学習通信051104
◎いささかスプーニーに……
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ここからわかるのは、この一〇年間、企業がかなりの痛みをかぶり、労働者に配分してきたということです。これはある意味で、とても日本的な配慮といえるかもしれません。
しかし、それによって企業は、この厳しい資本主義の世界の競争のなかで耐えられなくなってきました。ない袖は振れないのです。となれば、今度は労働分配率は下げなければいけなくなります。GDPをある程度上げていくなかで、今度は人の取り分ではなく資本の取り分を増やしていくという形にならざるを得ません。
そうなると、GDPが増える割には給料はあまり上がらなくなる可能性が出てきます。労働組合は賃金を上げろというかもしれませんが、いままでもう十分に上げたのです。労働分配率を〇・一ポイント上げるというのは、客観的に見れば並大抵のことではありません。したがって、今度は逆に、労働者が賃金を我慢する必要に迫られます。
先ほど述べたように、失業問題は経済における最大の問題ですから、雇用は守るべきです。ただし、守ろうとすれば賃金は抑えなくてはなりません。
賃金が抑えられると、われわれの生活は苦しくなると思うかもしれません。ところが、賃金が抑えられても、個人の生活が苦しくならない方法があります。
それは、個人資産の運用利回りを高めるという方法です。
(竹中平蔵著「みんなの経済学」幻冬舎2000年 p44-45)
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むすび
特定職業への参入を制限することによって労働組合が組合員のためにより高い賃金を獲得するときには、そのような高い賃金は、雇用される機会が少なくなった他の労働者の犠牲において実現されたものでしかない。政府が公務員制度に対して高い賃金を支払うときは、その高い賃金は納税者たちの犠牲においてだけ実現される。
ところが労働者が自由市場を通じて、より高い賃金やよりよい労働条件を獲得するときにはこのような事情は違ったものとなってくる。
企業が相互に最良の労働者を獲得しようとして競争したり、また労働者たち自身がよりよい仕事ができるように自分たちの技術や能力を引き上げようと相互に競争したりして、その結果賃金や俸給を引き上げるのに成功したときには、その高い賃金は誰かを犠牲にしたものではない。
このようなより高い賃金は、より高い生産性か、より高い資本投資か、より高い技術をもった人びとがふえることによってだけ、実現されうる。
しかしこれらのことが実現されると、パイは全体として大きくなり、労働者に対しても分け前が大きくなるが、雇用者たちに対しても、また消費者たちに対しても、さらには税務署の収税吏に対しても、分け前がそれぞれ大きくなるのだ。
これが、自由市場体制が経済発展によって生み出す果実を多くの人びとに分配していく方法だ。そしてまた、これこそが、過去二百年を通じて、働く人びとの生活条件が、大きく改善されてきた秘密なのだ。
(M&R・フリードマン著「選択の自由」日本経済新聞社 p391)
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2〔生産物、賃金、利潤〕
ウェストン君がわれわれに聞かせてくれた演説は、おそらくほんの一言に要約できたであろう。
彼のいっさいの推論とは、結局こういうことであった。もし労働者階級が、資本家階級に、貨幣賃金のかたちで四シリングではなく五シリング支払うように強要しても、資本家は、五シリング分のかわりに四シリング分を商品のかたちで返すであろう、と。
労働者階級は、賃金が上がる前に四シリングで買ったものにたいして、五シリング支払わなければならなくなるであろう。だが、どうしてそうなるのか? なぜ資本家は、五シリングとひきかえに四シリング分しか返さないのか? 賃金額が固定されているからだという。だが、なぜ賃金額は四シリング分の諸商品に固定されているのか? なぜ、三シリングとか、ニシリングとか、その他の額ではないのか? もし賃金額の限界が、資本家の意志からも労働者の意志からも独立した経済法則によって定められるのならば、ウェストン君が最初にしなければならなかったことは、この法則をのべて、それを証明することであった。
そうしてから、さらに彼は、あらゆる一定の瞬間に実際に支払われる賃金額は、つねに、この必然的な賃金額に正確に一致し、けっしてそれから逸脱しないということを、証明すべきであった。
他方、もし賃金額のあたえられた限界が資本家のたんなる意志に、あるいは彼の強欲の限界にもとづいているなら、それは恣意的な限界である。それには必然的なものはなにもない。それは、資本家の意志によって変更されることもできるし、したがってまた、資本家の意志にそむいて変更されることもできよう。
ウェストン君は、彼の理論を例証するために諸君にこう言った。一つの鉢に一定量のスープが入っていて、それを一定数の人が飲むばあいに、スプーンの大きさをひろげても、スープの量をふやすことにはならないであろう、と。彼には失礼だが、この例は私にはいささかスプーニーに〔たわいなく〕見える。
それは私に、メネュウス・アグリッパが用いた比喩を思いださせた。ローマの平民たちがローマの貴族たちと衝突したとき、貴族のアグリッパは、平民たちにむかって、貴族という腹が政治体〔国家〕の手足である平民を養うのだ、といった。アグリッパには、ある人の腹をみたすことによって他の人の手足が養えるということは証明できなかった。
ところでウェストン君のほうは、労働者たちが食物をとる鉢は国民労働の生産物全体でみたされているということ、また彼らがこの鉢からもっと多くを取りだすのを妨げているのは、鉢が小さいからでもその中身が少ないからでもなくて、ただ彼らのスプーンが小さいからだということを、忘れていたのである。
どういう手管によって、資本家は、五シリングとひきかえに四シリング分を返すことができるのか? 彼が売る商品の価格を引き上げることによってである。では、諸商品の価格の上昇、もっと一般的に言って諸商品の価格の変動、諸商品の価格そのものは、資本家のたんなる意志によってきまるのか? それとも、反対に、この意志を実行するためには、一定の事情が必要なのか? もしその必要がないとすれば、市場価格の土昇と下落、その不断の変動は、解くことのできない謎になってしまう。
労働の生産諸力にも、資本と労働との使用量にも、生産物の価値がそれで評価される貨幣の価値にも、なんの変動もおこらず、ただ賃金率にだけ変動がおこったと仮定すると、その賃金の上昇は、どのようにして諸商品の価格に影響を及ぼすことができるのであろうか? これらの商品の需要と供給との現実の比率に影響を及ぼすことによってだけである。
労働者階級は、全体として見れば、その所得を生活必需品に費やし、またそうしないわけにはいかない、ということは完全に正しい。それゆえ、賃金率の全般的上昇は、生活必需品にたいする需要の増大をひきおこし、その結果として生活必需品の市場価格の上昇をひきおこすであろう。これらの生活必需品を生産する資本家たちは、彼らの商品の市場価格を引き上げることによって、上昇した賃金の埋め合わせをするであろう。
しかし、生活必需品を生産しない他の資本家たちはどうか? しかも諸君は、彼らが少数だと考えてはいけない。
もし諸君が、国民生産物の三分のニが人口の五分の一──下院の一議員がのべたところでは、それは最近では人口の七分の一でしかない──によって消費されていることを考えるならば、諸君は、国民生産物のうちいかに膨大な部分が奢侈品のかたちで生産されたり、〔外国の〕奢侈品と交換されたりしなければならないか、また生活必需品そのもののうちいかに膨大な分量が奉公人や馬や猫などに消費されなければならないか──この浪費は、われわれが経験によって知るところでは、生活必需品の価格が上昇するにつれてつねにいちじるしく切りつめられるものであるが──を、理解されるであろう。
それでは、生活必需品を生産しないこれらの資本家たちの状態はどうであろうか? 賃金の全般的上昇の結果、彼らの利潤率が下落するばあいには、彼らは、彼らの商品の価格の上昇によってそれを埋め合わせることはできないであろう。なぜならば、これらの商品にたいする需要はふえなかっただろうからである。
彼らの所得はへったであろうし、このへった所得のなかから、彼らは、同じ分量の、価格の上がった生活必需品にたいして前よりも多く支払わなければならないであろう。だが、それだけではないだろう。彼らの所得はへったのだから、彼らは奢侈品にたいして前よりも少なくしか支出できなくなり、したがって各自の商品にたいする彼ら相互の需要は減少するであろう。こうした需要減少の結果、彼らの商品の価格は下がるであろう。それゆえに、これらの産業部門では、利潤率は、賃金率の全般的上昇に単比例して低下するだけでなく、賃金の全般的上昇と、生活必需品の価格の上昇と、奢侈品の価格の下落とに複比例して低下するであろう。
さまざまな産業部門で充用される諸資本の利潤率のこの相違は、どんな結果をもたらすであろうか? もちろん、その結果は、どんな理由からにせよ、さまざまな生産部門で平均利潤率にちがいがおこるばあいにふつういつでもおこる結果と同じである。
資本と労働は、もうけの少ない部門からもうけの多い部門に移されるであろう。そして移動のそうした過程は、一方の産業部門では需要の増加に比例して供給がふえ、他方の産業諸部門では需要の減少におうじて供給がへってしまうまでつづくであろう。こうした変化がおこったあとに、一般的利潤率はさまざまな産業部門でふたたび均等化されるであろう。
すべての攪乱は、もともとたんにさまざまな商品の需要と供給との比率の変動から生じたにすぎないわけだから、原因がなくなれば結果もなくなり、諸価格は以前の水準と均衡とに復するであろう。賃金上昇の結果生じる利潤率の低下は、なにも二、三の産業部門にかぎられるものではなく、全般的なものになってしまうであろう。われわれの仮定に従えば、労働の生産諸力にも生産物の総額にも変化はすこしもおこらず、ただ、この一定額の生産物がその形態を変えただけのことであろう。生産物のうち、大きい方の部分は生活必需品のかたちで存在し、小さい方の部分は奢侈品のかたちで存在するであろう。
あるいは結局同じことだが、小さい方の部分が外国の奢侈品と交換され、奢侈品のままのかたちで消費されるであろう。あるいは、これまた結局同じことだが、国内生産物のうち、大きな方の部分が、外国の奢侈品とではなくその生活必需品と交換されるであろう。したがって、賃金率の全般的上昇は、市場価格を一時的に攪乱したあとでは、諸商品の価格になんの永続的な変動もおこすことなく、ただ利潤率の全般的低下をもたらすだけであろう。
もしも、私が以上の議論のなかで賃金の増加分全部が生活必需品に費やされるものと仮定していると言われるならば、私は、ウェストン君の見解にもっとも有利な仮定をしたのだ、と答える。
もし賃金の増加分が、以前には労働者たちの消費にはいらなかった品物に費やされるならば、彼らの購買力が実際に増加していることは、なんらの説明を要しないであろう。しかし、彼らの購買力のそうした増加は、賃金が上がった結果にほかならないのだから、資本家たちの購買力の減少と正確に一致しなければならない。
したがって、諸商品にたいする総需要がふえるのではなく、この需要の諸構成部分がかわるわけであろう。一方のがわの需要の増加は、他方のがわの需要の減少によって相殺されるであろう。このように総需要はもとのままなのだから、諸商品の市場価格にはどんな変動もおこりえないであろう。
そうすると諸君は、つぎのようなディレンマにつきあたる。すなわち、賃金の増加分がすべての消費財に均等に費やされるか──このばあいには労働者階級のがわの需要の拡大は、資本家階級のがわの需要の収縮によってつぐなわれなければならない──、それとも、賃金の増加分がある種の品物だけに費やされて、その市場価格が一時的に上がることになるか──このばあいにはその結果おこるある種の産業部門での利潤率の上昇と他の産業諸部門での利潤率の低下とは、資本と労働との配分の変動をひきおこし、この変動は、一方の産業部門での需要の増加におうじて供給が引き上げられ、他方の産業部門での需要の減少におうじて供給が引き下げられるまでつづくであろう──、そのどちらかである。
一方の仮定のもとでは、諸商品の価格になんの変化もおこらないであろう。他方の仮定のもとでは、市場価格が若干動揺したあと、諸商品の交換価値は以前の水準におちつくであろう。どちらの仮定のもとでも、賃金率の全般的上昇が究極的に帰するところは、利潤率の全般的低下以外のなにものでもないということになろう。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p93-100)
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◎「賃金率の全般的上昇が究極的に帰するところは、利潤率の全般的低下以外のなにものでもない」と。