学習通信051202
◎実に高貴な人間歓喜を……

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一九四五年五月十日
  千葉県長者町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛

 三日づけのお手紙、ちょうどきのう出がけに頂いて、袋に入れ、こちらへくる汽車の中でたのしいおやつとなりました。これが一週に、一、二度書いて頂けた時期の一番終りの分となりましたね。虱の話。大丈夫よ。おどろきも心配もいたしません。太郎なんか田舎でゾロゾロよ。よく処置しておきましょう。水道は林町辺は十三日以来全く駄目となりポンブを使って暮しております。ガスも出ずです。宅下げの本のこと、このお手紙の分もお話のあったことも承知いたしました。いろいろの古典をすっかりおよみになったのはさぞいいお気もちでしょう。(中略)

 今メレジュコフスキーの『ミケランジェロ』を読んでいて、ルネッサンスという人間万歳の時代においても、法王やメヂィチや我ままな権力に仕えなければならなかった偉大な人々の苦悩に同情を禁じえません。ミケランジェロの憂欝は、彼の大いさに準じて巨大に反映したルネッサンスの暗さね、明け切れぬ夜の影です。

この頃しみじみ思うの。未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と。トルストイはアンナ・カレーニナの第一章で、不幸は様々で一つ一つちがうが幸福なんてものは一つだというようなことを云っております。どうして現代の歓喜がそんな単調なものでしょう。ミケランジェロが彼の雄大さで表現しえなかった歓喜が現代にあるということは、神さえも無垢な心におどろくでしょう。ちょうど息子のおかげで生甲斐を知った親のように、面白いわね。
(宮本顕治、宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p172)

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序  文

 最大の興味とゆるむことのない注意とをもって、私はジョン・リードの著「世界をゆるがした十日間」を読んだ。私はこの書を世界の労働者たちに無条件で推薦する。数百万部と発行されて、あらゆる国語に翻訳されることを、私が希望するところの書物が、ここにある。それは、プロレタリア革命とプロレタリアート独裁の真相を、理解するのにきわめて重要な諸事件の、真実にして最も生き生きとした説明をあたえている。これらの問題はひろく論議されているが、これらの思想を容認または拒否できる前に、人はそのような決定の全意義を理解しなければならない。疑もなく、ジョン・リードの著書は、世界の労働運動の根本問題たるこの疑問を晴らす助けとなるであろう。
  一九一九年末  ニコライ・レーニン
  (ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤノフ)


ロシヤ版への序文

 「世界をゆるがした十日間」──ジョン・リードは、その注目すべき小著にこういう表題をつけた。それには十月革命の最初の数日が非常にはっきりと力強く記録されている。これは、事実のたんなる列挙や文書の蒐集ではなくて、生き生きとした場面の系列であるが、それはきわめて典型的なものであるから、革命に参加した誰彼にとっても、自分がその目撃者だった同様な場面を思いださずにはおれないのである。

これらの画面はすべて、現実生活から取りだされたものであるから、大衆の気分──それを背景にして偉大な革命家のそれぞれの行動がとくにはっきりしてくるところの──を、これ以上に伝えることはできないであろう。

 ちょっと考えただけでは、ロシヤ人の言葉も日常生活……も知らない外国人たるアメリカ人が、この本をどうして書けたのか、とふしぎに思われる。彼はいたるところでおかしな誤りに陥るにちがいないし、多くの基本的なものを見のがすにちがいない、と思われるであろう。

 外国人でソヴェート・ロシヤについて書いている者が他にもある。彼らは、おこっている諸事件を全く理解しないか、必ずしも典型的でない個別的事実をとらえて一般化している。実際、革命の目撃者はたいへん少かったのである。

 ジョン・リードは平凡な観察者ではなかった。──彼は熱情的な革命家であり、事件の意味、偉大な闘争の意味を理解した共産主義者であった。この理解が彼に視覚の鋭さをあたえたのであるが、それなしにはこのような書物を書くことはできないであろう。

 ロシヤ人も十月革命について違った書き方をしている。彼らは、それの評価をあたえているか、または自分が参加したエピソードの記録をしているか、どちらかである。リードの小著は、真の人民大衆の革命の全描写をあたえており、それゆえ、それは青年にとって、将来の世代にとって──十月革命がすでに歴史となっているような人たちにとって──とくに大きな意義をもつであろう。リードの小著は一種の国民口碑的叙事詩である。

 ジョン・リードは、自分をロシア革命と全面的にむすびつけた。ソヴェート・ロシヤは彼にとって祖国となり親愛なものとなった。彼はチフスのために死んで赤い広場に葬られた。この名誉は、ジョン・リードのように、革命の犠牲者の弔辞を書いた人に、ふさわしいものである。
 エヌ・クループスカヤ

(ジョン・リード著「世界をゆるがした十日間 上」岩波文庫 p5-7)

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人類の「本史」の扉が開かれるとき

人類の歴史が変わる

 私はさきほど、人間と自然の関係のなかで、生産手段の位置づけについて話しましたが、実際、この生産手段を、資本がにぎりつづけるのか、それとも社会がにぎるのか、これによって本当に社会の性格がおおもとから変わります。社会が生産手段をにぎることによって、はじめて、経済が社会全体の利益のために働く、社会を構成している人間全体の利益のために働く、このことが現実の問題となってきます。

 マルクスは、なかなか壮大な言葉で人間の歴史を特徴づける人で、資本主義社会の段階までは、まだ人類の「前史」に属する、と語りました。「前史」というからには、次に「本史」──人類の本当の歴史があるわけですが、その「本史」は、資本主義社会を乗り越えたその先から始まる、ということです。

 だから、現在は、「本史」が始まる前の部分で、私たちは、人類史の流れのなかで言えば、「本史」を切り開く時代に生きているのです。この仕事をやりとげて、生産手段を社会化した社会が生まれたら、いよいよ人類の「本史」が始まります。「本史」というのは、人間にふさわしい、人問本来の力と英知が発揮される時代だということです。

 人類の歴史の流れをふりかえってみましょう。
 さきほどのべたように、地球が生まれたのは四十六億年前ですが、その地球の海のなかに、最初の生命が生まれたのが三十五億年前でした。海のなかのその生命が大気の改造に活躍して、地上に上陸したのが四億年前、それから長い進化の過程を経て、われわれ人間の祖先がチンパンジーと縁を分かったのがほぼ数百万年前、それから人間として進化の歴史が始まりました。そして、地上でもっとも高度に発達した生命体である人類が、いよいよ自分で自分の歴史をつくりだす時代が、「本史」なのです。その歴史は、おそらく人間が進化してきたこれまでの歴史──数百万年といわれる、いわゆる「前史」にくらべて、はるかに長期にわたる人類の大発展、大躍進の時代となるだろう、と思います。その躍進にむかう枠組みとも土台ともなるのが、生産手段の社会化なのです。

こういう大変革は、設計図通りの組み立てで済むというものではない

 「生産手段の社会化」というのは、未来社会の枠組み・土台を生み出す、人類史的な大変革ですから、なにかできあいの設計図がきちんとあって、設計図どおりにものごとを組み立てれば済むというものではありません。できあがった舗装道路の上を一気に走るような具合にはゆかないのです。

 大方向ははっきりしているのですが、生産手段を社会がにぎるやり方についても、そこには、いまからこういう方式だよと一律に決められる、決まった形があるわけではありません。

 社会主義と言えば、国有化だと思っている人が多くいます。しかし、一ロに「国有化」といっても、以前の国鉄のように、国有化の形はあるが、上から任命された官僚がすべてを動かして、そこで働く労働者の立場は、民間の工場と何も変わらない、こういうことだったら、資本主義とあまり違いはないでしょう。実際、ソ連でも、「国有化」はありました。しかしそこでは、労働者は経済の管理から押し退けられ、国民もものが言えない。ソ連全体の工場から鉄道まで生産手段を「国」が持っているということは、社会主義ではなく、スターリンなどの専制支配の土台でしかありませんでした。

 だから、綱領は、新しい社会では、「生産手段」を社会化する形はいろいろあっても、どんな場合でも、「生産者」が必ず主役にならなければならない、ということを強調しています。「生産者」とは、生産にたずさわるすべての働き手のことです。そこには、現場の労働者はもちろん入ります。技師も入れば、コンピューターの管理者も入ります。生産に実際にたずさわっているすべての人たちが、その知恵と力を共同で発揮して、工場や事業所を動かし、経済を動かす。資本家や官僚ではなく、生産者たちが力をあわせて、集団で工場や事業所を動かす、こういう新しい体制をいかにして生み出すかということが、なによりも大事な中心問題なのです。

「日本国民の英知と創意」が発揮される「新たな挑戦と開拓の過程」

 もちろん、日本でも、将来、そういう変革にとりかかるなかで、「生産手段の社会化」のいろいろな形態が生まれ、また実際に試されることでしょう。そのなかで、日本にふさわしい「生産手段の社会化」の体制がつくりだされてゆくでしょう。

 ですから私たちは、新しい綱領のなかで、机の上でいまからその形を決めて、この社事にとりかかる将来の世代の手をしばるようなことはしませんでした。

 こういう考えから、綱領にこう書きました。

「日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる」。

 将来、あなたがたが、この問題の解決に当たる世代になったとしたら、それこそ、それまでの日本の実地のなか運動のなかで経験したすべてを生かし、国際的な教訓があればそれも吸収し、知恵を発揮して、その段階の日本社会にいちばんふさわしい形をつくりだす。そのときに、何十年前につくられた綱領にこう書いてあった、それに手を縛られてうまく動けない、こんなことになって、将来の世代を困らせることのないように、そこまで考えて、綱領のいまの文章が書かれているわけであります。

これだけのことは、いまでもはっきり言える

 しかし、いまでもはっきり言えるし、無用な誤解をあらかじめ避けるためにも、言っておくことが必要だと思うことは、二〇世紀を生きてきた者の責任において、綱領は、大胆に明らかにしています。
 それは、次のような諸点です。

──社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが受けつがれ、いっそう発展させられる。

──社会主義にふみだす出発点ではもちろん、その途上のすべての段階で、国民の合意が前提になる。政府が、国民の意思を離れて、勝手に進むことはしない。

──「生産手段の社会化」では、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要だが、どんな場合でも「生産者が主役」という社会主義の原則をふみはずしてはいけない。ソ連の誤った経験とはきっぱり手をきる。

──「市場経済を通じて社会主義に進む」ことが、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向となるだろう。

 よく誤解があるのですが、市場経済というのは、即資本主義ではないのです。資本主義は市場経済のなかで生まれましたが、市場経済に強くならないと、社会主義への道を進めない、ということは、レーニンが、革命後のロシアでいろいろな失敗をしながら、苦労してたどりついた最後の結論でした。

 以上が、綱領で述べている未来社会論のあらましです。
 冒頭に述べたように、私とくらべて未来社会により近い世代であるみなさんが、この問題を、自分たちの手で日本と世界の未来を開く問題として、ぜひ大いに討論していってほしいと思います。
(不破哲三著「報告集 日本共産党綱領」日本共産党中央委員会出版局 p263-267)

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◎「「本史」……その歴史は、おそらく人間が進化してきたこれまでの歴史──数百万年……いわゆる「前史」にくらべて、はるかに長期にわたる人類の大発展、大躍進の時代となるだろう……その躍進にむかう枠組みとも土台ともなるのが、生産手段の社会化」と。