学習通信051122
◎一本調子では……
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イメージの描きやすい読みかたを
五月の授業参観に集まったおかあさんたちに、松木先生は、読みきかせの授業を見てもらいました。松木さんの受け持ちは小学校三年生です。
テキストに使ったのは、『白いりゆう黒いりゆう』(岩波書店)です。この本には、「犬になった王子」「くじゃくひめ」など、中国の少数民族が伝える民話六編がおさめられています。
そのなかから、松木さんは、「九人のきょうだい」をえらびました。
イ族のある村に、「ちからもち」「くいしんぼう」「さむがりや」「あつがりや」などといり九人の兄弟がいました。かれらは、名まえのとおりの特技をもった、現代風にいうとスーパーマンの兄弟です。そのうえ、なんともつごうのいいことに、九人とも顔もからだつきもそっくりなのです。
「宮殿の竜のはしらを、もとどおりにできたものには、のぞみのほうびをとらせる」という 王さまのおふれを知った兄弟は、相談のうえ「ちからもち」を行かせます。「ちからもち」がいとも簡単になおしてしまったことを知った王さまは、「もし、そのような力もちなら、きっとおおめしがくえるはずじゃ」とつぎつぎに難題をふきかけますが、そのつど、別の兄弟が出ていって、みごとに切りぬけ、さいごには宮殿ごと王さまを大川に流してしまうという話です。
松木さんが読みきかせをするときに、いちばん気をくばるのは、聞いている子どもたちが生きいきとしたイメージを描きやすいように朗読するということです。
そのためにまず必要なことは、ゆっくりと読むことです。あまりはやく読むと子どもたちは、一つのイメージを完全に描ききれないまま、つぎのイメージを描くという努力をしなければなりません。これでは、聞いているうちに、話の前後がつづかなくなって、あきてしまうということになります。
松木さんは、発音を正確にすることもたいせつだと考えています。発音が不正確だと、聞きとりにくく、イメージを描くさまたげになってしまいます。
また、適当に間をとることもたいせつです。間は、場面の転換や時間の経過を印象づけてくれます。また複雑なイメージをつくりあげるよゆうを子どもたちにあたえるためにも、間はとてもたいせつなはたらきをします。
ときどき、本を読むのを中止して、意味のよくわからないことばの説明をしてあげることもたいせつです。そうしないと、子どもたちの頭の中で、そのことばのところだけフィルムが切れてしまったような状態になり、イメージが切れてしまうからです。逆に、途中で説明ばかりしていると、かえって、イメージを描くじゃまになってしまうのはもちろんです。
ゆっくりと読むことがたいせつだからといって、初めから終わりまで一本調子でやられたのでは、あきてしまいます。必要なところはスピードをあげて読まなければなりません。たとえば、「九人のきょうだい」が生まれたところはつぎのようになっています。
「オギャー、オギャー、アワアワ……もうたいへんなさわぎです」
このような部分は、息もつかさず、たたみかけるように読むことが必要です。
声の大きさを調節することも大事なことです。松木さんは、王さまがかんかんにおこって 「こうなったら、つかまえて切りきざんでしまえ!」と叫ぶところでは、聞いている子どもたちがびっくりしてとびあがるほどの大きな声で続みました。
こんなふうにして読んだので、聞いている子どもたちは、すっかり物語の世界にひきこまれ、読みがおわるまで目を輝かせて聞いていました。
読みきかせの授業がおわったあとでおかあさんたちと話しあったとき、あるおかあさんは、「わたしが家で読んであげるときには、あんなにたんねんに読んであげませんでした。ついあせってせかせか読んでしまうのです」と話してくれました。
また、別のおかあさんは、「途中の説明が多すぎるのではないでしょうか?」という疑問をだしましたが、松木さんは、「本を読んでもらっているときの子どもたちの表情、目の輝きを見てほしかった。そこがたいせつなのではないでしょうか」とこたえました。
読みきかせをするときには、読む方も聞く方もくつろいだ状態でなければ困ります。子どもの感想がまちがっていたり、親の期特にそわないからといって、叱りつけるようではせっかくの苦労も水のあわです。
それ以上にたいせつなのは親自身がまずある作品に感動し、その感動を子どもに伝えようと願いながら読んであげることです。自分の感動しない作品を読んであげるのだったら、いくら発音や声の大きさ、はやさなどに気をつけても「骨折り損のくたびれもうけ」というほかありません。それらのことは、親自身が感動する本を探しだし、あせらずに読みきかせを継続していくうちにいつしか身につくことなのです。(H)
(代田昇編「子どもと読書」新日本新書 p62-65)
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わたしたちの言語はすべて技術によってつくられたものだ。あらゆる人間に共通の自然の言語というものがあるかどうかについて、人々は長いあいだ研究してきた。たしかにそれはある。それは子どもが話をすることができるようになるまえに語っている言語だ。
この言語は音節によってあらわされないが、抑揚があり、音色があって、聞きわけられる。わたしたちの言語をもちいることによって、わたしたちはそれを捨て、やがて完全に忘れてしまったのだ。
子どもを研究しよう。そうすればやがてわたしたちは子どもからふたたびその言語を学ぶことになる。この言語を学ぶうえに乳母はわたしたちの先生になる。乳母は乳飲み子の言ってることをすべて理解している。乳母は子どもに返事したり、ひじょうに長いあいだ子どもと会話したりする。そして、乳母はことばを発音するが、そのことばはまったく無用なのだ。子どもが聞きわけるのはことばの意味ではなく、それにともなう抑揚なのだ。
声による言語のほかに、それにおとらず力づよい、身ぶりによる言語がある。この身ぶりは子どもの弱い手であらわされるのではない。それは子どもの頗にあらわれる。まだよくととのっていない容貌がもうどんなに豊かな表情を示すことか、それは驚くばかりだ。その顔つきは、一瞬一瞬に、考えられないほどのはやさで変わる。微笑が、欲望が、恐怖が、稲妻のようにあらわれては消える。
そのたびにまるでちがった顔を見るような気がする。子どもは、たしかに、顔の筋肉がわたしたちのより動きやすいのだ。これに反して、子どもの目はどんよりして、ほとんどなにも語らない。肉体的な要求しかもたない時期にあるかれらの表現方法は当然そうあるべきだ。感覚の表現は顔面に見られ、感情の表現はまなざしに見られる。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p76-77)
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◎「それ以上にたいせつなのは……作品に感動し、その感動を子どもに伝えようと願いながら読」むことと。
学習通信050302 にもエミールを引用しています。重ねてください。