学習通信05122223 合併号
◎「頭がいい」……

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頭のいい人って、自分の好きな人のことかも?

糸井……「頭がよくなりたい」「頭がよくったって、しようがない」……頭がいいという言葉ひとつにしても、いろいろな使われ方があります。

池谷……ええ。たとえば、「学校のテストをやらせると、ものすごくいい点数を取るけれども、決して頭がいいとは思えないような人がいる」と、ぼくは感じています。

糸井……はい。ぼくもそうです。

池谷……それから、一方では、「物理の法則なんて知らなくても運動神経がすばらしい」ということについては、頭がいいことのひとつじゃないかと思うんです。
 難しい放物曲線の計算ができなくたって、いつもボールを特定の場所に投げられることを、ぼくは頭がいい≠ニいうように感じます。

糸井……その気持ちはとてもわかりますし、ぼくもそう思います。一般的には「頭がいい」ということと「もの知り」とを重ねて言う人も多いでしょう。「……あぁ、あの人は頭がいいから、それはあの人に聞いてみなよ」とか。それじゃあ、百科事典がわりじやないか! というようなね。
 ぼくにとっての「頭がいい」って何だろうと考えると、そういうことではありません。自分が「これは好きだ」と思ったことを十分に汲み取ってくれる人がいますよね? たぶんそれが、ぼくにとっての「頭がいい」という人なのかなぁと思います。
 映画や本を鑑賞していて「よくわかる、おもしろい!」「この監督は頭がいい。すごい」と感じる時があるけど、その時にはきっと「伝える側と受け取る側がうまく交流できた」という状態になっているような気がする。
 つくり手が「通じなくてもいいや」と考えながら発表している芸術作品というのを、ぼくはとても苦手なんだけど。そういうものの何が嫌かと言うと、きっと「情報の送り手と受け手のコミュニケーションがあまりないから」なんですよ。受け手と交流しながら、送り手が新しい間題を投げかける。そしてその問題の答えを受け手が待つ……そんなふうに時間を共有できるもののほうが、おもしろいですよね。映画にしてもテレビ番組にしても本にしても、ほんとうに、人と人とのつきあいに似たおもしろさを感じることができますから。

 今ふと思ったんだけど、ぼくは人と話をしている中で「こいつ、大っ嫌い」と思うことと「頭が悪いヤツだなぁ」と思うこととを、かなりイコールで結んでいるみたいなんですね。……思えば、もうほとんどイコールですよ。
 「あいつ、頭がいいけど嫌いだわ」って言っている場合は、ほんとは「あんなやつ、バカだ」と思っていますね。

池谷……それはおもしろいです。「頭の良し悪し」の基準を「好き嫌い」だと考えるとすっきりしますし、当たっている気がします。
 根拠もあるんです。脳の中で「好き嫌い」を扱うのは扁桃体というところでして、「この情報が要るのか要らないのか」の判断は海馬というところでなされています。
 海馬と扁桃体は隣り合っていてかなりの情報交換をしている。つまり、「好きなことならよく憶えている」「興味のあることをうまくやってのける」というのは、筋が通っているんですよ。感情的に好きなものを、必要な情報だとみなすわけですから。

糸井……なるほど。だとすると、思い切って「ものや人とコミュニケーションがきちんと取れている状態」を、「脳のはたらきがいい状態」と言ってしまってもいいのでしょうか?

池谷……いいと思います。脳のはたらきは、「ものとものとを結びつけて新しい情報をつくっていく」というのが基本ですから。
 生活していると、すでに出会ったものにもう一度触れることも多いけれども、それでも、新しい状況に出会ったりすることが、多かれ少なかれ何かしら毎日あるわけですよね?
 そうした中で出会った新しい情報がどういうものなのかを分類しておける、そして何かを解決したい場面になったら、一見まったく関係のない情報どうしをとっさに結びつけられる。そういったことができるというのは、脳がきちんとはたらいている状態なのだと思います。

糸井……それはすごく納得できます。
 つまり、相手の気持ちをわかってあげられる人も、センスのいい趣味を持っている人も頭がいい。運動が得意なプロ選手も、独創的なアイデアを出す人も頭がいい。みんな、脳のはたらきがいいという素敵さは変わらない、という気がするんです。

池谷……まさにそうです。

糸井……何かと何かをタイミングよく結びつけられることが「脳のはたらきがとてもいい」ということなら、ぼくはぜひ、自分の脳のはたらきをよくしたいと思う。

 今までは、ガリ勉みたいなイメージのことを「頭がいい」と言っていたから、「『頭がいい』って、かっこ悪い」とかいう考え方も出てくるわけでして。ぼくも正直に言えば、頭がいいって言われてよろこんでいる人とは、あんまりオトモダチになりたくない。だけど、「頭をよくするのは、よく生きることにつながっていてほしいし、よく生きることにつながるなら、頭をよくする方法を知りたい」と、本気で思えますね。
 コミュニケーションの能力を高めるにはどうすればいいか、という観点から池谷さんの話をお聞きしたいです。

池谷……なるほど。糸井さんの脳に対する興味の方向がだんだんわかってきました。なかなか形而上学的な内容が含まれていますね。脳の仕組みについては、ぼくはお役に立てるかぎりお話しますけれど、発想するとか企画を思いつくとか、実際に頭をどう使うかという実践そのものに関しては、その道の先輩である糸井さんに、ぜひ伺えるとうれしいです。
(池谷祐二、糸井重里「海馬」朝日出版 p22-27)

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『頭のいい子』に育てるために

 近ごろの子どもは、たいへんものわかり≠ェいいということをしばしば耳にします。おとなのいうことには、「わかったよ」、「知ってるよ」ということをすぐに答えます。

 ところが、実際にはそのことを実行させてみますと、ことがらを少しも理解していないという結果が現われています。

 子ども自身がにしっかりした理解力、まわりのものごとについての注意力、記憶力を持つということは、どんな両親でも願っていることでしょう。しかし、いまの差別、対立、選別の教育のなかでは、ともすると上記のように、うわべだけのものごとの理解に終わる子どもがつくられつつあります。

 そこで、乳幼児の発達のなかで子どもたちが正しい理解力をもつ──ほんとうに頭のいい子に育つための──いくつかのおとなの配慮について考えてみることにしましょう。

▽乳児期はじゅうぶんに活動させる。

 いろいろと家庭の事情があると思いますが、二、三歳児で家の中でじっとしている子どもはあまり頭がいい子になりません。二、三歳では、むしろ、おとなが追いかけてもなかなかつかまらないほど活動する子どもの方が後に頭のいい子≠ノなるといえましょう。つまり、友だちと遊んだり、ケンカできる子どもの方が成長力があるといえましょう(この意味で早くからの集団保育が大切なのです)。

▽幼児期は自分たちで考えさせる。

 最初にものべましたが、おとなのいうことにたいしてすぐに「わかったよ」、「知ってるよ」といっていながら、なにもできない子ども、その原因は、いつもおとなが子どもにたいして、「なんど注意しても、少しもいうことをきかない」式の伝え方をしていることが多いということです。つまり、子どもないし子どもたちに、自分自身で考えさせる機会を与えず、一方的におとなの意見を押しつけているばあいが多いようです。これでは、子ども自身の理解力も育ちませんし、ほんとうに目の前のことがらを自分自身で考える、自分たちで考えるという力も生まれてきません。

 子ども自身、どんなに小さくとも自分なりの理解力をつかって精いっばい生きているわけです。この力をおとなが信頼して伸ばしてやれば、子どもはそれこそ、自分からいろいろ工夫し、自分の考える力を伸ばしていくと思います。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p112-113)

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◎「相手の気持ちをわかってあげられる人……センスのいい趣味を持っている人も頭がいい」と。