学習通信051110
◎よく要約された人生の道具……
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一九四四年七月五日
駒込林町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛
七月と日づけを書き、ぼんやりした愕きを感じます、もう七月とは、と。今年の早さは、早さというよりも遂しさであると思われます。時の迅さに、人間の足幅が追いつかず、工合わるくエスカレーターに乗りでもしたように、とかく重心がのこって、足をさらわれ勝の生活ね。去年の七月初旬は、まだやっとのろのろ歩き、妙な出勤をやっていて疲労し切って居りました。ことしは、其でもこうやってモンペはいて、警報の準備もし、にしんを煮ている間に手紙もかきます。
おなか、いかがでしょうか。なかなかどこでも困ります。今鳩ぽっぼと共同食料のように豆入り飯ですが、こまるのは、消化がよくないという外に、くされやすく、今のように一晩経なければならないと、涼しくしておいても「ひる」はピンチになってしまいます。堅固なパンでも欲しいことね、近代武器に対処するにふさわしいような。呉々お大事に。シャボン、使いかけですが御免なさい。唯一の貴重品でした。夏のあつさ考え、なしでおすましになることはよくないと思って居りました。これからも仰言って下さい。何とかします。あなたを、丈夫な大事ないい布地と思いなして、浴用がなければ洗濯シャボンさし上げましょう。なまじっかの化粧用より万一、もとのがあれば、その方が本来の性質と用途に添ったものですから。シャボンよ、シャボン、こまかい泡をきれいに立てて疲れをそっくりもって行け、よ。
きのうお話した森長さんからのことづて。全く全く、というところですね。あの人がああというのではなく、誰も彼も。そして、こうも思いました。わたしが小説をかくということは、これでどうして大したことなのだ、と。
テーマのない小説というものはないでしょう(かりにも小説と言えるものであるなら)テーマはいつも核をもっています。其こそ大事で、万事のうちにテーマとその核とを把握するということ、直感的に把握するということ、更に其を科学的探究で整理し、核がもつ本質を明瞭にしてゆこうとする情熱をもっていること、これは芸術的と言うべきなのね。人生そのものへのくい入りかたの意味で、まさに芸術的なのね。
一本人生のテーマが通っていて、それを生涯を通じて完成してゆこうとする人生態度の芸術性こそ、トルストイの知らなかった人生派の芸術だと面白く思います。芸術のきわまるところ、即ち生活そのものの創造的意義だということは実に面白いわ。シーザーは、いろんな占いをやって、おっしゃるように勇邁に其を解釈したのでしょうが、そういう占は見えなかったのかしら。シーザーなんかについて余り存じませず、しかしこれ丈は記億にのこっています。シーザーは細君をいましめて、「シーザーの妻は、あらゆるときにシーザーの妻として振舞わなければいけない」と申しました由。これは当時横行したワイロについて、それを受領するな、ということだったのよ。
ブルタークはかいて居りませんか? ナポレオンは気の毒な良人で、ジョセフィーヌには、えらい思いさせられつづけたのですって。例のフーシエね、ああいう奴やナポレオンの弟の不平組と徒党をくんで、偉大な人の苦痛や面目の傷けられることばかりやったのですって。人間の心の中に、そういう試みる悪意があるのね。神を試みる勿れ、とは苦労人の言葉です。
ユダだって、人類的恥辱の裡にありますが、火切りが面白いより、ひっくりかえしてみて、猶イエスは本当に死なない命をもっているのか、それを見たかった悪魔ね。近代人が、フーシエはじめポベドノフツェフの流の破廉恥を常習とするのは、いくらか違って、悲劇とすれば、アーサー王伝説中のゴネリアの物語みたいなものね。シェクスピアはそれからリア王をかき、コルデリアを描いたようなもので。もとね。プルタークについてはほんとうにそうだと思いました。
人生経験というものは大したものね。そして、そういうものが読者に加るにつれて、一層味い深く読まれるというところに、作家というものの意味のふかさがあり、勉強のしどころがあります。大人の文学、というものは、房雄先生の定義するところより遥か遠い、質のちがったものです。俗人らしい厚顔さをますことではないわ。俗説をあれこれかき集めるのでないわ。
こうやって、暮していて、猶々仕事とは何か、ということについて会得いたします、そして、新鮮な情熱を覚えます。自分の人生が要約されてあることに歓喜を覚えます。仕事と妻の心と、主流は絢い合わされた只一筋のそれだけだというところは何と愉快でしょうね。この要約の豊富性については、よく表現しつくせない位のものね。芭蕉は一笠の境界ということを理想にしましたが、現代史の波瀾重畳の間で、よく要約された人生の道具をもって生きられるとしたらそれこそ人間万歳です。
その至宝のような単純さ、明瞭さの殆ど古典的な美しさの中に、鏤(ちり)ばめられて燦く明月の詩や泉の二重唱の雄渾なリズムは、どう言ったら、それを語りつくしたい自分が堪能するでしょう。こういうおどろくべき単純さと複雑さとの調和が、可能なのか、何かの意味で日本的だというのならば、日本の世界的な水準というものも納得されるようです。
すこしきりつめた言いかたをすれば、現在のように今夜の自分の生命について信じず、ましてや数ヶ月後の其について信じず、しかも人問の未来の輝やかしさについて益々深く信じたこころをもって、こうやって書いていると、いのちへの愛が凝集して叫びたくなるようね。
こういう感動の鮮やかな深さは、もしかしたら、今度は神経の負担が少いからかもしれません。珍しく国が居ります、そして珍しく本気で協力して居ります。わたしはうれしいの。わたしが余りよろこぶものだから国もうれしいところがあるらしくて、さきほど事務所へ出かけるとき「じゃ、なるたけ早くかえりますから。我慢していてね」と言って出て行きました。こんな言葉は、やさしい言葉よ。ね、だのに、この人ったら、浴衣の汗の口なんですもの、風向き一転するや、忽ち端倪すべからざる変化を示します。
わたしのような人間には、信じないで信じている、というような芸当はむずかしいのに。姉弟ですからどうにかもってはゆくけれども。
暗くならないうちに御飯たいておかないといけないのよ。ですからここまで。あしたもきっと書けそうね、今夜無事ならば。ゆうべ安眠出来たということのかげに、犠牲の大さを感じて粛然たるものがあります。ではね。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p92-94)
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これから述べてゆくことは、そのことにかかわっています。元来、民青新聞の企画は、「科学的社会主義セミナー」の一環として、「現在を生きるものの見方・考え方」についてあきらかにしたい、という性質のものでした。ここで一言のべておきたいのは、「ものの見方・考え方」ということについてです。「天災」という落語があります。道を歩いていると水をぶっかけられる。おこっていると、それは他人から水をかけられたと思うからだ。天から雨がふってきたと思えばあきらめもつく、とさとされる。
なるほどそうか、と思うという話ですが、これも、ものの見方・考え方の一つのあり方を示しています。なるほど、そう思えば腹も立たず、周囲は無事におさまり、波風は立ちません。しかし、そう思ったからといって事態が変わるわけではありません。解釈がかわるだけです。物事は無事におさまりますが、だからといって、そのようなことがなくなるわけでもありません。道で水をかけられる程度のことはこれでもおさまり、その人はおこりっぽくなくなるという効果もあるかもしれません。
しかし、その程度のことではなく、もっと大きな被害が出た場合、「天災」といって済ませるわけにはいきません。悪いことをした者に対しては、正当ないかりを感じ、この事態を正そうというのが当然のことでしょう。そうすると、「ものの見方・考え方」というのは、ただ、ものをどう見るか、にとどまるのではなく、事実を正しくつかむ、ということとつながらざるをえません。これから私がのべていくことは、ものをどう見るか、ということにとどまるのではなく、どうすれば正しい事物の認識ができるのか、どうすればあやまりを正すことができるのか、ということにもつながります。「ものの見方・考え方」をそのように考えていただきたいと思います。
以下の文章は、若い人向き、ということでたのまれたものですが、とくに若い人の気分や行動にあわせるということをしませんでした。いま、若い人たちの気持ちがわからない、ということがよくいわれます。たしかにそのような面があります。しかし、考えてみると、若い人たちの考えや行動は、現実の政治や社会の反映でもあります。いわば、壮年、老年の私たちの作った政治・社会に対する反応でもあるわけです。したがって、若い人たちの混迷はそのまま政治・社会への不信とつながります。したがって、現在の政治・社会のあり方をよく見てゆくことが、同時に、若い人たちの考え方の発展にもつながる、私はそう思います。
(関幸夫著「個性的に自由に生きるとは」新日本出版社 p8-10)
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科学的社会主義のものの見方・考え方というものは、私たちの活動の基礎でもあり、いろいろなものごとを考える根本でもあるわけですから、それを本当の意味で身につけるには、不断の勉強が必要です。その勉強には、本を読むこともあれば、実際の活動もあり、その活動を分析し、考えをめぐらすこともある。はっきり言えば、自分の生涯にわたって勉強を積みあげてゆくもの、きたえてゆくものだ、そういうつもりで取り組んでほしい、と思います。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p11-12)
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◎「すこしきりつめた言いかたをすれば、現在のように今夜の自分の生命について信じず、ましてや数ヶ月後の其について信じず、しかも人問の未来の輝やかしさについて益々深く信じたこころをもって、こうやって書いていると、いのちへの愛が凝集して叫びたくなる」と。
学習通信051011 も重ねて深めてください。