、課長は「この商品は金になるか?」、社員Aは、「商品の質はどうか?」という「問い」に基づいて話しています。問いを共有していないと、話はかみ合いません。文章や、話を貝いている「問い」、「問題意識」
のことを「論点」と言います。5つ目の要件です。

伝わる要件D 論点

 論点と意見は、ちょうど問いと答えの関係です。私たちは、間いを意識しないまま話したり書いたりしますが、それは自分で意識していないだけで、意見のあるところ、必ずそれを導き出した問いがあります。ちょっとやってみましょう。

意見 俺という人間はダメだ。←論点 俺という人間はいいかダメか?
意見 彼女を止められるのは君だけだ。←論点 だれが彼女を止められるか?

「いいかダメか?」の問いには、いいかダメかの答えしかありません。「だれが?=WHO」の間いに、出てくる答えは「人」です。そう、私たちは、自分の問いに見合った意見しか出せないのです。問いが「俺はいかにダメか?」というようなマイナス方向だと、いくら考えても後ろ向きの意見しか出てきません。「俺に何ができるか?」と問いを修正すると、建設的な意見が出てきます。

話したり書いたりしていて、どうもよくない方向に進む、ずれていく、というとき、「いま、どんな問いに基づいて考えているか?」とチエックし、問いを修正するとよいでしょう。

 先ほどの社員Aさんは、「商品の質がどう売上げにつながるか?」という問いに改めると、部長さんと話がかみ合ってきます。

 良い意見を出す人、会議で流れを変えるような発言のできる人は、必ず良い問いを持っています。深まる会話は、論点=互いの問題意識がぴったり合っています。ここで、意見・論拠・論点の関係を図にしておきましょう。上の図を見てください。

 私たちは、意識しなくても問い(=論点)を持っており、その問いに対して自分が出した答え(=意見)があります。伝えるときは、意見の根拠(=論拠)を筋道立てて相手に説明すればいい。論点→論拠→意見。この構造で話したり書いたりすると、あらかじめ相手と問いを共有できるので、とても伝わりやすいです。

相手から見たら、あなたの言っていることは何?

 伝えるためには、自分の言おうとしていることを、いったんつきはなして見ることが必要です。自分の都合や「つもり」とはまったく関係ない、相手から見たら、あなたが言っていることは何なのでしょうか?

 たとえば、あなたが恋人と映画に行った話を友人にするとします。あなたは「別に意味なんてない、ただ聞いて欲しかっただけ」と言うかもしれません。しかし、受け取る側によっては、いろんな意味が出てきます。

 相手が映画好きで、あなたと感性の合う人なら、「役立つ映画の知らせ」という意味が出てきます。相手が落ち込んでいて、あなたの話が笑えるものだったら、「気分を明るくしてくれる話」という意味が出てきます。もしも、相手がふられたばかり、人の幸せも喜べない状態だったら、あなたの話は、「気分を落ち込ませる話」になってしまいます。

伝わる要件E 相手にとっての意味

 伝えるためには、「相手」を知る必要があります。「相手」は、どんな人でしょう? いま、何に興味があり、どんな問題をかかえていますか? ゆとりはある? ない? いま元気ですか? 落ち込んでいますか? プライドは高いのか?

 自分が言いたいことは、相手側から見たらどんな意味がありますか? 相手にとって、役立つ知らせなのか、励ましなのか、相手を和ませるのか、啓蒙か? もしも、相手をいやな気分にさせるだけだと気づいたら、あなたはそれでも言いたいですか?

あなたの根っこにある想いは?

 では、こんなケースはどう考えたらいいのでしょう? 温かい人から発せられた言葉は、「バカ」と書いてあっても温かいのです。逆に、私を軽蔑した人だと、何を言われてもどう言われても冷たいのです。

 私は常日頃、表現というものは、「何を言うか」より「どんな気持ちで言うか」が大事だと思っています。その人の根っこにある想い・価値観、これを「根本思想」と言います。

伝わる要件F 根本思想

 言葉は、ちょうど氷山の見えるところのようなもので、根っこには何倍もの大きな思想や価値観、生き方が横たわっています。

 何年か前、私は、友だちとの会話がゆきづまったとき、自分の根本思想をチエツクしてみました。いやな自分を見てしまいました。それは、「私のほうがすごいのよ」と相手に見せつけたい、という「自慢」でした。

 話題は、昨日観た映画から、友だちと行ったレストラン、最近の仕事、と移っていくのですが、何を言っても、どう言っても、自慢たらしいのです。これでは、相手への信号は同じ、会話がはずまないのも当たり前だなと。

 それから、折にふれて、私をいま、この会話に向かわせている「根本思想」、私をいま、この文章に向かわせている「根本思想」をチェックするようになりました。「根本思想」は、言葉の製造元。あなたが言葉を発しているとき、根っこにある想いは何ですか? エゴなのか、尊敬か、怨みなのか、感謝なのか。もしも、これから言おうとすることに、自分の想いや生き方がついていかないなら、言うことを変えるか、いっそ言わない手もあります。

 生まれたときからたくさんの情報に囲まれ、目の肥えた私たちは、短いやりとりでも人の嘘を見抜いてしまいます。根本思想は、わずかな表現にも立ち現れてしまう。嘘は人を動かさない。伝えることはこの点で甘くありません。

 逆に言うと、根本思想はそれだけ強いからこそ、根本思想と言葉が一致したとき、非常に強く人の心を打つ、ということです。

 小学生の「お母さんありがとう」という作文にみんなが涙してしまうのは、文章がうまいからではなく、心からの想いを言葉にしているからでしょう。

 自分に嘘のない言葉であるということ。
 コミュニケーションにおいても正直は最大の戦略です。

 では、これまでお話しした7つの要件をまとめておきましょう。

@メディア力、 相手から見た自分の信頼性はどうか?・
A意見、 自分がいちばん言いたいことは何か?
B論拠、 意見の根拠は何か?
C目指す結果、 だれがどうなることを目指すのか?
D論点、 いま、どんな問いに基づいて話しているのか?
E相手にとっての意味、 つきはなして相手から見たら、この話は何か?
F根本思想、 自分の根っこにある想いは何か?

 うまく伝わらないとき、どれか一つでもいいから思い出して、自分に問いかけてみてください。今回お話ししたことが難しいと感じた方も大丈夫、「意見と論拠」でコミュニケーションはできます。意見と論拠からはじめてみましょう!
(「NHK 日本語なるほど塾 05年4/5月」日本放送出版協会 p17-23)

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幹部・活動家の役割

 幹部や活動家は「組織の顔」だといわれます。ふつう労働者は、幹部や活動家をつうじて、その労働組合を判断するという意味でしょう。

 幹部・活動家に第一にもとめられることは、組合民主主義の権化になれということです。いままで学んだように、組合民主主義こそ労働組合の基本的な性格に根ざした運営と活動のすべてをつらぬく大原則だからです。

 幾百万、幾千万の労働者と国民の力にたよることなしには、その団結と階級的自覚がすすむことなしには、要求をかちとり、目的を達することはできないということを、肝に銘じてかた時もわすれないことです。幹部・活動家は、このことによって、団結のカナメとなることができるのです。 どんな経験をつんだ、有能な幹部でも、このことをわすれたら、たちまち官僚主義におちいり、労働組合の真の発展を妨げる結果になります。

 第二に、仲間たちから信頼されるということです。口でいうのはやさしいことですが、実際はとてもむずかしいことです。

 仲間たちから信頼されるということは、幹部・活動家がどれだけ仲間を信頼するかということの反映です。問題は幹部・活動家の思想と姿勢にあるのです。

 どんな状態の場合でも、われわれは、われわれがよびかける労働者を、その労働者の実際の、あるがままの姿の労働者としてみるようにし、われわれが、その労働者にこうあってほしいと希望するような労働者として、みないようにしなければならない。われわれは、労働者たちが理解することば、労働者に考えさせることばを使わなければならない。

 われわれは、労働者たちが、自分たちを迷わせようとする連中のウソやゴマカシを労働者たち自身の経験によって明らかにするのを援助しなければならない(一九五一年、フランス労働総同盟書記長ブノア・フラション)。

 この国際的な教訓をのべた短い文章は、幹部・活動家が仲間たちに接する基本的な姿勢を、じつに簡潔にのべています。その深い内容をつねに噛みしめて、くりかえし反省したいものです。

 そのためにこそ幹部・活動家は、なによりもひろく、深く仲間たちとむすびつき、そのなかにとけこんで、そのしごととくらしの実情、感情、気分、不安や悩みのホンネをつかんで、そこから出発することがたいせつです。

 このように、仲間とひろく、深く、ともに生活し、語りあい、たたかうなかで、仲間たちは、もし私たちが正しい姿勢で仲間にエ作するなら、必ず労働者として自覚し、成長する──このことを自分の体験からも、労働運動の歴史からもたしかめるとき、私たちは本当に仲間を信頼し、また、仲間からも信頼されるのではないでしょうか。そして、ますます未来への展望と確信をもつことができるのだとおもいます。

 第三に、幹部・活動家は必要な指導性を発揮できるようになるために、人一倍、学習しなければなりません。

 仲間たちの経験は、なんといっても自分の職場や企業あるいは地域のせまい範囲にとどまりがちですし、敵の巧妙な思想攻撃の影響も無視することはできません。しかも、いまの国家独占資本主義のもとでは、情勢のうごきもきわめて複雑であり、また急激にかわりますから、柔軟な対応も必要です。

 ですから幹部・活動家は、大局的な立場から重要なうごきや情報をあつめ、これを仲間たちに教育・宣伝しなければなりません。

 また、要求をねりあげるうえで、その正当性をうらづけたり、これを実現するための政策と具体的なみちすじについて提案しなければなりません。

 そのような能力をやしなうためには、ゆたかな経験とともに、学習をおこたっては、幹部・活動家としての任務をはたすことができません。

 第一に、とりわけ、「労働者たちが、自分たちを迷わせようとする連中のウソやゴマカシを労働者たち自身の経験によって明らかにするのを援助する」ために、わかりやすく宣伝し、説得する能力を身につける努力を不断につみかさねることがたいせつです。

 第二に、要求解決の政策とその実現のみちすじについて展望を示す学習は、こんにち、いよいよ重要となっています。

 第三に、労働組合運動の歴史や社会科学の学習によって、自分自身の確信と展望をうらづける理論をふかめることです。

 こうして、どんな困難や試練にも屈しない真の指導性と勇気がうまれるでしょう。

 幹部や活動家に必要な資質をあげるなら、まだ、このほかにも、多くのことがあるでしょう。

 ここで二つのことを、さいごに強調しておきたいとおもいます。
 第一は、生まれつきの幹部・活動家などというものは、一人もいないということです。

 いのちとくらしをまもるためのやむにやまれないたたかいのなかで、必要にせまられ、お互いに苦しみ、努力するなかで、鍛えられ、おしえられて、そのなかから幹部・活動家がうまれ、育ってきたのです。

 そして、こんにちの情勢は、幹部・活動家が自然にうまれるのにまかせていては間にあいません。いまの情勢を労働者が自らの力できりひらくためには、また真に大衆的・統一的な労働組合運動をきずきあげ、のちに学ぶような当面する重要な課題をやりとげるためには、幹部・活動家を各級の段階で、大量に、急いで、目的意識的につくりあげなければならないということです。

 第二は、「なぜ幹部・活動家だけが、こんなに犠牲をはらって苦労しなければならないのか」という思いに悩むことは、きっと誰もがなんどか経験することではないかとおもいます。

 全日自労には、ゆたかな生活と活動の体験をもち、仲間のためにじぶんを犠牲にして、たたかいつづけている幹部や活動家がたくさんいます。この仲間たちこそ、きょうまでの全日自労の困難なたたかいをささえ、いわば根性と伝統をつくりあげてきた、かけがえのない宝です。

 いったい、この仲間たちをささえてきたものはなんでしょうか。

 それは、そこに人間の尊厳と自由、真の解放のみちをみいだし、そこに労働者階級の一人として生きる誇りとよろこび、労働者階級にたいする無限の信頼と深い愛情をいだいているからではないでしょうか。

 私たちは、大衆運動のなかで、多くの仲間たちとともにたたかい、ともに交わるなかで、お互いに学びあい、教えあって、人間としてきたえられ、ゆたかな個性を育てみがきあげられるのです。

 そのことがまた、新しい社会をささえる新しい人間を創りだすことでもあるとおもいます。

 私たちのしごとは、新しい社会の建設をめざして、つねに新しい課題を解決していかなければなりません。ですから、もうこれで一人まえの幹部・活動家になったなんておもったら、それで進歩はとまります。幹部・活動家は、つねに謙虚に、自らにきびしくなければなりません。そこに無限の成長と、なにものにもかえがたいよろこびがあるのです。
(「全日自労・建設一般 組合員教科書」学習の友社 p85-88)

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◎「根本思想はそれだけ強いからこそ、根本思想と言葉が一致したとき、非常に強く人の心を打つ」と。