学習通信05111213 合併号
◎温度の性質をきめる「いとぐち」……
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4〔供給と需要〕
わが友ウェストン君は、「反復は学習の母である」repetitio estmater studiorumというラテン語の諺を信奉している。だから彼は、自分の最初のドグマを、賃金引上げの結果生じる通貨の逼迫は資本の減少をまねくであろうなどという新たな形式のもとに、ふたたび反復したのである。私は、通貨にかんする彼の奇妙な考えについてはすでにかたづけたから、彼が通貨にかんする彼の想像上の不祥事から生じると思いこんでいる想像上の諸結果にたちいることは、まったく無用であると考える。私は、さっそく、こんなにも多くのちがったかたちをとってくりかえされた一つの同じドグマを、そのもっとも簡単な理論的形式にまとめることに進もう。
彼がいかに無批判な仕方で彼の主題をとりあつかったかは、ほんの一言指摘すれば明らかになろう。彼は賃金の引上げにたいして、または賃金引上げの結果としての高賃金にたいして、抗議する。では、彼に聞こう。高賃金とはなにか? また低賃金とはなにか? と。
たとえば、なぜ週五シリングでは低賃金となり、週二〇シリングでは高賃金となるのか? 五が二〇にくらべて低いなら、二〇は二〇〇にくらべるとなおさら低い。もし人が寒暖計について講義しようとして、いきなり温度の高い低いについて話しはじめるならば、彼はなんの知識もさずけはしないであろう。
彼は、まずはじめに、氷点の見つけかた、沸点の見つけかた、またこれらの基準点が、寒暖計の販売者や製造業者の気まぐれによってではなく、自然法則によってきめられるしだいを私に話すべきである。
さて、賃金と利潤については、ウェストン君は、こうした基準点を経済法則からみちびきだすことができなかったばかりか、基準点をさがす必要さえ感じなかった。彼は、高い低いという通俗的な用語を、なにか定まった意味をもつものとしてうけいれることで満足したが、しかし言うまでもなく、賃金はその大きさを測定する一つの基準と比較してはじめて、高いとか低いとか言えるものである。
彼は、なぜ一定量の労働にたいして一定額の貨幣があたえられるかを、私に話すことはできないであろう。もし彼が、「それは需要供給の法則によって決定される」と私に答えるならば、私は彼にまずなによりも、需要供給そのものはどんな法則によって規制されるのか? とたずねよう。それだけでただちに、こんな答えをする彼は相手にされないことになろう。
労働の需要と供給との関係はたえず変動し、それとともに労働の市場価格もたえず変動する。需要が供給をこえれば賃金は上がり、供給が需要をこえれば賃金は下がる。もっとも、そういう事情のもとでは、需要供給の現実の状態を、たとえばストライキまたはなんらかの他の方法でためす必要があるかもしれない。
しかし、もし諸君が需要と供給をもって賃金を規制する法則と認めるならば、賃金の引上げに反対するのは、無益であるとともに児戯に類することであろう。というのは、諸君のうったえるこの至上法則によれば、賃金が周期的に上がることは、賃金が周期的に下がることとまったく同じように、必然的であり、合法則的なことだからである。
もし諸君が需要供給をもって賃金を規制する法則と認めないのであれば、私は、なぜ一定量の労働にたいして一定額の貨幣があたえられるのか? という質問をふたたびくりかえすであろう。
しかし間題をもっと広く考えると、労働にせよ他のどんな商品にせよ、それの価値は結局のところ需要供給によって決定されると考えるのは、まったく誤りであろう。需要供給は、ただ、市場価格の一時的な変動を規制するだけである。需要供給は、ある商品の市場価格がなぜその価値以上に上がったり価値以下に下がったりするかを諸君に説明するであろうが、この価値そのものを説明することはけっしてできない。
いま需要と供給とが均衡するものと、あるいは経済学たちが言うように、相殺しあうものと仮定しよう。もちろん、これらの対立する力がひとしくなるその瞬間に、これらの力はたがいに無力にしあい、どちらの方向にも作用しなくなる。需要と供給とがたがいに均衡し、したがって作用しなくなる瞬間に、商品の市場価格はそれの真実価値と、すなわちその市場価格がそれをめぐって振動する標準価格と、一致する。
だから、この価値の性質を研究するにあたっては、市場価格に及ぼす需要供給の一時的な影響は、われわれにはまったくなんの用もないことである。同じことは、賃金についても、他のすべての商品の価格についても、あてはまる。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p116-119)
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賃金の決まり方
以上は、企業側から見た雇用量の決定の仕方でした。図7−1のMPL線は労働に対する企業の需要曲線だと考えることができます。
今度は、供給曲線を考えればよいのです。労働を供給するのは私たちです。さて、私たちは賃金が高くなればもっと働こうと思うでしょうか?
たとえば、時給1000円のバイトだとその気になれないけれど、時給1500円なら喜んでやるでしょうか? 多くの人の答えは「yes」だろうと思います。もしそうだとしたら、労働の供給曲線は右の図7−2のSS線のように右上がりになります。賃金が高ければ高いほど、労働供給の意欲が高まるというわけです。
この図の中に、図7−1のMPL線をそっくりそのまま書き入れたのが右下がりの労働に対する需要曲線DDです。賃金がOAの高さのとき、労働に対する需要と供給がちょうど一致しています。つまり、OAという賃金で働きたいという人の数と、OAという賃金で企業が雇いたいと考えている人数が一致しています。従って、E点が均衡点ということになります。このとき、「非自発的」失業者はゼロです。非自発的な失業者とは、現行の賃金水準で働いてもよいと考える人で、職に就けない人のことを言います。
上の図7−2ではOAという賃金水準で働きたいと思っている人はすべて職に就けますから、非自発的失業は存在しません。もちろん、現行の賃金水準では働きたくない、そんな安い賃金なら遊んでいたい、という人も大勢いるわけです(N点より右側の人たち)が、この人たちはいわば「自発的に」自らの意思で職に就かないことを選択しているわけで、この人たちのことを「自発的失業者」とよんでいます。
しかし、問題なのは「非自発的失業」ですね? なぜなら、現行の賃金で働きたいと思っているのに働きロが見つからないのですから。それはどんなときに発生するかというと、賃金が高すぎる場合です。図7−2で賃金が何らかの理由でOBの水準にあったとしましょう。このとき、働きたいと思っている人(求職者)のほうが、企業が雇いたいと思っている人数を大きく上回っており、非自発的失業者が多数出ることになります。
こういった失業問題をどうするかという点に関しては、第9章で詳しく論じます。ただし、労働市場がうまく機能している場合には、このような非自発的失業が大量に発生している状況は長つづきしないはずです。なぜなら、失業している人のなかに、OBよりも低い賃金で働いてもよいという人が大勢いるからです。企業が「OBよりも少し低い賃金を支払うつもりがあるが、就職したい人はいますか」とささやけば、多くの人がその職に応募するでしょう。労働サービスもほかの商品と同じで供給過剰の状態にあるときは値段(賃金)が下がると考えれば、結局、賃金はOAの水準にまで下がってきます。その結果、非自発的失業者はいなくなります(ただし、労働市場においてはそうなることをいつも期待するわけにはいきません。この問題は第9章の課題です)。
結局、賃金は労働の需要と供給が一致する水準(図ではOA)で決定されるということになります。E点では、労働者は彼自身がつくり出すことができる価値(労働の限界生産物)に等しい賃金を受け取るということがわかりました。
もちろん、労働の質がちがう人たちについては、別のグラフが必要です。図7−2は、あくまで同じ能力をもった人たちを対象に雇用量や賃金がどう決まるかを示しているわけです。
繰り返しになりますが、労働の限界生産物の大きさは、それぞれの人の能力によります。大きな価値を生み出す人にはそれに応じた所得が支払われ、小さな価値しかつくり出せない人の賃金は低くなります。
(中谷巌著「痛快 経済学」集英社文庫 p158-160)
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竹中 そうですね。もちろん付加的にエネルギーや技術のことを考えたりすることもできますが、価値を生み出す根本はやはり資本と労働ですよね。そうなると、この労働力の価値を少しでも高めるためにはどうすればいいかということが一つのポイントになります。いろんなことを知ってる人と、何も知らない人がいたら、いろんなことを知ってる人の方が高い価値を生み出せるわけですね。ですから教育は労働力の価値を高める重要な要因になる。
次に、仕事に対する「向き不向き」というのがあるでしょう。その判定をするのは誰かというとマーケットです。いくら私が佐藤さんみたいにテレビのコマーシャルを作りたいと言っても、私じゃロクなものが作れないでしょうし、誰も仕事の注文なんかしてくれませんよね。有能な人に対しては高い対価を支払う。そこで有能な人が集まってくる。能力が低い人には低い対価しか支払わなければ、それぞれに一番適した道を選んでいくだろうということになりますよね。
労働力をどのように配合するかということを「労働力のアロヶケーション」とか「配置」と言います。労働力の価値をいかに高めるか、というのが教育ということになりますね。この教育にも、学校での教育もあれば、たとえば研修のような会社の中での教育もあります。そしてアウトプットを増やすために次に重要な問題は、どうやって一生懸命働かせるかですよね。それが賃金です。人間、お金のためだけに働くのではないというのもよくわかりますが、それでも賃金は大きな影響を及ぼしてますよね。
もし「あと一分間働いたら、一億円やる」と言われたら私は絶対働きます。もうクタクタで疲れていようが何であろうが、絶対働く。でも「一円」じゃあ働かないですよね。そうすると「賃金」とどれだけ働くかという「労働の供給」の間には密接な関係があるということが言えますね。たとえばどこかの主婦がいて、時給百万円の仕事があったら、旦那さんの食事なんか作らないでたぶん百万円のために働きにいくでしょう。しかし時給一円なら「家で子供の食事でも作ってるわ」ということになります。どこかに働く働かないの区別、線引きのようなものがあるわけですね。
(佐藤雅彦・竹中平蔵「経済ってそういうことだったのか会議」日本経済新聞社 p308-309)
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温度というもの
私たちは「きょうはたいへん暑い」とか「この水はとても冷たい」とかいう.このような「あついあたたかい・ぬるい・すずしい・さむい・つめたい」などということばは,私たちのヒフがものや空気にふれて感じる一種の感覚の程度をいいあらわしていることばなのである.
しかし私たちは,物体にふれて感じるものを,ただ感覚だけとは考えない.この感覚をおこす原因になるものが,その物体自身のほうにあるにちがいないと考える.もし私たちに感覚がうしなわれても,それにそうとうする「物体の或る状態」が存在するにちがいないと考えている.
熱い冷たいという感じには,いろいろの程度があって,その中間の「ぬるい」などということばもあるが,私たちには,このことはではいいあらわせない,もっとこまかい一つづきの段階があることがわかっている.それを示すためにはどうしても数量的なあらわしかたをしなければならない.それが温度である.いいかえれば,温度というのは人間の感覚にそうとうした、物体の或る一種の状態をあらわす度合いである.
しかし人間の感覚というのは,この温度の性質をきめる「いとぐち」になるだけで,けっしてそれを正確にきめる「めやす」になるものではない.第一に人の感じはとてもまちがいやすい、たとえば,右手を熱い湯に入れておき,左手を冷たい水に入れておいてから,両手をぬるい湯に入れてみると,右手はつめたいと感じ,左手はあたたかいと感ずる.
そこで物体のこの状態を,人間の感覚とはまったくはなれて,物体自身の変化によってあらわすことにしたい.熱いときと冷たいときとで物体の状態の変化が目にみえてくるものとしては,たとえば物体の体積の変化や,電気抵抗の変化など,そのほかのものがある.私たちは昔から,いちばんかんたんに物体の「のびちぢみ」を利用して,温度をきめることにしてきた.こうしてこの変化を目盛りでもってすぐみられるようにくふうした装置がいわゆる温度計といわれるものである.
(「KAGAKU no ZITEN」岩波書店 p964)
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◎「基準点を経済法則からみちびきだすことができなかったばかりか、基準点をさがす必要さえ……。彼は、高い低いという通俗的な用語を、なにか定まった意味をもつものとしてうけいれることで満足したが、しかし言うまでもなく、賃金はその大きさを測定する一つの基準と比較してはじめて、高いとか低いとか言えるものである」と。