学習通信051214
◎不抜さがいよいよ輝く時代……

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一九四五年八月一八日
 福島県郡山市開成山の百合子から網走刑務所の顕治宛

 昨十五日正午詔書渙発によってすべての事情が一変いたしました。

 十日以来、空襲がなかなか盛で(結局通過しただけに終りましたが)十四日夜は九時すぎから三時近くまで国男と二人で当直いたしました。田舎暮しで何にも分らず、十五日のことは突然ラジオで承った次第でした。昭和十六年十二月からあしかけ五年でした。

前大戦の時(十一月)丁度ニューヨークにいて、休戦の実に底ぬけな祝いを目撃しました。十五日正午から二時間ほどは日本全土寂として声莫しという感じでした。あの静けさはきわめて感銘ふこうございます。生涯忘れることはないでしょう。この辺は町の住民の構成が単純ですから、そして大きくないから到って平らかです。ただ新しい未知の条件がどういう形をとって実現してくるかということについて主婦たちも心をはりつめているようです。

 昨夜、もう空襲がないということが信じられないようでした。きよう、八ヶ月ぶりで、わたしのあのおなじみのお古の防空着を洗いました。一月廿八日に肴町附近がやけたのをはじめに十四日の夜も着て居りました。汗や埃まびれだのに洗うひまがなかったのよ。

けふこの日汗にしみたる防空将を洗ふ井戸辺に露草あをし

 あっちこっちに行っている人々のことを思いやります。原子爆弾というのは一発一万トンの効果ですって。達ちゃんどうだったでしょう。隆ちゃんはどうしているでしょう、富ちゃんは。林町の家がのこったのは不思議きわまる感じです。(多分のこっているでしょう)あんなに焼けているのにあすこがのこり従ってわたしの机も在る、椅子もある、本もある、何と信じにくいことでしょう。ああ原稿紙もやけなかったのだわ。それら仕事の道具を両腕にかき抱くようです。

 経済事情が様々に変化をうけることでしょう。

林町もここも国府津もやけこそしなかったけれども、一人の人問がそれだけの家の税は払い切れなくなるのではなかろうかと思います。わたしの事情も(経済)変りましょうし、わたしの小さい小さい財布ではすべてがいきなり底の底までつきぬけてしまうけれども、今のところ既定の方針を格別変えず、網走へ行くことを中心に考えて居ります。こちらは何の話もする人なしきく人なし、山の風雨だけでしたが、東京はいろいろもっとで切符のこともなかなかはかどらないのではないでしょうか。

待ち遠しさはひとしおです。ここの周囲が島民や教師が主で、急に生活事情の激変する人がないため、太郎なんかのためにはいい場所と云えると思います。食糧事情があるし、咲や子供たちは当分(何年か)ここに暮しつづけるでしょう。国は生計の必要から少くとも何かしなくてはいけないでしょう。こうやって寝ころがってはいられますまいから、これはいずれ上京するでしょう。わたしのことは、ともかくお目にかかった上でのことで、今のわたしにそれ以外のブランはありません。

 親しい友人たちに大した被害のなかったのは幸です。てっちゃんのところも家族と仙台にやってきてあすこがあれ丈蒙ってどうかしらと思ったところ無事、世田ヶ谷の家も無事。卯女の父さんが信州にいることは申しあげました。たよりが来て、オホーツク海で泳いだことがあるのですって。

「網走へは一度行ったことがあります。たしか網走湖というのがあって、汽車が網走へ行く前四五十分程の間軌道の両側一面にオミナエシが咲いていました。僕はまだ殆ど少年といってよかったが一人でつめたいオホーツク海で泳ぎました。」「僕の四十四歳の肉体は肉体としても十分使用にたえること、毎日六時半に出発して四時半にかえる迄、その間10分,10分,20分,10分,2時分,10分の休みあり──円匙十字鍬をふるい、モッコをかつぎ、トロッコを押して決して他の兵隊に劣らない。」「文庫本一頁読むヒマもないが不断に勉強していること。境遇は僕を奴隷とし能わぬ如くであります。」そして、きょうは網走で見た馬車馬の競争を見た話のハガキがありました。橇をつけて走るのですって。わたしは雪皚たる一月の晴天に、植橇をつけた競馬を見ました、馬種改良のためにはその方がいいのですってね。信州での生活も変りましょう。あらゆる境遇に処することを修得したものがいよいよ日本のために役立つわけでしょう。そしてほとんど全人口がそれぞれの形でそれぞれの作業をしたわけです。

 庭は桔梗の花盛りです。青草が荒れた姿で背高く繁っているところに点々と澄んだ紫の花を浮上らせて居ります。きょうも練習機はとんでおります。のっているのは若者たちでしょう。気分がわかるようね。

歴史の景観の一曲一折は深刻であり、瞠目的であり、畏るべき迫力をもって居ります。悲哀を徹してそこに人類と諸民族の美と真と善とを確信するようなこころの勁さ、ゆたかさ、不抜さがいよいよ輝く時代です。いかにも心をやるように、自分の体を大空の中でくるり、くるりとひるがえすように飛ぶ音をききながら、ああいう若い人に一粒ずつ不老の秘薬のようにこの「恆(つねとす)る心」の丸薬をわけてやりたいようです。この波濤に処するのに素朴な純真さだけがあながち万能ではないでしょう。ラジオでくりかえされるとおり沈着であっても猶聡明でなくてはなりませんから。

 まだ覆いははずしませんが、昨夜庭へいくらか光がさす位の灯かげのまま十時ごろまで坐っていて、明るくてもいいのだという新しい現実を奇貨のように感じました。よく深夜都会の裏の大通りなんかで皎々としたアーク燈のゆれているのを大変寂しく見ることがありますでしょう? 明るい寂しさというものを真新しく感じました。いかに視野をひろく、視線を遠く歴史の彼方を眺めやっているにしろ、不屈なその胸に、やはり八月十五日の夜、覆わないでよくなった電燈の明るさは、一つの歴史の感情としてしみ入ります。

東京にいたらどんなだったでしょう。焼けのこったあちらこちらの人家のかたまりは、やはり一つの銘記すべき歴史の感情として灯の明るさを溢れ出させたでしょうか。三好達治の商売的古今調もこの粛然として深い情感に対しては、さすがよく筆を舞わすことが出来ますまい。こういう感情のまじり気なさに対して彼に云われる言葉は一つしかないわ。「極りのわるいということが分っていい頃ですよ。黙りなさい。」

 この五年の間、わたしはこんなに健康を失ったし、十分その健康にふさわしい形で勉強もしかねる遑い日々を送りましたが、それでも作家として一点愧じざる生活を過したことを感謝いたします。わたしの内部に、何よりも大切なそういう安定の礎が与えられるほど無垢な生活が傍らに在ったことをありかたいと思います。これから又違った困難も次々に来るでしょうが、わたしが真面目である限り其は正当に経験されて行くでしょうと思います。

 五月中の手紙でテーマの積極性ということについてお話しいたしましたろうか? 多分したと思うけれども又くりかえし思うので又云うわ。くりかえしたら御免なさい。

 文学におけるテーマの積極性ということは文学上の問題して久しい前に云われました。ずいぶんいろいろにこねたわけでした。わたしは五月頃、忽然として胸を叩いて感歎したのよ。「あIあテーマの積極性ということはこういうことであるのだ」と。五月の詩「五月の楡のふかみどり」のうたに連関して。云わばはじめて鼓動としてわが胸にうったのね。一作家のテムペラメントとして内在的傾向として其は理解はしていたのですが。わかるということの段階は何と幾とおりもあることでしょう。

そこで又改めて感じたのですが、文学のテーマの積極性というようなことは、よほど生活経験がいることなのね。説明してやるに骨惜しみをしてはとても分らないことなのね。文学感情=生活感情として、よ。まだまだすぐ、うんそうだというところまで日本の作家の歴史経験はつまれていません。或は最近数年間の諸経験の理性に立つ整理がされていないのではないでしょうか。この点大いに興味があります。これからは一方に輸出向日本的文学なんかが出るかもしれません。

 このことにいくらか連関があることですが、今年のはじめになって、一つのきわめて有益な発見を(自分について)したことについて申上げましたろうか。別の面からはお話したように思うけれど。それは、目白にいた時分(十四年頃でしたろうか)あなたが私の仕事がジャーナリステイックな影響をうけすぎているとくりかえしおっしやったことがありました。当時私はその警告がわかっていて、やっぱり分らなかったと思います。昨年の秋以来の見聞でわたしはどの位成長したか知れないと思います。

自分の俗人的面が事にふれて痛感されたし、生活や文学について、私としては最大に(これまでと比較して)沖へ出て、明日への精神をよみかえしてみたら(この春頃)そこには根本に誤った理解はないけれども、話しかたに全くあなたのおっしゃった点が自覚されました。文章に曲線が多すぎ、其には二つの原因があります。一つは、高貴なる単純さを可能にしない理由によります。他の一つは、そのジャーナリスティックな影響であると思いました。よほど前の手紙に書いたように、あの時分わたしは面をひろくすること、接近することに熱心になっていて、その半面で足を掬われるところが生じていたのであると思います。

 白分の仕事のしぶりを時々吟味してみることは何と大切でしょう。しかしなかなかそういう機会にめぐり会えないものです。只時間として仕事と仕事との間にブランクが生じる休止はおこり得るし、わたしが例えば病気で何年も仕事出来なかったという丈のことは誰の上にもおこります。でも、その休止の機会に自分が本質的に一歩なり二歩なり前進し得るということは本当に稀有なことです。大抵は「見識が高くなる」丈なのよ。この数年の間作家として一点の愧なきと申しましたが、一つ誤りをあげるなら、それは仕事のあるもの──婦人のためのものです──が当時のジャーナリズムに影響されなかったとは云えないことです。この点は作家としての回想の中にも書き洩せないことだと思って居ります。その発見の価値よりも、むしろそれを自覚させるに到った諸事情の価値によって。

 これを思うから、わたしは文学の進歩がどんなに大したことかと痛切に感じないわけに行かないのです。御同感でしょう? その時期でも文学史についての勉強などそして小説などは、同じ危険に同じ程度にさらされては居りません。これからわたしは文学の仕事しかしようと思わないというのは、そういう危険をおそれるからではなくて、自分のような諸条件を得て、一歩ずつ歩けるものは、たとえどんなにたどたどしくても、その最もエッセンシャルな部分に全力を注ぐべきだと思うのです。そうしなくては勿体ないと思うからよ。まして健康を損われて、あの時分のように、一日に十何時間も仕事が出来た頃とすっかり違う条件においては、ね。

 先月の五日にこちらへ来て一ヶ月と十日ばかり(間で束京ヘー週間)経ちました。そちらへ行くのがおくれてへこたれです。ただ生物的日々を過す生活というものはおそろしいものねえ。こんなに紛然、騒然として朝から夜までつづき乍ら、しかも何一つ、本当に何一つ形成され、造られ、のこされて行かない家庭生活は何と怖ろしいでしょう。自然子供が大きくなるのだけが何かだという生活は何とおそろしいでしょう。こうして手紙かいているということは、一縷わたしたちの人生的糸です。
 
包は何も出ません。従って本の目録も只御覧になっ 丈。しかし注文は頂いておきましょう。いつまでも閉まっても居りますまいから。
(宮本顕治、宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p204-209)

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 八月十五日、重大放送があるからきくようにとの隣組からの連絡がありました。終戦の玉音放送は、近所の人たちが集まって隣家のラジオで聞きました。ところが、放送中ガアガアと雑音がひどくて、なにがなにやらさっぱりわかりません。でもどうやら戦争はやめたということらしいということだけはわかりました。

 「戦争がおわった」ということだけは口からロにつたえられ、ぼう然としていた私も時がたつにつれ身体じゆうがはげしくゆすぶられるような感動にひたっていきました。「戦争がおわった! どうあがいてもさけることはできないときめこんでいた戦争にもおわりがあった、とにかくそれはおわらせることができるものなのだ、私は生きられる」と。

 私はいそいそと暗幕をはずしました。その夜、何年かぶりで、明るく電灯をともしました。窓から眺めると、どの家の窓からも明るい灯が美しくきらめいていました。何年ぶりかでみた夜の光りの美しさ。窓々の灯をあかず眺めながら、その窓から聞こえてくる子どもの声に耳を傾けていました。

 人を見たらスパイと思え、うっかり本心をしやべるものならたちまち非国民のデッテルがはられる。何もほしがってはいけない、美しいものは罪悪だ、とかいうような非人間的残酷さに追いつめられてきた人間の心が、また明るく素直に、建設的になり、女性は美しく、子どもは走りまわり、おいしい食べものがどっさり食卓に並べられる風景を次つぎと思い浮かべるのでした。

 その夜もおそくなって、夫が帰宅しました。そして、ひっそりとピストルに実弾をこめていました。「そんなことして一体どうするつもりなの」ときく私に、彼は「米軍がやってきて、もしものことがあったら、おまえをこれで射ち、おれの最後のために使うんだ」というのです。
(小笠原貞子著「面を太陽にむけて」啓隆閣 p54-55)

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弔詞

職場新聞に掲載された一〇五名の戦没者名簿に寄せて

ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。

ああ あなたでしたね。
あなたも死んだのでしたね。

活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとぢられたひとりの人生。
たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間

あなたはいま、
どのような眠りを、
眠っているだろうか。
そして私はどのように、さめているというのか?

死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私たちに近づく。
戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。

死者は静かに立ちあがる。
さみしい笑顔で
この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発とうとしている。

私は呼びかける。
西脇さん、
水町さん、
みんな、ここへ戻って下さい。
どのようにして戦争にまきこまれ、
どのようにして
死なねばならなかったか。
語って
下さい。

戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私たちに近づく。
そうでなければ良い。

八月十五日。
眠っているのは私たち。
苦しみにさめているのは

あなたたち。
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。
(「石垣りん詩集」ハルキ文庫 p124-127)

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◎「いかにも心をやるように、自分の体を大空の中でくるり、くるりとひるがえすように飛ぶ音をききながら、ああいう若い人に一粒ずつ不老の秘薬のようにこの「恆る心」の丸薬をわけてやりたいようです」と。