学習通信051103
◎美とはなにか……
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美の本質
牡丹の花を見て、われわれは美しいと思う。その幾重にも重なり合った花弁の妖艶とも言える様な花の姿に心を引かれる。この様な牡丹の花も、雨に打たれれば、たちまちにして無残な醜さを露呈するかもしれない。しかし互に艶を競いあうかの様に咲き誇る牡丹の花を見て、数日後のみじめな姿を想像する人があるであろうか。もちろん毎年繰り返される牡丹の花の、植物としての宿命をそこに考えることがないとは言えないかもしれない。しかしわれわれは、今眼前に在る牡丹の花に、濃艶な美を感じるのである。その花の数日後の老醜を感じるのではない。
春に咲く桜の花にも、われわれは美を感じる。桜の花よりも、牡丹の花の方が好きだと言う人もあるであろう。或いは逆に桜の花こそ、日本人の最も好きな花だと言う人もあるかもしれない。牡丹の花の濃艶さに対して、桜の花の淡泊さは、同じ花の美しさといっても、かなり対照的な美の様態を現わしている様に思われる。しかし牡丹の花が好きな人が、桜の花の、枝の隅々まで一杯に淡紅色の花弁をつけた有様を見て、美しくないと言い切れるものであろうか。
山一面を覆う桜の花の満開の姿を見て、われわれはやはり美しいと感じる。桜の花も、植物の宿命として、雨に打たれれば、牡丹の花と同じく、一日にしてその命が絶えてしまう。尤も牡丹の様に廃残の身をさらすことなく、一枚一枚と潔くわが身を捨てて行く。桜の花の散り方が良いとも言われる。武士道の精神を象徴するものだから、日本人の好みに合うのだとも言われた。成程桜の花吹雪の中に見られる光景は美しいかもしれない。しかしその散り方の潔癖さが讃えられるならば、それは桜の木を擬人化した道徳的な判断に基くものといわなければならない。
美的な判断は、桜の花弁が、茎から離れ易い性質を持っているとか、即ち五枚の花弁が重なり合うことなしに、その根元でわずかに萼に支えられている性質を持つとかいった、科学的な分折に基いて下されるものではない。それはまた桜の散り方についての、知的な経験や道徳的な判断に基いて下されるものでもない。端的に言えば、桜の花が植物として本来どのような性質を持っているかといった知識を媒介としない、すなわち桜の花を直接に視ることにおいて成立するものが、美的判断であるといわなければならない。従って桜の花を見て、それが植物の生殖器官であるとする自然科学的な知識は、少くともわれわれの美的な態度においては、全く介入する余地がないわけである。
花が植物の生殖器官であるというのは、科学的真理である。花弁は雌蕊に雄蕊の花粉を受胎するために、昆虫たちに向って聞かれているというのが、植物学的な真実であり、花それ自体が持つ、自己の本来的な在り方であるとも言えるであろう。しかしわれわれの眼前に在る花が美しいのは、そのような花の植物学的な性質に基くのではない。一つの花は、勿論植物としての花の性質を備えている。けれども、われわれは花の形と色の中に、また時には香をも含めて、美を感じるのである。感じることは、直ちに考えること(思惟すること)ではない。
すなわち真理の世界と美の世界とは次元を異にするものであるといわなければならない。桜の花の散り際が華々しく潔いと言うのは、われわれの道徳的な心情の中に、その「潔さ」を考察した結果に基いて、花の散り方を解釈したものであった。それは、やはり桜の花吹雪を美しいと感じることそのものとは、次元が異る様に思われる。勿論そこに、桜の花の淡泊さと潔癖さを感じ取る人もあるであろう。しかし桜の花それ自体は道徳的存在でもなく、人格をもつ存在ではなくて、自然における存在であると言わなければならない。
われわれは、自然の花の中に、人格感情を移入して視るのだと言われるかもしれない。すなわち美的体験は感情移入作用において成立すると。しかし感情移入において自然の中に移入される主観の感情は、もはや単なる道徳的な感情であることはできない。もしそうであるならば、自然美の観照そのものは、常に人間の道徳的な判断に基けられることになるであろうし、自然と人間との間における交感的な相互作用そのものが否定されることとならなければならない。われわれが自然と向い合って抱く感情は、先ず第一に、自然感情的なものであるはずである。
そうしてこのような自然感情と、本来的に人間の理性に根ざす道徳的感情とは、原理的な意味において、区別されるべきである。勿論自然美の観照に際して、しばしば、われわれの道徳的心情が動かされ、そこに成立する美的感動の中に、道徳的な感情が参加して来ることは、否定されない実際的体験である。しかし、それ故に美的感情と道徳的感情とが同一であるわけではない。美的感情の中に成立するものが美的表象であるならば、道徳的感情の中に表象されるべきものは、「善きもの」でなければならないからである。
かくして「美」の世界は、「真」なるもの、また「善」きものの領域からも区別された、固有の価値の領域を形成しなければならない。しからば美とは如何なるものであるのか。また美的価値の本質は何処に存するのであろうか。美とは理論的な真正さでもなく、理性に基く道徳的な善でもないとしたら、美はわれわれの精神の、どのような働きの中に成立するのであろうか。或いは石や水のように、われわれの外に客観的に「美なるもの」が存在して、われわれはただそれを発見することの喜びの中に楽しさを味わっているのであろうか。
もしそうであるならば、それは真理を見出した喜びと、どのようにして区別されるのであろうか。巧みに均衡の取れた、正確に、良く整備された工作物は、美しいものではないのだろうか。或いは道徳的に洗煉された清い心は、美しいというべきではなかろうか。一体「美」とは、われわれの心の問題なのか、或いはわれわれの精神とは関わりなしに存在する自然の問題なのであろうか。これらの種々様々な問題が、美の本質を尋ねる過程のうちに解明されなければならない。そうして美とは何ぞやという課題に答える学問として、美学や藝術学が存在するわけである。美の本質を尋ねることは、窮極的に美学的方法によって導かれなければならない。もちろん美学的研究が、美の本質についての明快な答を直ちに用意してくれるなどと考えてはならない。
プラトン以来、美の本質について、哲人や詩人が、更に近世以降に至れば、専門的な美学者が、美の問題について、様々な角度から解明しようと努力して来た。これらの古今東西にわたる美学理論を渉猟(しょうりょう)した上で、自己の美的体験に基いた美についての学説を打ち樹てることは、専門的な美学者の仕事にゆだねるべきであろう。しかし美の本質について、数十行をもって答えるということも至難のわざと言わなければならない。それ故にここにわれわれは、美の本質を探究すべき一つの方向を示唆することに満足しなければならない。
(金田民夫著「美と芸術への序章」法律文化社1-5)
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「社会においては、いたるところで、対象としての現実が、人間諸力の現実、すなわち人間的現実として、そしてそれゆえに人間自身の諸力の現実となる。対象は、人間にとってかれ自身の対象化となる。」(マルクス「経済学・哲学手稿」)まさに「いたるところで!」まさに「人間諸力の!」である。芸術もまた科学や他の生産と同じように、このような人間活動の一つなのだ。マルクス流にいえば「自然を馴致(じゅんち)する」作業の一つなのだ。
実践ばかりではない、認識もまた馴致なのだ。反映もまた人間においては「自然の馴致」なのだ。しかも人間はそれをいやいややるわけではない。それは「人間にとって最高のよろこび」なのだ。それはみな一つながりの事実である。つまり、人間がどんなに芸術によろこびを感じ、感動したからといって、芸術において人間が「現実をつかもう」としていない証拠にはならないのだ。美的感受性が働いたからといって、認識活動でない証拠はないのだ。逆に認識活動においてこそ美的感受性ははじめてもっともよく働くのである。
小場瀬の引例をつかわせてもらえば、ビーバーが巧みに巣を造るにもかかわらず美感をもたないのは、ビーバーがそこで認識活動をやっているためではない。認識活動が不十分もしくは全然ないからこそ美感をもたないのだ。人間が建築において美を感ずるのは、たんに「造る」からではなく、「眺める」からである。たんに実践するからではなく、認識するからこそ美感が生まれるのだ。だからこそ人間はビーバーの造った巣にさえ美を感ずることができるのだ。このことは、「美的感受性」によって認識を否定しようとした小場瀬の希望に反し、むしろ、「美的感受性」が徹頭徹尾認識に従属していること、美感を伴わない認識はありえても、認識を前提しない美感はありえないことをこそ証明してはいないか。美感はまさに芸術のもつ認識性の証拠なのだ。
実用品や実践にも美はある。しかしそれは、人がそれらを「眺めた」時にのみ、はじめて美となるのだ。マルクスのいう「美の尺度による生産」とは、つまり「眺めながら生産する」ことであり、「見た眼聞いた耳によろこびを与えるように生産する」ことにほかならない。
小場瀬は美の感受を「認識を越えた別種の感覚」と考えているが、それは誤りだ。美の感受は徹頭徹尾認識を「越え」はしない。それは完全に認識に従属し、その範囲内にあり、それに伴って起こるものにすぎない。それは人間認識の一部であり、愛情その他の感情と同じように、認識の人間的形式の一つであり、人間が客観的現実を自己に反映する際の情緒的属性である。美感は認識の形式であり、属性である。
人が百合の花を見る。百合の花は人の意識に映り一つの像を結ぶ。その時人の心にある快い動揺が起こり、美しいな、と叫ぶ。その時、その人の意識に映った百合の花の像のほかに、それと無関係に別の「美的感受性」専用の像が映ったわけではない。かりにそのような二重映像的現象がおきたとしても、その第二の映像もまた百合の花の映像であることはかわりなく、つまり映像にほかならず、なんらかの認識にほかならない。
快い心の動揺はその映像そのものによって起きたのである。つまり美的情緒は認識された映像を借用して騒いでいるのであって、それ自身映像以外の映像であるわけでもなく、認識の力を借りずにそれ自身自力で像をもつこともできないのである。感動もまた同様である。だから人は、自分の心に起きた美的情緒や感動を人に伝えようとする時も、何らかの具体的な像を借りてそれをおこなおうとする。
ある人は百合の花を描く。またある人は白と緑で構成された抽象的な模様を描く。ある人は音を組みあわせてメロディーをつくる。他のある人は言葉によって詩をつくる。いずれにしてもそれらはみな像であり、象である。何らかのかたちをなしており、形象である。形象を創ることによって美的情緒や感動を伝えようとする時に、人はそれを芸術と呼ぶのであって、いくら感動を伝えたからといって形象によらない時は芸術とは呼ばないのである。
美人を見て感動のあまりその首ったまにとびついてキッスをしても、その人の感動や美的感受性の存在は伝わるが、そしてそれはまさに美的感受性の一種の「対象化」であり「実践」でもあるが、人はそれを芸術とは呼ばないのである。ただ舞台上で俳優がその真似をした時にだけキッスは芸術となる。それはもはやキッスそのものではなく、俳優の心に映った一つのかたちであり形象であるからである。美的感受性はただその形象の動機や結果として存在しうるにすぎず、それ自身かたちではない。
(永井潔著「芸術論ノート」新日本出版社 p15-17)
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◎「「美的感受性」が徹頭徹尾認識に従属していること、美感を伴わない認識はありえても、認識を前提しない美感はありえない」と。