学習通信05121718 合併号
◎生き、学ぶ態度……

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「生き方」と「社会のあり方」とを重ねて考える

 以上、『君たちはどう生きるか』のなかのおじさんとコペル君との対話を追いかけてみた。

 コペル君は、自分の日常生活の体験と発見を話す。おじさんは、それにそくしながら、それの持つ意味をより深く語る。それをうけとめながら、コペル君は、さらに新しい体験と発見を重ねてゆく。

 こうしたおじさんとの対話を通して、コペル君は、人が生き、考えていくうえでの基本的な態度を学んでいった。

 あくまでも、自分の実生活のなかで本当に感じていることから出発して、それを対象化してものを考えていくことの大事さ。

と同時に、自分の生活実感のなかに止まっているのではなくて、自分が感じたことが、人類の歴史のなかでいままでどういうふうに考えられてきた間題であり、その考え方はどこまで到達してきているのかを知って、自分の実感に基づいた考えを、人類の到達点に根づかせる態度が必要であること、そのためにやはり、学問をすることが必要だということ。

生き、学ぶ態度としてコペル君はこういうことをつかんだわけである。

 また、コペル君は、ふとしたきっかけから、人間は分子のようなもので、大きな諸関係の網の目のなかに組みこまれていることを発見し、それが「生産関係」というものであることを教わる。そして、友だちのなかに自分より貧しいものがいるという事実に気づくなかで、ただ人間同士は関係があり結ばれているというだけではなく、その関係が、必ずしも、すべての人間が人間的に生きていけるような関係になっておらず、様ざまな不合理があることを知る。

 そして、この関係を、そのもとですべての人間が人間らしく生きていける関係に近づけていくことが、人類の進歩であることを知らされていく。

 さらに、人間というものは、もののように関係に一面的に組み込まれていてその動きに流されているだけでなく、そこに不合理を感じ、人間らしくないものを感じれば、自分の生き方を考え、その関係を変えていく自由を持っている。この点にこそ、人間の自由があるということをつかむ。そして、自分は、いまそうした人間になるための準備をしているものと考えるようになる。

 この本を若い時代に読んだ政治学者の丸山真男は、「君たちはどう生きるか≠ニいうこの本は、子供たちに対して、人間はどう生きるべきかという、人間の生き方を問うた人生読本であって、それはたしかに、人間の倫理を問題にした本である。けれども同時に、それは、狭い、人生いかに生くべきか、という人生論の本ではなくて、社会科学的認識とは何かとか、社会認識とは何か、という問題と切り離せない形で人間のモラルを問題にしている。そこに特徴がある」という趣旨のことを語っている(岩波文庫版より、「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」)。

この本は、丸山が言っているように、人間らしく生きる≠ニいうことと、社会について考える≠ニいうこととを結びつけていく、そういう大きな課題を、中学二年生の子どもに、対話を通して正面から投げかけた本だといえる。

 今日、新たな状況のなかで、『君たちはどう生きるか』に描かれているような、自分の生活実感に根ざして問題を発見し、自分の問題と社会の問題とを結びつけながら生き方を考えていくことを促す対話を子どもたちと交すことが、時代の重要な課題になっているように思える。今日の子どもたちは、こうした対話をおとなと交わすことを、切実に求めているのではないか。そして、その対話の要求が満たされずに、苛立っているといえるのではないか。
(田中孝彦著「子育ての思想」新日本新書 p100-102)

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 数学の諸公理は、きわめて乏しい思想内容の表現であって、数学はこれを論理学から借りてこなければならないのである。諸公理は、つぎのニつに還元することができる──

(1)〈全体は部分よりも大きい〉。この命題は、まったくの同語反復である。と言うのも、量的にとらえた部分という観念が、最初から、一定の仕方で全体という観念に関係していて、つまり、「部分」とは、とりもなおさず、量的な「全体」がいくつかの量的な「部分」でできている、ということを言いあらわしたものだからである。このいわゆる公理がこのことを明示的に確認したところで、われわれはそれによって一歩も前進してはいない。この同語反復は、或る程度まで証明することさえできる。それにはこう言えばよいのである、──全体はいくつかの部分でできている、部分はいくつか集まって全体になっている、ゆえに、部分は全体より小さい、と。──こうすると、反復の空しさによって内容の空しさがいっそうはっきり浮かびあがってくる。

(2)〈二つの量が第三の量に等しければ、この二つの量は互いに等しい〉。この命題は、すでにヘーゲルが〔『エンチュクロペディー』第一八八節、『論理学』第三巻、第一篇第三章(d)、第三篇第二章(3)で〕指摘したように、その正しさを論理学が保証している推論である。だから、純粋数学の外でではあるが証明されているわけである。相等性と不等性とについての残りの諸公理は、この推論を論理的に拡張したものにすぎない。

 こういう貧弱な諸命題は、数学でであろうがほかのどこであろうが、なんの役にも立ちはしない。

もっと先へ進むためには、実在的な諸関係を、すなわち、現実の物体から取ってきたもろもろの関係と空間形態とを、取り入れなければならない。

線・面・角という観念、多角形・立法体などなどという観念は、すべて現実から取ってきたものである。

そして、〈最初の線は一つの点が空間のなかで運動することによって成立し、最初の面は一つの線が運動することによって成立し、最初の立体は一つの面が運動することによって成立した〉、などなどと数学者たちが言うのを信じるためには、相当におめでたいイデオロギーが必要である。

ことばそのものが、すでにこういう考えかたに逆らっている。

三次元の数学的図形は、立体、corpussolidum〔固体〕、と言われている。つまり、ラテン語では、〈〔固いから〕手でつかめる物体〉とさえ言われているのである。

それの名前は、だから、けっして知力の自由な構想物から得られたものではなくて、手ごたえのある実在から取ってきたものなのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p59-60)

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◎「もっと先へ進むためには、実在的な諸関係を、すなわち、現実の物体から取ってきたもろもろの関係と空間形態とを、取り入れなければならない」と。