学習通信050927
◎法は人間がつくる……

■━━━━━

 さて、これらの中世諸国家のどれでも、全封建的位階制の頂点をなしていたのは国王であった。家臣たちはこの頂点なしにはやっていけなかったが、同時にこれにたいしてたえまない反乱状態にあった。

全封建経済の基本的関係は、ある種の人身的勤務や貢納の給付とひきかえに封地をさずけることであったが、この関係は、すでにその最初の、最も単純な形態においてさえ、紛争の種をふんだんにふくんでいた。とくにじつに多数の人々が争いをおこすことを利益としていたところではそうだった。

では、授封関係がすべての国々で、認許され、回収され、再更新され、剥奪され、変更され、その他あれやこれやの条件のついた権利政務の解きえない糸毬となっていた中世後期には、いったいどんなふうだったろうか?

 たとえば、豪胆公シャルルは、その領地の一部についてはドイツ皇帝の封臣であり、他の領地についてはフランス国王の封臣であった。他方、豪胆公シャルルの封主であるフランス国王は、同時にある領土については、自分の家臣であるシャルルの封臣となっていた。

それなのに、どうして紛争をまぬかれることができようか?──ただひとつ彼らを外敵やほかの家臣から保護してくれる力をもつ王権という中心に家臣たちを引きつける牽引力、また、その牽引力がたえずまた不可避的に転化してゆく、この中心にたいする反撥力、この二つの力があのように数百年にわたってかわるがわるはたらいた理由は、ここにある。

王権と家臣たちのあいだにたえまないたたかいがおこなわれ、強奪が自由人にふさわしい唯一の生計測であったあの長い時代のあいだ、この戦いの隠密などよめきが他のあらゆる物音をかきけした理由は、ここにある。

裏切り、虐殺、毒害、奸計と、考えられるかぎりのあらゆる卑劣行為──これが、騎士道という詩的な名称のかげに隠れて、のべつまくなしに名誉とか誠実とかを諭じていたものの正体だ──が、あのようにはてしなくつづき、たえず新たに生みだされた理由は、ここにある。

 こういうおしなべての混沌のなかで王権が進歩的な要素であったことは、一目瞭然としている。王権は無秩序のなかの秩序を代表しており、また反逆的な封臣諸国家への細分に対抗して形成途上の氏族を代表していた。封建的な表面のしたに形成されつつあったいっさいの革命的要素は、王権をたよりとしていたし、王権のほうでも同様に彼らをたよりとしていた。

王権と市民の同盟は、一〇世紀にさかのぼる。中世全体をつうじて、一筋の道を終始たどりつづけたものは、むろん、なにもなかったのだが、この同盟もたびたび衝突によって中断されては、そのつどますますしっかりとした、ますます強力なものとなって更新され、ついには王権を肋けて最後の勝利を穫得させたのであって、そして王権はそのお礼に、自分の同盟者を抑圧し、略奪したのであった。

 国王にとっても市民にとっても一つの強力な支柱となったのは、新興の法律家身分であった。

ローマ法の再発見にともなって、封建時代の法律顧問であった僧侶と俗界の法学者とのあいだに分業が起こった。

これらの新しい法律家は、はじめから本質上市民身分に図していた。そのうえ、彼らが研究し、講義し、適用した法も、その性格からいって、本質上反対建的であり、ある点ではブルジョア的であった。

ローマ法は、純粋な私的所有が支配する一社会の生活関係と抗争とのまったく典型的な法律的表現であって、後世のあらゆる立法は、これになに一つ本質的な改善をくわえることはできなかったほどである。

しかし、中世の市民的所有は、まだいちじるしく封建的な諸制限と絡みあっており、たとえばおもに特権のかたちをとっていた。だから、このかぎりでは、ローマ法はまた、当時の市民的諸関係よりもはるかにすすんでいたのである。

だが、市民的所有のその後の歴史的発展は、純粋な私的所有に発展してゆくことでしかありえなかったし、また実際に起こったのもこれであった。そして、この発展は必然的に、ローマ法のうちに強力な槓杆を見いだすことになった。

なぜなら、ローマ法には、中世後期の市民がまだ無意識に追求していただけのもののすべてが、すでに完成したかたちでふくまれていたからである。

 個々の場合に、ローマ法が、農民への圧迫を強める口実を貴族に提供したことも多かった──たとえば、よそで慣行となっている負担の免除について、農民がそれを証明する文書を提出できなかった場合がそれである──とはいえ、問題の実質はそれによってすこしも変わりはしない。

貴族は、ローマ法がなくてもそういう口実を見つけたであろうし、また実際に日々に見つけていた。いずれにしても、封建的諸関係をまったく知らず、近代の私的所有を完全に予想した法が施行されるようになったことは、非常な進歩であった。

 以上に見てきたように、中世後期の社会では、封建貴族は、経済上無用なものに、それどころか、じやまものに変わりはじめており、またすでに政治的にも、都市の発展や、その当時には君主制的な形態でしか可能でなかった氏族国家の発展の障害物になっていた。

それにもかかわらず、彼らがその地位をたもっていたのは、彼らがそのときまで軍事を独占していて、彼らなしにはどんな戦争も、どんな戦闘もやれなかったからであった。この点にもまた変化が起こるべきときがきた。社会と国家において封建貴族が支配していた時期はもう終わったということ、彼らは騎士という資格ではもう戦場でも使いものにならないということを、封建貴族に理解させるために、最後の一歩が踏みだされなければならなかった。
(エンゲルス著「封建制度の衰退とブルジョアジーの勃興について」M・E8巻選集 大月書店 p103-105)

■━━━━━

質問11 ローマ法について

「どれほどローマ人を非難する人でも、法とは何かを明確にし、現代までつづく法治システムを創造したのがローマ人であることでは、異議をさしはさむことはできません。それで当のローマ人は、法というものをどう考えていたのかを説明してほしいのです」

「比較するとわかりやすいので、法についてのユダヤ人の考え方をまず先に検討してみましょう。ユダヤ人にとっての法とは神が人間に与えた戒律であって、ユダヤ民族の憲法としてもよいのが、モーゼの十戒です。それは、次の十項から成り立っている。

一、おまえはわたしの他に、何ものをも神としてはならない。(だからこそ、一神教)

二、おまえは自分のために、刻んだ像をつくり、それを崇拝してはならない。(偶像崇拝は 悪ということ)
三、おまえは、おまえの神の名をみだりに唱えてはならない。(オー・マイ・ゴッドなどとは言ってはいけない)
四、安息日を覚えて、それを聖とせよ。(毎土曜日は、祈ること以外は何もしてはならない)
五、おまえの父と母を敬え。
六、殺してはならぬ。
七、姦淫してはならぬ。
八、盗んではならぬ。
九、隣人について、偽証してはならぬ。
十、隣人の家を、侵してはならぬ。

 法律の専門家でなくても、一から四まではユダヤ教を信ずる者のみに通用可能、反対に五から十までは、人間ならばどの宗教を信じようと守るべきルール、ということがわかるでしょう。ちなみに、一から四までの項を、ローマ人にあてはめてみたらどうなるかも考えてみました。

──略──

 法律に話をもどしますが、ユダヤの法とローマの法の最大のちがいは、モーゼの十戒の一から四までの項目にあるのではなく、神がつくったか、それとも人間がつくったか、にあります。つまり、神がつくったがゆえに絶対に変えてはならないユダヤの法と、人問の作になるがゆえに、不適当となれば改めるのが当然とされているローマ法のちがいです。言い換えれば、法に人間を合わせるユダヤ的な考え方と、人間に法を合わせるローマ的考え方のちがいなのです。

 ローマ人にも、人間がつくったにしろモーゼの十戒に似ていなくもない、紀元前四四九年に制定された、十二表法と呼ばれる基本法がありました。だが、十二条あったといわれるこの法もヽ改定に次ぐ改定で、二百年も過ぎないうちに十二条の三分の二が行方不明になる。ローマ人による法の改め方が、既成の法を改めるか否かの賛否を問うやり方ではなく、必要と思われることを盛りこんだ新法を提出し、それが元老院で可決されれば、旧法のうちでその新法にふれる部分のみが自動的に消滅する、というやり方を採用していたからです。

おかげてローマでは、神々同様に法律もやたらと増えてしまうのですが、法に人間を合わせるのではなく、人間に法を合わせる考え方であった以上、これもやむをえない帰結ということでしょう。

 いかにローマでは法は人間がつくるという考えが浸透していたかの証拠は、法律の名称にも見られます。国有地の農地賃貸しを定めた法も、〈農地法〉とだけ呼ばれるのではない。提案者の名が、常に冠せられます。〈ユリウス農地法〉というように。それゆえローマ法では、誰が提案し成立させたかは明白になる。公共事業と同じで、末代まで名が遺ってしまうことになる。これもまた、良き法、つまり良き政治、を遺したいという心情を活用するという点て、なかなか巧みな人間操縦法であったと思いますね。

 紀元五二八年になって、東口ーマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによる『ローマ法大全』の編纂がはじまります。これこそが、公法、民法、刑法と法の全分野を網羅した膨大なローマ法の集大成になるのですが、これらの法の発案者であったローマ人は、この時代には存在していませんでした。西口ーマ帝国はすでに滅亡しており、東口ーマ帝国はキリスト教の帝国であったからです。とはいえ、いかにキリスト教徒であろうと、多民族から或る帝国の政治の責任者である皇帝としては、ローマ法の有効性を認めざるをえなかったのでしょう。多種多様な人間が共棲しなければならないのが人間社会であり、ローマ法とは、多種多様な人間社会を機能させていくためのルールであったのですから。

 この『ローマ法大全』は、次の一文ではじまります。

 ──われらが主イエス・キリストの名において、皇帝カエサル・フラヴィウス・ユスティニアヌスは、法学者たちの協力を得て、過去のローマ人の法の集大成をここに行う。なぜなら、皇帝の威光は、武力で輝くものにかぎるべきではなく、公正な統治によっても輝くべきものだからである。──

 ローマ人によって打ち立てられた法の精神は、良しとなれば敵のものでも模倣することを恥じなかったローマ人と似ていなくもないキリスト教の柔軟性のおかげて、現代にまで受け継がれることになったのでした。ちなみに、ローマと同じく成文法をもたなかった国家には、ヴェネツィア共和国と大英帝国があります。二国とも、それぞれの時代の現実主義の雄として、勢威を誇った民族でした。

 法学部で教える法理論を論ずるのは、私の知力のおよぶところではありません。ただし、歴史の検証を生涯の仕事とした以上、民族と法の関連に想いをめぐらせないではすまないのです。それに人間は、行為の正し手なしには社会が成り立たないという生き物でもある。それを何に求めたかは、その民族の理解の鍵になりうるのではないか。古代の三大民族ならば、次のようになります。

人間の行為の正し手を、
宗教にもとめたユダヤ人。
哲学に求めたギリシア人。
法律に求めたローマ人。

 宗教に求める場合は、宗教をともにしない人々には通用しないという限界がある。モーゼの十戒の一から四までは、ユダヤ教徒以外の人にとっては、知ったことではないのですから。

 哲学の場合も限界がある。自らの無知を悟れというソクラテスの教えも、その日暮らしのアテネの庶民にとっては、知ったことではなかったのです。
 法律は、宗教をともにしなくても、知的関心の有無にも関係なく、いや、このように多種多様である人間だからこそかえって、ともに生きていくのに必要になるルールにすぎません。しかし、そうであるからこそ普遍妥当性をもてるのであって、法律くらい、普遍帝国をつくったローマ人にふさわしい創造物もない。

 ところが面白いことに、ローマ人が子弟の教育に必要と考えた教養課目(ラテン語ではアルテス・リベラーレス、英語だとリベラル・アーツ)には、法律は入っていないのです。ローマ人にとっての法律とは、教師から学ぶたぐいの教養ではなく、食卓の話題か、休日以外の日ならば必ず聞かれていた裁判の傍聴かで自然に会得する、日常的な智恵であったのかもしれません。もしかしたらこのような対し方こそ、法の精神を会得するには有効な方法かもしれないと思ったりしています」

「それを聴いて質問する気になったのですが、日本でもようやく改憲論争が交わされるようになりました。もしもこの日本人にローマ人が助言を与えるとしたら、どのように言うでしょうか」

「一部の日本人が主張するような、普通の国になるための憲法改正ではなく、普通の憲法にするための憲法改正を勧めるでしょう。

 日本人は、ユダヤ教徒ではない。日本国憲法は、神が人間に与えたものではありません。ゆえにそれを死守するのは、自己矛盾以外の何ものでもない。この自己矛盾から脱け出すのが、まずは先決されるべき課題ですね。

 憲法改正には国会議員の三分の二の賛成を必要とし、さらに国民投票で過半数を得る必要があると定めた第九十六条を、国会の過半数さえ獲得すれば改正は可、とするように改めるのです。これにも国会議員の三分の二の賛成と国民投票での過半数が必要になるのは、もちろんのことです。

しかし、憲法改正条項である第九十六条の改正が成ってはじめて、ユダヤ教徒でもない日本人が、神が与えたわけでもない憲法にふれることさえ不可能という、非論理的な自己矛盾から解放されることになる。第九条を改めるか否かは、その後で議論さるべき問題と思います」
(塩野七生著「ローマ人への20の質問」文春新書 p107-115)

■━━━━━

むすび

 法というものをイメージする場合、ひとはしばしば、それが動かないもの、固いもの、秩序維持のためのものと、とかく考えがちである。しかし、それがいかにあやまったイメージであるかは、右の若干の事例でもあきらかであろう。読者も、この具体例で大いに論争してもらいたい。

いずれにせよ、法に関心を持つ者は、法的正義のゆくえを自分で見きわめ、時代の法思想をわがものとしなければならない。法的正義の問題は、根本的には、「人間の尊厳」にかかっている。

人類の歴史は、過去に数えきれない過ちとおろかさをくり返してきたとはいえ、また前進と退歩のみちをジグザグに歩んできたとはいえ、それにもかかわらず、長い目でみれば、「人間の尊厳」をめざす闘いの歴史であった。それを、現代という特定の歴史的状況の中で、私たちは具体化しなければならない。そのためには、広い視野と教養が求められるのである。
(渡辺洋三著「法とはなにか」岩波新書 p17)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「ローマ法は、純粋な私的所有が支配する一社会の生活関係と抗争とのまったく典型的な法律的表現であって、後世のあらゆる立法は、これになに一つ本質的な改善をくわえることはできなかったほどである」と。