学習通信051107
◎人間の内奥にひそむ……

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一九四四年四月一六日
 駒込林町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛

 きようはいかにも若芽の育つ日の光りです。咲が帰って来て殆ど一週問わたしは公休でしたから疲れもやっときのうあたりからぬけて、きようはげにもよい心持です。久しい久しい間こんなに暢やかで、しずかで、愉しい気持ございませんでした。

 きようはね、一日ゆっくり二人遊びで暮せるのよ。素晴らしいでしょう。あっち二人は国府津の家を人に貨すについてとり片づけに出かけました。月曜の夜かえるでしょう。うちにはわたし達、あなたとわたし丈なの。それにわたしの疲れは休まっているのですもの。七時頃いい心持で眼がさめて、お喋りや朝のあいさつをして、なかなかあなたの御機嫌も上々のようよ。

 すこし床の中にころころしていて、それから降りて来て珍しく紅茶とパンとをたべました。パンがやっと配給になりましたから。但しお砂糖はこれ迄〇・六斤のところ又〇・一斤減るそうで、決して安心してサジにすくえません。でもきょうは、こんなにうれしい日なのですもの、いいわと自分に云ってお茶をのみました。

 庭へ出て、今ボケが咲いている、それを剪って来て小さな壷にさしてテーブルの上において、その花の下蔭というような工合でこれを書きはじめて居ります。

 食堂にいるの。大きいテーブル、長さたっぷり一間ほどのテーブルですが、その長い方にかけていると、左右に十分翼があるので大変工合ようございます。いろいろの人がこの位の大長テーブルで仕事したのがわかります。ペシコフもこの位の机よ。この位いの机をつかったのがトルストイやペシコフで、チェホフのヤルタの書斎にあった机はもっと小さかったのも、何かその人々の特徴があるようで面白うございます。白と藍の縞のテーブルかけがかけてあるので、ボケの花の薄紅やみどりの葉の絹かさもよくうつります。

 十日のお手紙ありがとう。あのお手紙のかきぶりを大変心にくく思いました。ああいう風に慰めるものなのね。そしてそれは本当に与える慰安であって、愚痴のつれびきでないというところを感服し、一層なぐさめられました。十日のお手紙の調子全体は、ブランカのいろいろをすっかりわかっていて、その上で一寸こっち見て御覧という風でした。なんなの、と見て、おやと思って、眺望の窓と一緒に心の窓もおいたようになって来る、そういうききめがありました。(中略)わたしは二十年以上もこんな気分の、不安定な家族の中で暮したことがなかったから、出直り新参です。新しくやり直しというところね。しかも私の条件が変って居りますからね、お客に来ているのではないから、ね。

 火曜日にはすこしのんびりした顔つきを御覧に入れられると思います。
 わたしの畑のホーレン草は、さっき花を剪りに行ったとき見たら、ほんの毛のような青いものが見えました、あれが芽でしょうか。心細いがでも生えるでしょう、一年めは駄目の由です、肥料をよく注意しましょう。ここでも、あっちこっちにつくると結構出来そうです。うちに子供たちがいなくなりましたから犬やこんな畑や気持の転換になります。龍の小鳥はどうしても苦手よ。囀る声はこんな天気の日の外気の中にきくのはわるくありませんけれど、それよりも時々山鳩や赤腹や野鳥が来ます百舌鳥も。その力が林町らしくて面白うございます。

そうそうこのお盆に南瓜の種が五粒あります、これは隣組配給よきっと。この週は南瓜週間なのですって。週聞の推移様々なりと思います。わたしは南瓜をすきと云えません、けれどもことしはちゃんと植えます、前大戦のドイツはインフレーション飢饉で二十万死亡しました、それは御免ですから。このあたりの隣組は全くわが家専一で、家の中のカラクリは垣根一つこちらからタンゲイすることは不可能です。したがって飢じい思いをしたり、ひからびたりするのはお宅の能なしということなのよ。

凄いでしょう? 飛び散ってしまえばそれまでながら、さもなければ、私はまだまだ小説を書かなくてはならないのだから、南瓜でも豆でも植える決心です。それでも、こんなものはかよわいものですものね、ドシャンバタバタの下に入って、猶も青々しているなんて芸当は出来ません。そう思うと、土の中に埋めるものはノアの箱舟のようになります。ノアはあらゆる家畜一番いずつと入れたが、日本のブランカは、焦土に蒔く種も一袋という風に。やけ土はアルカリが多くなってよく出来るかもしれないことよ、但し蒔く人間がのこればの話。

 天気がうららかとなって、一つなやみが出来ました、まだ眩しいのです。光線よけをかけなくてはなりそうもないの、痛い位だから。傘もささないと苦しいし。駄目ですね、キラキラした初夏の大好きな美しさにあんな眼鏡かけるなんて、しゃくの極みです。あの眼鏡ごらんになったわね。嫌いでしょう? 眼のニュアンスは眼鏡かけているだけでさえ損われている上にね。(略)

 この間護国寺のよこの、いつも時局特報買っている店でヴェラスケスを見つけました。ヴェラスケスの自画像があってね、それはゴヤのあの畏怖を感じる傑作な爺ぶりでもなければ、セザンヌのおそろしい意欲でもないしレンブラントの聖なる鎖濁の老年でもなく、いかにもおとなしくじっと見てふっくり而もおどろくべき色調の画家らしい自画像です。

 ヴェラスケスの絵はたのしい絵ですが、ウムと思うのはゴヤです。ゴヤはヴェラスケスが描いたフィリップ四世のデカダンスの後をうけて全く崩壊したスペインに、愛着と憤怒とをもって作品をのこした画家で、あの時代として男の中の男というような男ね。淋漓(りんり)というようなところがあります。声の響のつよさがわかるような、面白くねえという顔した胸をはだけた爺よ。それであの優婉なマヤ(覚えていらっしゃるかしら、白い着衣で長く垂れた黒い髪した顔の小さい女が、ディヴァンにのびのびとして顔をこっちに向け、賢くておきゃんで皮肉で情の深い顔しているの)を描くのですものね。ヴェラスケスはセザンヌとちがうが純絵画的な画家ね。

ゴヤはちがいます。ゴヤは表現の欲望そのものが、生に人生をわしづかみにして来てしまうたちの男ね。描く女も従ってちがうわ。ゴヤの女はどれも女の肉体に衣服を着て、その肉体はいいこと、わるいこと、ずるいこと、うそさえ知っていて、しっかり大胆にタンカも切って世をわたっている人たちです。大公爵夫人にしても、よ。ゴヤの女たちが、みんなしなをしていなくて、二つの足を優美ながらすこし開いて立っているのは、何か人生ヘの立ちかたを語って居ります。ヴェラスケスやヴァン・ダイクは衣服の華美さを、絵画的興味で扱っていて、人間が着ていて、裸になったって俺は俺というゴヤ風のところはなく、顔と衣服とは渾然一つの絵をなして居ります。小説家はゴヤに鞭を感じます。

 こんなに色刷の貧弱な絵の本ももうこれからは何年か出ますまい。そう思うと十年以上前に大トランク一つ売った絵を思い出します。パリで妙ななりをしていても、これ丈は、と買ったのですが。惜しいのではなくよ、どこの誰がもっているやら、と。いずれそれは日本の中にあるのだから、わたしも日本の美術のために数百円は寄与したわけです。マチス素描集なんかがどこかでヘボ野郎の種本になっていたりしたら笑止ね。

 ああああ、どうしても歯医者へ行かなくてはならなくなりました、上歯の妙なところに穴がポッカリあいてしまったわ。
 歯医者へゆくとわたしは全くいじらしくおとなしいのよ。眼医者へゆくとしおらしく不安なのよ。歯医者は、肴町の近くのところへゆきます。メタボリンが岩本さんにも手に入らなくなっている由、「万難を排して」買って下さる由、県視学となって下関へゆくそうです、頂上の立身でしょう。下関とはしかしこわいところね。お祝いを言ってあげなくては、ね。豚娘(!)さんが赤ちゃん生んだそうです。女の子をこう謙遜して言われると笑い出してしまいます、西郷南洲を見込んで好いた女は豚姫といったのですって。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 下」筑摩書房 p76-79)

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 ところで、以上のように十八世紀から十九世紀初頭にかけて崇高と優美とが、互に対立的な性格を持つものとして、それぞれが美の範疇として位置づけられたのであるが、十九世紀には、崇高と優美といった二つの美的範疇だけでは捉えることのできない現象が現れるに至った。というのは、従来ヨーロッパ世界の人たちにとっては全く未知のものであった原始美術、あるいは古代エジプト美術などの出現である。更には東洋美術への開眼である。これら原始美術、古代エジプト美術、東洋美術などは、いわゆる崇高とか優美といった美的範躊では、到底その全ぼうを理解することができない美の世界であった。

また近代美術、特にバロック、自然主義の美術にみられるように、十六世紀クラシックの画家たちとは異って、バロック、自然主義の画家たちは優雅な主題をとりあげるよりも、日常的には余り美しいとはいえない、むしろ醜悪といった方がふさわしい主題をとりあげるようになってきた。醜があたかも一つの美的範疇としての権利を持ちはじめるのである。このことは先に述べたゴヤの例が典型的なものである。

周知のごとく、ゴヤは当時の貴族や庶民たちがかもしだす楽しい雰囲気を描いているが、その点ではロココの画家ともいわれているが、他方では、ベラスケスの写実主義的伝統をひきつぐリアリズムの画家としての一面を持っていたのである。この系統に属するのが『わが子を食うサトゥルヌス』であり、『魔女の安息日』といった作品である。前者ではギリシアのクロノスと同一物といわれるサトゥルヌスは、父の天空神ウラノスを襲って天空の支配権を手にしたが、父のウラノスと母のガイアの予言によって、やがてその天空の支配権を自分の子供たちに奪われることを知り、妻のレアとの間に生まれた五人の子供たちをつぎつぎと食い殺していったという話を主題としながら、ゴヤはそこに近代的な新しい人間像を描こうとしたのである。

そこに描かれているサトゥルヌスはグロテスクで醜悪な表情をもって観る者に迫ってくる。このグロテスクで醜悪な表情は、単にサトゥルヌスの表情というよりも人間の内奥にひそむ醜悪さ、残酷さの表現といった方がふさわしいほどの新鮮な迫力で描かれている。また『魔女の安息日』では、ほとんど白と黒に限られたわずかの色彩で、無数の魔女たちが悪霊の象徴である牡山羊を取り巻いている。その魔女たちの表情の醜悪さは、とてもこの世のものとは思われない恐しさを感じさせる。

 ゴヤはこれらの一連の作品において、当時の古典主義の画家たちが求めた美とは、全く対立する醜悪なものを作品の主題として、きわめて迫力のある描写をしているのである。従来の画家たちは、このような醜悪なもの、グロテスクなものを絵画の主題にとりあげることはほとんどなかったが、ゴヤはあえてこのような主題を絵画の重要な主題としてとりあげたのである。まさにこのことは全く新しい美的範疇の誕生といわなければならない。そこであらたに十九世紀後半から、従来の優美と崇高とだけを美的範疇と考えるのではなく、その中に悲壮、滑稽、醜といった範疇が加えられるようになってきたのである。そして優美に対して崇高、悲壮、滑稽、醜といった範疇を包括的に性格的なものとして、フォルケルトなどは捉えようとするのである。

フォルケルトは日常的な意味での美、つまり優美を美成るものとし、崇高、悲壮、滑稽、醜などを包括的に性格的なるものとし、この両者を綜合するものとして美的なものを考えている。それ故、美なるものは美的なものの一範疇にすぎない。この美なるものは感覚形式が有機的統一になんの障害もなく適応し、純粋な快感を生ずるが、性格的なものは感覚形式が有機的統一に一度は障害をきたすが、再度、有機的統一を示し快感を生ずるものである。それ故、美なるものがもたらす快感情は純粋な感情であるが、性格的なものがもたらす快感情は不快を通した快という独特の快・不快の混合感情であるところに、両者の相違がある。
(金田民夫著「美と藝術への序章」法律文化社 33-36)

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肖像画について
 ──ファン・アイクをめぐって──

 近代的な肖像画の歴史は、十五世紀のはじめに、フランドル、もっと詳しくいえば、多分ブリュージュではじまった。ファン・アイクの兄弟、フーベルトとヤンがそこで活動していたからである。

 伝説によれば、彼らは肖像画ばかりでなく、一般に油絵そのものを発明したという。この話はあまり正確ではない。油絵具が、もっとまえからイタリアで知られていたらしいということは、専門家の問では常識である。しかし伝説の表現が誇張を含んでいるとしても、その趣旨はある意味で正確だろう。ファン・アイクの兄弟は、油絵具を発明したわけではなかった。しかし、たとえばアンリ・フオションもかいている。「油を組織的に利用して、絵の材料に透明さと光沢とをあたえ、その後の絵画にとってかけ代えのない長所をつくりだしたのは、フランドルの画工、殊にファン・アイクであった」と。近代絵画はそこにはじまる。

──そして一度はじまると、ティツィアーノとセザンヌとを通って、ピカソに到るであろうことは、周知のとおりだ。透明さと光沢とでは話がすまなくなる。画面に布切れをはりつけてみた後で(ビザチンや日本ではもう少し上等なものをはりつけていたが)、遂に画布の上に砂をまいたり、画面を金具で引掻いたりしなければならない仕儀にまでたち到るだろう。画家が希望にみちて油絵具のなかに眠っている可能性をよびさまそうとした時代は、遠い昔のことである。

彼らが描くべきものを自己の周囲に見いだし、描くという行為の意味に確信をもっていた時代も、あらゆる時代が終らなければならないように、多分今終ろうとしているのだ。フレスコは昔聖母を描いた。油絵は人問を描いた。しかし画題は人間から、りんごに移り、りんごから画家の感情に移った。感情には形がなく、個性しかないということが、現代芸術の間題の一切をしめくくる要点であるかもしれない。たとえば精神薄弱の児童の絵が流行し、それこそ全く当然だということになる。人間の筋肉を正確に描くことでは、なるほど精神薄弱の児童はリオナルドに及ばない。しかし個性にかけては、──誰が知ろう?

 しかしこれは多分議論のむずかしいところだ。単なる美術愛好者である私の手にはあまるだろう。私は事の詳細を博学有能な現代の美術批評家に任せ、振り出しへもどる。西ヨーロッパの肖像画の栄枯盛衰は、ふり返って眺めるのに、かぎりなくおもしろい題目の一つだ。

 ファン・アイクと共に十五世紀の前半のフランドルで肖像画がはじまる。そのとき肖像画とは、ある特定の人物、もはや聖母でも天使でもない地上の特定の個人の、特定の瞬間の表情を正確に画面に捉える仕事であった。そうすることで、その人物のその瞬間の気持をよびさまし、さらにその瞬間を超えて性格や経歴や習癖の全体までも暗示する。つまり、一人の人間の存在そのものを造型的な手段によって集中的に表現しようという興味津々たる事業であった。

そもそも人間なるものが、当時、津々たる興味の対象であった。ふり返って分析的にみれば、そういえる。しかし両家の側で、また当時の見物人、また絵の註文の側で、そういうことにどれほど意識的であったかは疑わしい。ファン・アイクは独立した肖像画もいくつかこしらえたが、総じて十五世紀前半の肖像の傑作は、大きな宗教画の構成の部分にすぎない。フランドルで独立の肖像画が盛んになりはじめたのは、同じ世紀の後半からである。

 しかし十六世紀になると、独立の肖像画の傑作が、にわかに西ヨーロッパ全土に輩出する。絵を描く側と見る側との双方に、人問の個性に対する強い興味と溌刺たる好奇心とが燃えていたことはもはや疑う余地がない。それはルッターとエラスムスとシェイクスピヤの時代、新大陸の発見とそれに伴う商業革命がヨーロッパの経済秩序をゆりうごかし、秘かに資本主義を準備していた時代である。

肖像画の黄金時代は、理の赴くところ当然、また歴史の進展が帰するところ当然、ヒューマニズムと共に到来した。

それはフランドルのクェンティン・メトシスとブリューゲル、フランスのジャン及びフランソワ・クルーエ、イタリアのティツィアーノとティントレット、最後にドイツのデューラー、グリューネワルト、ホールバイン及びクラナッハの時代だ。どういう人間の顔が彼らの手によって描かれたか! クラナッハのルーテル、ホールパインのエラスムス、もっと多くの画家によるもっと多くのヒューマニスト、ほとんどすべての芸術家による芸術家自身と、ティツィアーノの法王や独裁者、クルーエの優雅な女たち、……当時は王侯貴族の顔にさえ人間味があり、人間らしい悪意や奸計やかぎりない優美さがあふれていたようである。

われわれは、実に多くの忘れ難い顔に出会う。多分実際にあった以上に──しかし時代が忘れ難い性格と人生とにみちていたということも事実だろう。

 その後の肖像画の歴史は分解と頽廃の過程にすぎない。近代画の画面からは、十六世紀のあの個性的な、かけ代えのない人間の顔が次第に消えてゆく。レンブラントとヴェラスケスが十七世紀にやった仕事は、偉大な肖像画の最後の様式をつくることであった。彼らは過ぎ去ろうとする黄金時代のいわば夕映えである。ということは、それにつづく二世紀間の画面に、その「自画像」や「フイリップ四世」に匹敵する人物のあらわれることが、どれほど少いかという事実によって、うらづけられるだろう。

ゴヤ、アングル(もちろん裸の女ではなく肖像画のアングル)、コロオ……なるほど彼らは彼らの流儀で見事な肖像画を仕上げたといえなくはない。しかし大勢は抗し難くドウラクロワの線に沿って進んでいた。「シェパン像」は立派な油絵だが、ショパンではない。われわれはそこに絵をみいだすが、人物には出会わない。油絵が純粋に油絵であろうとする運動がおこり、遂に印象派のあらわれる運命は、すでにそこに予告されていたといえるだろう。印象主義とは、肖像画との関連からいえば、人間の犠牲において外光を採用した決断の結果である。美しい結果だったにちがいない。

アルジャントゥーユの水と青空にきらめく明るい外光の中で、帆も日傘も人物の衣裳も、実に魅惑的にゆれている。船の中に坐っているのがマネーだとすればそれは画題にそう断ってあるからそうなのだ。マネーが実は酒屋の親父ムッシュー・デュポンであっても、画面としては一向にさし支えがない。印象主義とはそういうものであり、印象派においては、印象主義の原理そのものから肖像画のなりたつ余地はない。人物は本来日傘やりんごと同じものになる。

つまり人物としては死ぬ。印象主義は肖像画にとどめを刺した。抽象絵画が死体解剖をひきうけるまでに、それから、余りながい時間はかからぬだろう。雨中の人物は日傘やりんごと同じものになった後で、抽象的な色面に分解されるはずだ。現代の画面からは、人間の顔がほとんど完全に消え去っている。現代の人生そのものからではないにしても、しかし映画スタアに化身した現代のマリアにとって、大切なのは、豊かな胸であり、揺れる腰であり、しなやかな脚であるだろうが、もはやとにかく顔ではない。ティツィアーノの画面のなかでも、肉づきのよい女の肉体は、大いに幅をきかせていた。しかしティツィアーノとその時代は、「フローラ」のはだけた胸にもつのと劣らぬ関心を、「法王ポール三世」の眼光鋭い顔にも注いでいたのである。
(加藤周一著「藝術論集」岩波書店 p344-348)

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◎「ゴヤは表現の欲望そのものが、生に人生をわしづかみにして来てしまうたちの男」と。