学習通信051118
◎ぎょうさんあります……

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 私は京都弁を話す男性の話の最後に、故朝山新一氏の名を掲げたい。一九七八年一一月、多くの人に借しまれて急逝した氏は、もともと学者としては発生学をその専攻としたのであるが、性の科学の
定着のために、きわめてユニークな研究あるいは啓蒙活動をした人であった。日本のキンゼイとも言われたが、おそらく誰の模倣でもないみごとな業績を上げた人に違いない。

 その朝山氏は、世に朝山節と言われる一種の語り口を持つ人であった。早口で軽妙なことばつきは、時とすると、その語られる内容の重さと不釣合いのようにさえ人に思わせることもあったが、セックスの科学、その教育についての氏の情熱は常にその語り口で示され、やがて聞き手は、そうした表現法こそ氏のことばなのだと信ずるに至る。「さかい(から)」「……や」というようなことばつきが、愛嬌さえあった。

 最近、朝山氏の追悼会が催されて、私もいささか関係があって参加した。生前の氏の活動を伝えるよすがの一つとして、奥様方に子供の性教育をどうするかについて、テレビで講義したのが録画されて、たまたま残っていたのを見ることができた。私も何度か朝山氏と共にテレビに出たことがあって、氏の話し方の特徴は十分心得ているつもりであったが、改めて客観的にその話を聞いてみて、ほんとうに京都弁なのでほとほと感心してしまった。「男ちゅうもんはええかげんなもんや、気イつけなあかん」とまあこのようなしゃべり方で、人生についての大切な問題が次々に話されてゆく。それはあたかも京都弁の勝利と言いたい感があった。おみごとと言いたいところであった。

 朝山氏の優れていたのは、誰に対してもこのようなことば遣いであったということである。その追悼会に出てみて改めて感心したのは、氏のファンが全国にいるということである。東北も中国も名古屋も、そのすべての人に対して、氏はのびのびと朝山節、すなわち、朝山流の京都弁で話しつづけられたに違いない。

 ひるがえって考えてみるのに、関西弁の大好きな私は、もちろん講演は共通語で話さなければならないなどとは、決して思っていない。京都を中心として話すときは、遠慮なく京都ことばをたっぷり入れて話すけれども、たとえば東京の学会で話すときは、その傾向はかなり抑制される。自分で意識してその傾向をひっ込めようとする。それでも私の話は、かなり濃厚な京都ことばが出るそうで、「ぎょうさんあります」などと言って、同じ京都出身の人をして、きゅっきゅっと笑わしめるのである。あるいは、あとの懇親会で、きれいな標準語ではあるが、残念なことにアクセントが京都式ですなどと言われてヽナンデソレガイカンネンなどと心中ではすごんでいるのだが、とにかく表向きはいささか手心を加える。

 と言うのも、あまり京都弁まる出しでやると、人にわからないことがあるのではないかと、おのずと遠慮してしまうものがあるのであろう。私は東北大学に在学中、下宿でいっしょだった洋裁学校ヘ通っていたお嬢さんの家へ遊びに行ったことがある。下宿しているとは言っても、仙台からそう遠くはない、石巻にその人の家はあるのであって、彼女は気軽に日曜ごとに家に帰っていた。そんなとき私は彼女の家を訪ねたのである。

 石巻は情緒のある港町であった。夕方、私たちは砂浜を散歩した。なにしろ海に遠い京都育ちの私にとって、砂浜の散歩というのは、心躍るたのしみだった。暮色遣る浜辺を私はいい気持で歩いた。

 足元を見れば、貝殻がいっぱいである。私はその人に問うた。「ねえ、この貝殻はひとりでにこうなってるの、それとも殻をほかしてあるの」と。その人は実にけげんな表情で、「ほかすってなに」とたずねた。「あれ、この辺では、ほかすとは言わないの」とは、国語学を専攻する志はすでに決めていながら、東北弁についても、京都弁についてさえも、まだ十分に勉強していない間のびのした私のおうむ返しの質問であった。それから問答を重ねて、やっと、東北では、関西の「ほかす」、共通語の「すてる」を、「なげる」ということがわかったのである。もう三〇年よりもっと以前のことなのに、実にあざやかな印象で私はその波打ち際の会話を覚えている。

 そんなこともあって、私は関西人以外の人がやや多い場では、いささか関西弁は遠慮してしまうらしい。同じ関西から同時に入学した人たちと、京都弁や大阪弁でけたたましく「そんなことあらへん なあ、そやしうち言うたんやLなどと話し合っていると、東京や仙台の人たちからは、「へんへんなんてへんなことば」とか、「あなたがた、さかんにしーしーってつけるのねえ」などといささかひやかし気味に言われてみると、どことなく、控えめになってしまうのである。

 さすがに朝山氏はその点そういう「ええかっこしい」ではまったくなかった。おそらくどこの誰に対しても、いつも同じように氏自身のことば、すなわち濃厚な京都弁で話しつづけられたのだ。

 さて、さきの梅棹氏、今西氏、この朝山氏と並べてきて、人はあることに気がつくに違いない。それはこの三人の学問が、きわめて濃厚な個性をもっているということである。その文明論、その研究方法、発想、人がおぼめかしてひそめていたものを、堂々と白昼明らかにして、思いがけない方法でみごとな体系につくり上げてゆく力。それは関西の力とでも言いたいものである。

 ある人が言った(それもさきに述べた京都府庁の人であるが)。「サラ金と言い、ネズミ講と言い、全部西にできてますなあ、悪いことには違いないが、一種の活力の表現みたいなもんですなあ」。そう言われればたしかにそうである。いわば大地に足をふんばって、生きている力をフルに発揮するところに出てくる学問、たくましい現実を構想する力、そんなエネルギーがぎらぎらしている感じがある人たちである。そして桑原武夫氏を加えれば、そうした学問の傾斜するところは明らかである。

私は思う、関西のことばを大切にし、時には第二標準語論にまで発展するくらいの気構えと誇りで勝負するこの人たちは、すなわち、京都弁でものごとを考えている人たちである。絶対に共通語の語り口からは生まれない何ものかがあるではないか。いわば土地のことばによる土着の思想の世界に実ってゆく学問と言ってよいであろう。ほんとうは私もそんな世界にあこがれているのである。

 第二標準語論は、志はまさに壮とすべきではあるが、書きことばの世界をやはり標準語に支配されてしまった以上、なんとも致し方がない面がある。それに反し話しことばの世界では、それはたしかに第二標準語どころか、ある人たちにとっては、もう第一標準語であると言っても過言ではないだろう。そして私は、書きことばの世界では、まさか「そういうことはあらしまへん」とか、「あてはそないなこと考えたことおへん」などとやるわけにはゆかないが、そのかわりに、京都のことばで考えることによって、他のことばで考えたのでは、絶対に構築されなかったような発想やものの考え方がつくり出されたことこそ、第二標準語論以上にすばらしいことであると考える。

 このことはいたずらに京都ことばを自慢するという意味ではない。「学問は共通語、あるいは標準語とかいうものでなくてはできない」といういわば迷信を捨てて、時には自分が所属する地域のことばで考えてこそ、個性ある世界が開けてゆくということをしんそこ考えるのである。日本のようにたのしくゆたかな方言の諸相があるところでは、このことをもっともっと考えるべきではなかろうか。
(寿岳章子著「暮らしの京ことば」朝日新聞 p33-38)

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東京ことばは標準語ではない

 東京語は、いまでは標準語みたいに思われていますが、もとはといえば、東京根生(ねお)いの者たちが日常的にしやべっていたことばということです。

 ですから、「東京方言」「東京弁」といったほうが正しいでしょう。
 「根生い」ということばにしても、地方の人は知らないといいますから、多分、東京語だと思います。根っからのという意味です。つまり代々東京に生まれ育った人間について、こういうのです。
 東京ことばと標準語のちがいとなると、正直いいまして私にはわからないことなのです。

 明治二十年ごろから盛んになる「言文一致」の主張との関連から、話しことばの基準となるものを考えようとする動きが強まってきます。これが標準語、共通語が出来上がる最初だったでしょう。
 新政府は東京を首都としましたから、基準的なことばはどうしても東京を意識せざるを得なかったはずです。京都を首都としたのなら、おおかた京都弁を基準にしたのではないかしら。
 つまり、東京ことばの教養層のものに基準をおきながら、上方のことばの言い方も一方で考慮するという考えだったようです。

 ですから、明治の初めは、武家ことばの、
「〜でござる」
 を用いるべきだとの主張がありましたが、そのうち、
「〜ます」
「〜でござります」
「〜でございます」
 を用いるようになります。さらに、
「〜であります」
 へと変化して、明治三、四十年ごろには国定読本の談話文でも、
「〜ます」
「〜です」
 が主流になります。

 明治時代では、しゃべりことばでも文語調が混じっていましたが、大正五年に国語調査委員会が『口語法』を発表して口語の基準を示しています。これが標準語の基礎になっているのでしょう。

否定された東京ことば

 この『口語法』には「別記」が付随しています。東京訛りについて「そういわないほうがいい」と注意するのです。
 「すりゃあ」→「すれば」というようにです。
 また、地方出身のお役人によって、地名も変えられていくのです。
 秋葉(あきば)神社の火除け地だったので「あきばっぱら」→「あきばのはら」「あきばがはら」。それが「あきはばら」に作り変えられて「あきば様」の由来もへったくれもなくなりました。

 こうやって消えていった東京ことばにどんなものがあるかといいますと、

「おっかない(こわい)」「しみったれ(ケチ)」「しょっぱい(塩辛い)」「うち(家=いえ)」「おしたし(しょうゆ)」「おちょうず(便所)」「おてしょ(小皿)」「おみおつけ(味噌汁)」「なみのはな(塩)」「あたじけない(ケチくさい)」「いぎたない(眠っていてなかなか起きない)」「おしろこ(おしるこ)」「こんちくしょう」「しだらがない(だらしがない)」「祈れ口(葬式)」「ふるしき(ふろしき)」……。

 さらに、下町の職人ことば、商人ことばも消えていきました。「でーく(大工)」「しばち(火鉢)」「めっかる(みつかる)」「まっつぐ(まっすぐ)」などです。

江戸っ子の定義

 開府当時の江戸は、武蔵野の鄙(ひな)びた地域に全国から次々に人々が集まり、巨大化した新興都市の文化といえば、土俗に各地の風俗が入り混じったものでした。それが、十八世紀後半、田沼意次が老中のころから、経済という点でも上方中心から江戸中心となります。

 そうして、江戸固有の文化が花開くのです。
 十九世紀、十返舎一九が『東海道中膝栗毛』を書くのが享和二年(一八〇二)ですから、そのころから江戸の人間たちに江戸っ子意識が強くなります。
 この年、享和二年に生まれるのが、西沢一風です。歌舞伎作者ですが、演劇文献の収集家として名高く、考証に基づいた随筆でもって江戸を知らしめてくれます。
 彼は『皇都午睡』(嘉永三年〈一八五〇〉刊)で、江戸っ子の整理分類を試みます。

 両親共に江戸生まれの子は、。真の江戸っ子へいずれかが江戸生まれでも片方が田舎生まれなら斑っ子=Aいくら江戸で生まれても両親共に地方出身なら田舎っ子≠ニいうべきであると分類し、当時、幕末、黒船がやってきた嘉永頃の江戸町民の比率は、真が一割、斑が三割、田舎が六割だとしています。
 しかもその六割の組が、
 「おらァ江戸子だー といふからはイヤハヤ何とも詞(ことば)なし」と嘆きます。

 また、この時分、地方の離農者が江戸へとどっとやってきました。
 ここが大変重要なのですが、江戸人が他者と接点を持つことになったということです。
 これによって己のアイデンティティみたいなものを自覚するのです。「江戸っ子意識」の芽生え、野暮に対してのイキ、といったことを強く自覚しだします。

 イキは漢字で書くと「粋」になり、「スイ」と訓むと人情、色事に通ずるという意味あいに近づきます。ここで言うイキは「意気」と書いたほうが、意味するところに近くなると思います。「意気地」といいますが、この表現がもっとも近いと思います。

東京ことばの身上は「イキ」

 東京の人間は、江戸者の心意気を受け継いでいますから、彼らが衿持(きょうじ)としていた「イキ」とか「イナセ」とかが、生き方のありようとして最も美しいことだとの信念を抱いているのです。

 でも、自分が本当にイキなのか、イナセなのかは、なかなかもってわからないことです。
 江戸古川柳に、
「お江戸と自分の背中見て死にたい」
 というのがありますが、自分の背中、つまりは自分のことなど誰もわかりゃしないのです。

 物事は比較することによって、対峙するものがあってこそ、そのものが明瞭になってくるのだと思います。
 ですから、自分がイキなのか、どうなのかは、江戸の昔から、江戸に来た地方の人たちによって知らしめられて来たのです。

 ことばに関しても、イキでイナセな東京風な語り口というものがあるのですが、これにしたって、地方の人のしゃべり具合を見て、なるほど我ら江戸者東京者は、いささか早口で、ぽんぽんと歯切れよく、ちょいと鼻っ柱が強くて、それでも爽やかであっさりとした物言いをするな、ふ〜む、これぞ先祖伝来のイキで威勢のいいことばつきってやつだな、と認識するわけです。地方の方、様様なのです。

 では、「イキ」とはどんなことをいうのかといいますと、田沼期のころに、江戸の商業を発展させてきた町人社会と江戸城に勤務する旗本や御家人といった幕臣たちの間で成立した美意識、ということになるでしょう。

 イキであるかどうかは、気質がまずは根本ということになりますが、それに基づいての容姿や身なり、しゃべり方などを問題視します。何よりも洗練されていなくてはなりません。加えてしゃれた色気があることが「イキ」ということです。最もわかりやすく容姿で言いますと「痩せぎす」で「柳腰」「細おもて」などがよしとされます。このことをこと細かく記述したのが九鬼周造『いきの構造』です。

 九鬼周造は、こう言います。「いき」の美意識の重要な要素は三つあると。「媚態」「はり」「垢抜け」です。媚態に関しては難しいことばで解説してくれていますが、要約すると「色っぽさ」ではないかと思います。

 「いき」の基調には、「色っぽさ」が欠かせないということです。
 江戸東京の代表的なイキな女性といえば、菱川師宣の「見返り美人」、喜多川歌麿の「寛政三美人」、そして明治大正なら鏑木清方の「築地明石町」、昭和は伊東深水の「湯気」でしょう。

 「色っぽさ」は女性に限らず、男性にも求められました。イナセな男には、そこはかとなく男の色気が漂っています。もちろん、痩せぎすで面長、苦味走っていなければなりません。
(日本語なるほど塾「林えり子 イキで勝負 東京ことば」日本放送出版会 p16-23)

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わかもの言葉

 あえて苦言を呈す。こう書いても、すぐにわかってくださる読者の年齢はかなり上ということになるだろうか。大学生は「?」と小首をかしげるだろうか。いや、若いひとたちを見くびってはならないという思いもわたしの心にはある。

 いまどきのダメおとなより、いまどきのわかものの感性の方がはるかに柔軟で、開放的であることにふれては、「若さとはいいもの」と痛切に思い知らされることは多い。

 それでもなお、憎まれ口をきくことにしたい。この一年あまり、なるべく電車や地下鉄を利用することにしている。揺られながら聞くともなく聞いていると、こんにちただいま、生きて使われている若い世代の会話が耳に入ってくる。

 あらさがしの気持はない。しかし、かわされる会話のすさまじさに幾度圧倒されたことか。

 底の分厚い靴が、うつむいたわたしの目をとらえる。その顔を見る勇気はない。十代後半と思われる女性たち、学生であることを自然に語っている話の内容。

たとえばこういうやり「きょうの弁当さあ、とっても食えねえってちょう思ったけど、すげえうまかった」
 「ふーん。ちょうすごいじやん」
 だれが作ってもたせた弁当かと思う午後四時すぎの会話だった。
 「けささあ、ちょうすげえおばさんがさあ、ちょう汗かいてぬれたみたいなケツをさあ、こっちにちょうくっつけてくるじやん。あさっからちょういやなすげえ日になった」

 はじめてこういう言葉を聞いたとき、このごろやたらに「超」をつけ、「すげえ」を使い、「じゃん」とおわることをわたしは知らなかった。
 「おばさん」の側に不作法なところがないとは、「おばさん族」に属する年齢のわたしは言わない。
 しかし、古風にいえば、嫁入り前の娘さんが、他人の耳のある場所で「ケツ」などと口にした日がかつてあっただろうか。男の子だって、たしなみのいいひとは、こういう言い方を嫌悪し恥じるのではないかと思う。
 家庭へ帰っていったとき、彼女たちはおなじ言葉を使うのだろうか。
 それを聞いた父や母はなんの注意もしないのだろうか。
 あるいは、友達との会話の場だけに限定して使い、ほかの場面ではきれいにしまいこんでかくしてしまうのか。

 「超」も「すげえ」も「じやん」も、もちろん「ケツ」も、美しい言葉ではないし、効果的な意味をもち得ない。口にする人の人間性を汚す作用しか果さず、しかも一朝一タにはその癖は直らない。
 いずれ就職や結婚の場面に出合う。そのために学校へも通っているはずだ。そのときには「超うまくやるつもり」かも知れないが、わたしが立会人になったら、自由な会話を存分に聞かせてもらう。

 かならず身についている悪癖は出る。言葉に対する感覚がおそろしくにぶくなっているからこそ使えるひどい言葉。それを受けいれた感性は、言葉を切りすてたあとにも意地悪くしっかりとのこる。復讐する。

 気どった会話をすすめる気はない。そしてすべての若い世代が汚染されているとも思わないが、だれに聞かれても顔を赤らめずにすむような、そのひとらしい「自由な言葉」を使う知恵をみがいてほしい。言葉は人格を表すのだ。

 地方のなまりをわたしはなつかしく感じる。そこには、長い歳月、大切につちかわれてきた暮しを連想させるひびきがある。いま、都会のわかものたちをまきこみつつある「超言葉」の破壊性を、親も教育者も、おとなたち一般も、あえてとがめるべきだ。(96・7・14)
(澤地久枝著「私のかかげる小さな旗」講談社文庫 p191-193)

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──いわば土地のことばによる土着の思想の世界に実ってゆく学問と言ってよい……京都のことばで考えることによって、他のことばで考えたのでは、絶対に構築されなかったような発想やものの考え方がつくり出されたこと──

──イキであるかどうかは、気質がまずは根本……

──言葉に対する感覚がおそろしくにぶくなっているからこそ使えるひどい言葉。それを受けいれた感性は、言葉を切りすてたあとにも意地悪くしっかりとのこる。
復讐する。