学習通信05112627 合併号
◎どうかという根本問題……

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 カーライルは事実においてはまったく正しいが、ただ彼が上流階級にたいする労働者の荒々しい激情を非難している点だけは誤っている。

この激情、この怒りは、むしろ、労働者が自分の状態は非人間的だと感じ、動物にまで落とされたくないと思い、いつかはブルジョアジーヘの隷属から自分たちを解放しようとしていることの証拠なのである。

こういう怒りを共有していない人がいることは、われわれも知っている

──彼らは、自分たちが出会った運命におとなしく服従し、できるだけ上手に誠実な個人としての生活を送り、世の中の動きには無関心で、ブルジョアジーが労働者の鎖をもっと固く鍛えあげるのを助け、工業化以前の精神的には死んだ立場に立っている──

そうでなければ彼らは、運命にもてあそばれ、運命とたわむれ、すでに外面的には失ってしまったしっかりとしたよりどころを、内面的にも失い、漫然と日をすごし、ジンを飲み、女の子の尻を追いまわす──

いずれの場合も彼らは動物である。

この後者こそ、「悪徳の急速な増加」のおもな原因となっているのであって、感傷的なブルジョアジーは自分でそのことのもとをつくりだしておきながら、それにおどろいているのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p181)

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労働組合のんぜぜどうの合法則性

 つぎに資本主義のもとに生まれた労働組合は、資本主義 発展とともに前進しますが、なぜそうなるのか、その点をもう少し深めてみることにしましょう。

 労働組合運動の前進の客観的な条件は、資本主義の発展がもたらす必然的な結果なのです。

それは、第一に、資本主義の発展は必ず他方で労働者の数の増大をもたらすからです。また、労働者階級の数の増加だけでなく、重化学工業、運輸通信、建設などの基幹産業の労働者の比重が高まり、これらの産業の大都市への集中とともに、労働者の大都市への集中もすすみます。さらに資本主義が発展するとそれにともなって、商業、金融、公務、教育、サービスなど非生産部門の労働者が増え、この勢力があらたに労働組合運動の隊列に合流することとなります。

 第二に、こうして、資本主義の発展は、労働者階級の数の増大をつくりだすだけでなく労働者に耐え難い労働苦と生活苦をおしつけることとなります。そして、そこから労働者は、みずからの生命と暮らしを守るためにたたかいの領域をひろげ、またその抵抗運動をより効果あるものにするために、労働組合に団結し、団結の形態(組織形態)やたたかい方を発展させてたたかいを前進させてきました。

 こうして、資本主義の発展とともに、ますます大衆化し、激しくなる階級闘争のなかで労働者階級が科学的社会主義の理論にみちびかれ、教えられ、きたえられ階級的自覚をますます高めていきます。ここに労働組合運動の前進の必然的な法則性をみることができます。

 もちろん、労働組合運動の前進の必然的な法則性があるからといって、労働組合運動が自然のなりゆきにまかせておいても発展するということではありません。

現代の世界の労働組合運動は、依然としてその内部に、労働組合を軽視する考え方や反共主義や労資協調主義などさまざまなあやまった潮流が存在し、その分裂策動もつづいています。これとのたたかいなしに労働組合運動の真の前進をかちとることはできません。

しかし、労働組合運動は、一時的に困難に直面しようとも、またときには後退や停滞することがあっても、それをのりこえ前進と飛躍をかちとるものであることは、世界の労働組合運動の歴史がしめしていることです。ここに私たちの勝利の確信とかがやかしい未来への展望についてのゆるぎない基礎があるということができるのです。
(労働者教育協会篇「労働組合論」学習の友社 p27-28)

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階級闘争のなかに占める経済闘争の位置

 経済闘争のはたす役割

 経済闘争とは、自分の意志とは無関係に、賃金奴隷としての客観的な状態におかれている労働者階級が、直接的な物質的利益、すなわち、賃金や労働条件、生活条件などを防衛し改善するために労働組合に結集してたたかう集団的行動である。

 それは資本主義的生産関係から、必然的に生みだされた避けることのできない階級的矛盾のあらわれである。歴史的にみても、労働者階級と資本家階級の利害は、なによりもまず経済的諸間題で衝突し、両者の階級闘争は、最初に経済闘争の形態であらわれた。それは、経済闘争が、資本と労働とのあいだで日常的に萌芽的にたえず発生する階級闘争としての性質をもっているからである。しかも、重要なことは、階級闘争としての経済闘争は、政治闘争と無関係に孤立的に存在しているのではないということである。

 かつてレーニンは「政治は経済の集中的表現」であるといった。この短いことばのなかには、政治と経済の相互関連がみごとに定式化されている。つまり政治とはある階級の利益を代表するものであり、その基礎は経済にあるという意味である。ここには資本主義制度の本質が鋭くあらわされている。

 事実、世界の労働組合運動の歴史がしめすように、労働者階級は労働組合を組織し、経済闘争をおこなうなかで、労働者が立ち向かうべき敵は個々の資本家ではなく、資本家階級であること、そして資本家階級の背後にはかれらの支配の道具である国家権力があることを学ぶ。労働者階級は、これらのことを個々の資本家にたいして部分的、あるいは一時的に勝利することがありながらも、全体としての資本家階級、国家権力によって弾圧されることをつうじて学ぶ。

そして階級全体、労働者階級が団結し、共同で行動することが必要であるということ、また自分たちの生活権と人間的生存の権利を守るためには国家に影響を与えることが必要であるということを確信するようになる。労働者階級の経済闘争はこうして必然的に政治闘争へと転化、発展する。

 マルクスは、『共産党宣言』のなかで「あらゆる階級闘争は政治闘争である」とのべている。もちろん、この有名な言葉は、個々の資本家と労働者の闘争はみなすべて政治闘争という意味ではない。労働者の闘争は、それが階級全体が団結し、闘争する階級闘争となるに応じて、必然的に政治闘争になるという意味に理解しなければならないであろう。

 しかも、すでにのべてきたように、今日の国家独占資本主義のもとでの経済闘争は、個別企業でのたんなる経済的条件の改善にかんする問題であっても、独占体、銀行、政府、さらにときとしては国際金融資本の干渉をうけて、政治問題化せざるをえないばあいがすくなくないということである。

 したがって労働組合は、経済的諸要求を実現するためにも、一九世紀の先行者たちのように主として個別企業の資本とたたかうだけでなく、独占体や政府にたいして連合してたたかわなければならないということである。

 しかし、経済闘争が、政治闘争と無関係に孤立的に存在するのではなく、必然的に政治闘争へ転化発展する運動の合法則性をもっているとしても、それ自体としては労働者の日常的利益を擁護する闘争であって、直接的には労働者階級の終局目標、すなわち、資本主義の廃絶を目的とはしていない。つまり資本主義社会の枠のなかでの改良闘争である。

 改良と革命

 かつてレーニンは、改良は革命の「副産物」であるといった。それはこういう意味であろう。資本家階級にとって改良とは、労働組合の経済闘争が資本主義の基盤をゆさぶり、それをうちこわすような闘争──政治闘争に発展することをおさえ、かれらの支配と資本主義を維持するための手段にしかすぎない。それは階級闘争のなかで一定の譲歩に応じなければならないばあいでさえそうである。つまり改良には、労働者階級の闘争にたいする譲歩の面と、資本家階級が資本主義支配を維持するために労働者をたぶらかすという面と二つある。

 このことは、もし、労働者階級が賃金奴隷に甘んじたくないと思うならば、経済闘争を発展させるとともに、それを労働者階級の闘争の全過程、したがって終局目標に結びつけなければならないという課題を提起している。

 改良主義は、いつのばあいでもそうであるが、経済闘争を資本主義の否定的側面にたいする闘争として位置づける。かれらは現代資本主義が搾取に基礎をおいて成り立っているという基本的性質を否定することから出発して、国家の階級的性格を無視し、それを超国家的なものとみなしている。そこから、かれらは資本と労働とのあいだには利害の共通する面と、対立する面との二つの側面があるなどと称して労資協調主義を公然と表明している。

そして階級闘争を否定し、改良とは階級間の「和解の産物」であるとする。したがって改良主義者は、改良の闘争を資本主義制度の廃絶のたたかいと結合するのではなく、逆に改良によって、資本主義を擁護しようとする点にその本質がある。だからこそかれらは労働組合の任務を経済闘争に限定し、しかもひとたび、経済情勢が悪化したときは恥も外聞も投げすてて資本の賃金抑制に協力したり、ブルジョア政治運動にのりだしたりするのである。

 このようにわれわれと改良主義者との相違は、改良主義者は改良に賛成し、われわれは改良に反対するという点にあるのではなく、改良を階級間の「和解の産物」とするか、それとも革命闘争の「副産物」とみるかという点にある。これがわれわれとかれらとの基本的分水嶺である。

 そしてこのことは、たんなる主観の相違ではない。それは資本主義社会のもとで、たえず悪化する労働者階級の状態と、そこから形成され成長させられる合法則的な労働組合運動の現実を直視するかどうかという根本問題でもある。
(荒堀広著「労働組合運動論」新日本新書 p171-175)

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◎「労働者の荒々しい激情……この激情、この怒りは、……労働者が自分の状態は非人間的だと感じ、動物にまで落とされたくないと思い、いつかはブルジョアジーヘの隷属から自分たちを解放しようとしていることの証拠なの」だと。