学習通信051208
◎いっぺんにバラ色に……
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わが家の子育て
一緒にままごと気分で
わが家の三人娘は、芳紀二十二歳、二十歳、十八歳、匂い立つような美しさである。親ばかを絵に描いたような私は、メロメロになって見ほれている。
この二十余年は私自身のキャリアを築いてきた日々であり、けっして平坦な道のりばかりではなかったが、子どもの存在を重荷に感じたことは片時もなかった。むしろ子どもたちがいなかったら今日の私はあり得なかっただろう。
長女を身籠ったのは博士課程三年のときで、大きいおなかがつかえるので、両手を一杯に伸ばして学位論文をタイプした。産後三ヵ月はあふれるような母乳を与えながら娘との蜜月を楽しんだ。この産後の母娘の蜜月は、二女とも三女とも、半ばままごとのようにして暮らした。
三ヵ月後は、保育ママさん、近所のおばさん、零歳保育とあらゆる可能性を駆使した。使い捨ておむつとか、全自動洗濯機とかいった、神の福音のような文明の利器はまだ出現していなかった。本や論文の入ったカバンと、おしめや着替えの入った袋を片手に持ち、もう一方の手で子どもを小わきにかかえて、家と保育所と職場とを毎日往復した。思えば平然と曲芸をしていたのである。
夫の職場と家とはだいぶ離れていたので、ほとんどの期間、夫は単身赴任であった。しかも私自身、長女出産以後十余年の間に、海外出張も含めて七回引っ越したので、すぐには保育条件がととのわなかった。そんなとき、子どもたちを研究室に連れていって片隅で遊ばせておいて仕事をした。国際会議にも一緒に出席し、子連れ狼とよばれた。
それもこれも、確たる育児哲学があってのことではなく、他に手段がなかっただけのことである。強いて哲学らしきものを挙げるなら、まず人間は本来集団に生きる動物であって、身近な人間の愛情の支えがあれば、あとは集団の中で挑戦し、切磋琢磨しながら成長するものだという信念である。だから子どもを預けることには、むしろ積極的な意味を見いだしていた。
さらに、子どもは親の持ち物ではなく、人類の明日を背負う社会共通の宝であり、社会全体で育んでいくべきものだと考えてきた。子連れ狼を自慢して歩こうとは思わなかったが、さりとて恥じたり遠慮したりする気持ちもまったくなかった。だから子どもたちとじゃれながらままごと遊びを続けている気分で、私はいまだに日常性が欠落したままである。こうして育てられた娘たちが、やはり日常性を欠いているのは当然の成り行きというべきだろうか。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 185-188)
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育児をたのしもう──親の苦労と喜びと
今の日本では、赤ちゃんを生むことも、一人前に育てていくこともたいへんなことです。働いている人で、赤ちゃんをほしいと思いつつもいろんな事情から出産をあきらめたり、あるいは生むことに決心しても、住居や出産・育児費用、そしてつとめにでるときは誰に面倒をみてもらうかなど、頭をなやまさずにすむ人はほとんどいないといっていいでしょう。
私も現実の生きるきびしさを前にしていつも不安と苦しみに悩み子どもができたら、また苦労のタネがひとつふえる、などと考えていましたが、働きながら、つわりを経験し、大きなお腹をかかえて通勤し、そして無事出産したとき、「私でも母親になれた」と腕のなかにある私の乳児を抱いてとめどなく涙がでてきました。つよく生きようという勇気もわいてきました。
出産したその朝の日の出の美しかったこと。これまで灰色に包まれたような不安な人生がいっぺんにバラ色に輝くようになった印象をけっして忘れません。夫の嬉しそうな笑顔は私たち本当に夫婦としていっしょに生きるのだという実感を与えられました。
以来、子どもが笑った、はった、立った、といっては二人でよろこび何かとたのしい話題の中心になります。また、子どもをとおして、近所と仲良くなり、そして、子どものために遊び場や歩道橋や保育所をたてさせる運動をし、教科書を学び、政治と対決するようになりました。以来子どもは、つねに私たちの生きる指標であり、行動へ立ちあがらせる原動力にもなっています。
たしかに、育児の本をよんだり、他人の話を聞いたりすると、気が遠くなるほど、やっかいな仕事に思われます。また少し前のある種の「科学的」な育児書には、授乳の時間がくるってもその子の人格形成に影響するなど、もっともらしく書かれてありました。今ではこんな「理論」を信じている人は、誰もいないでしょう。多少の失敗やゆきすぎ、あるいは不十分さなどはある方が当然といえます。大事な、基本的なところで間違ってさえいなければ、そして両親の生き方がまっすぐで大きなゆがみや動揺がなければ、子どもは立派に育ってゆくものです。
マカレンコの「ごくおさない子どもの時分から正しく教育することは、多くの人たちが思うほどそんなにむずかしいことでは決してない。……自分の子どもをよく教育してやるということは、どんな人でも、もし本当にその気になりさえすれば、たやすくできることだ。そればかりか、それは、気持ちのいい、たのしい、仕合わせなことだ」(青木文庫『愛と規律の家庭教育」)ということを忘れないでおきたいと思います。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p52-53)
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だから、人間がその生来の形を保存することを望むなら、人間がこの世に生まれたときからそれを保護してやらなければならない。生まれたらすぐにかれをしっかりつかんで、大人にならないうちはけっして手放さないことだ。そうしなければとても成功はおぼつかない。
ほんとうの乳母は母親であるが、同じように、ほんとうの教師は父親である。父と母とはその仕事の順序においても、教育方法においても完全に一致していなければならない。母親の手から子どもは父親の手に移らなければならない。
世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子どもはりっぱに教育される。才能が熱意に代わる以上に、熱意は才能に代わることができるはずだ。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p45)
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◎「ほんとうの乳母は母親であるが、同じように、ほんとうの教師は父親である」と。