学習通信050926
◎ただ石鹸だけを除いて……

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第一節 封建社会の動揺

中世都市と商品経済の展開

 中世都市において、その市政を牛耳ったのは富裕な大商人層であった。彼らは市参事会の要職を世襲的に独占し、都市貴族と呼ばれた。これを不満とする手工業者、つまりギルド勢力は、市政ヘの参与を要求して都市貴族の支配に挑戦した。これがいわゆるギルド闘争で、一四世紀にほとんど全ヨーロッパの諸都市で発生した。

しかし都市内部の矛盾はそれだけにとどまらない。大商人の圧力と都市人口の増加にともなってその営業独占を脅かされたギルドが、しだいに門戸をせばめて排他性を強めたため、親方に昇進する道を閉ざされた職人層は、独自に職人ギルドを結成してこれに対抗した。こうして中世末期の都市は、大商人と手工業者(ギルド)の対抗、工業生産者層内部でも親方と職人の対立をかかえて動揺を重ねた。一四世紀の後半にフィレンツェでおこったチオンピー揆は、このように錯綜した都市の内部抗争が生みだした危機の一例であった。

 ギルド闘争の結果、一部の工業都市ではギルド勢力が市政に進出しえたが、多くの都市では闘争は惨敗に終わり、依然として都市貴族の市政独占がつづいた。それは、彼らが遠隔地貿易によって巨富を積み、ときには大規模に金融業を営み、またときにはいわゆる問屋制度により手工業者を直接経済的に隷属させて、圧倒的に優越した経済的・社会的実力を保持していたからである。

 中世都市の典型は、遠隔地貿易で栄え、強力な都市貴族層を擁した諸都市に見られる。地中海貿易に雄飛した北イタリア諸都市、北海・バルト海貿易を独占した北ドイツ諸都市、両者を結ぶ地理的位置を占めた南ドイツ諸都市がそれであり、中世末期のフィレソツエのメディチ家、アウグスブルクのフッガー家の隆盛については多言を要しない。しかし注目すべきは、これらの代表的な中世都市が、政治的統一を欠いたドイツやイタリアで発達したという事実である。つまり封建的分裂が、これら諸都市の繁栄の政治的背景をなしているという事実である。都市同盟や都市国家は、実はそうした政治的背景の所産にほかならない。

 なるほど請都市は貿易の利権をめぐって互いに争った。レヴァント貿易をめぐるヴェネツィアとジェノヴァの抗争のごときがそれである。けれども深刻な政治的分裂のなかで都市がその自治と経済活動を維持し発展させていくためには、ときに相互に協力しあうことが必要であった。一二・一三世紀のイタリアのロンバルディア同盟、一三世紀半ばのドイツのライン都市同盟などは、皇帝の圧力に対抗するため、あるいは封建的分裂に対処するために結成された政治的同盟であった。

ハンザ同盟は、リューベック、ハンブルク、ブレーメンなど多数の北ドイツ諸都市が貿易上の共同利益と相互扶助を目ざして結成した、もともと経済的な都市同盟であり、シャソパーニュに代わる国際貿易の中心ブリュージュをはじめ、北欧各地に商館を設けて、一四世紀後半に最盛期を迎えた。しかしこのハンザも、純粋に経済的な都市同盟にとどまったのではない。ことに同盟の経済的利権が脅かされるような危機には、その政治的・軍事的性格が強化されて、たとえばデンマーク王を敵にまわして戦うなど、いわば国家内の国家のような勢力を発揮した。

北イタリアの都市国家は、以上のような都市の政治的自律性が極点に達したものといってよい。つまり極端な政治的無秩序のなかで、諸都市がそれぞれの周辺の農村を支配し、封建貴族と提携しつつみずからを一個の独立国家にまで上昇せしめて、封建的分裂をますます助長する結果をもたらしたのである。

 ドイツやイタリアの都市が中世末期から近世初頭にかけて衰微する、その根本的原因は、すでにここにうかがわれる。われわれがこれらの都市の遠隔地貿易の華やかさに目を奪われることなく、むしろその栄華の背景に両国の根強い封建的分裂があったことを直視するならば、それらの都市の繁栄がある意味では普遍的権威と同じ土墳から生じたものであり、したがって、若干の時間的ずれはあっても結局は普遍的権威同様の運命をたどらねばならぬこと、具体的にいえば、主権国家の成立とそれを後ろだてとする国民的商人の成長におされて衰弱をよぎなくされることは、理の当然というべきであろう。

 見かけはそれほど華やかでなくても、中世から近世への政治的動向のなかで、より重要な意味をもったのは、イギリスやフランスの都市の発達であり、都市と王権との関係であった。封建的分裂を克服して伸張しつつある王権にとって、なによりも必要なのは貨幣である。行政組織を整え、軍事力を強化するためには、有能な官僚と数多くの兵士を雇用せねばならず、そうした官僚や傭兵に貨幣を給付する必要がある。都市の経済力に着目した国王が、財政上の支持を求めて、都市を味方に引きいれようとつとめたのもあやしむにたりない。

王権と手を結ぶことは、都市の側でも望むところである。領主や諸侯の政治的圧力を回避するためにも、また地方的障壁を排除して商業圏を拡大するためにも、都市は王権と直結するのが有利である。こうして両者の提携が進展し、その過程で主権国家はしだいにその形を整えていく。国王が、あるいは特許状を付与して都市の自治を認め、あるいは市民層から人材を選んで政府に登用し、あるいは都市の代表をも加えて身分割議会を開いたのは、そのあらわれである。

 しかも一般に、都市を中心とする商品経済の展開は、市場圏を拡大し、国内市場形成への道を切り開くことによって、主権国家の経済的基礎を築きあげる。つまり、政治的分裂の土台であった経済圏の地方性が克服され、それがしだいに国家的規模に拡大されることによって、国家統一の経済的前提が準備されてくる。王権と都市ないし商品経済との関係は、単に表面的な政治的・財政的提携にとどまらず、よりいっそう根本的な構造的関連をもつものであったと考えるべきである。

領主制の危機

 都市と商品経済の発展は、基本的には農業生産力の上昇に負うものであったが、その反面、遂に商品経済は農村に波及して、領主と農民との関係に大きな変動をもたらすことになった。すでに十字軍などの戦争の出費で困窮していた領主層が、商品経済の滲透により奢侈に流れつつあった生活を維持するためには、所領経営の合理化によって所得の増大をはかるほかはなかった。農民の賦役を土台とする直営地中心の経営方式から、地代収取を基軸とする新しい経営方式への転換がそれである。

すなわち直営地は大幅に縮小されて、日雇労働者がその耕作にあたり、残りは農民に分割貸与された。賦役は当然いちじるしく軽減されて、生産物地代あるいは貨幣地代に代置されるようになった。いわゆる農奴解放はこの過程の所産にほかならない。貨幣に飢えた領主が、身分的解放を欲する比較的富裕な農民の解放金を目当てに、その代償として人頭税、領外結婚税、相続税など農奴身分を象徴する特殊貢租を免除したのである。

 以上の過程は、地方によってさまざまであったが、早いところではすでに一二世紀にはじまっていた。それは一時的に領主の財政をうるおしはしたが、結局は農民の経済的・身分的上昇、逆に領主収入の相対的減少と領主権力の後退という結果をまねいた。賦役から解放された農民が、いまや自主的な農業経営主体に転化し、しかも多くの場合生産物にしろ貨幣にしろ、地代がー定量ー定額に固定されて、生産力の上昇にともなう余剰生産物の増加分が彼らの手もとに蓄積されることとなったからであり、また領主と農民の関係が、人的な直接支配から物的な間接支配へと移りかわったからである。

一二・一三世紀に各地でさかんに進められた森林や荒蕪地の開墾、さらにエルベ以東へのドイツ人の東方植民も、開拓農民の地代負担を軽くし、身分的自由を保証して、事業の促進をはかったため、農民の身分的上昇の一つの契機となった。領主は、都市のほか、開拓農民が形成する自治的な新村落にも農民が逃亡するのを恐れ、不当な誅求をさしひかえねばならなかった。
(衣笠・田村・中村・廣実「概説 西洋史」東京創元社 p182-185)

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エンゲルス
〔封建制度の衰退とブルジョアジーの勃興について〕

 ときの支配者である封建貴族の不毛の戦いがその騒がしい響きで中世をみたしていたあいだに、披抑圧階級のひそやかな労働が、西ヨーロッパ全体で封建制度を掘りくずして、封建領主たちの住む余地がますますなくなるような状態をつくりだしていた。

なるほど、島村では貴族の領主がまだわがもの顔にふるまっていて、農奴を苦しめ、彼らの汗で栄耀にふけり、彼らの作付地を馬の蹄にかけて踏みにじり、彼らの女房や娘たちをなぐさみものにしていた。けれども、その周辺にはすでに都市が興っていた。

イタリアや南フランスやライン河流域では、古代ローマの自治市がその屍灰のなかからよみがえっていた。ほかのところ、ことにドイツの奥地では、新しい都市がつくられていた。それらの都市は、きまって防壁や壕でかこまれていて、貴族の城郭よりずっと堅固な要塞となっていた。

というのは、それらは、大軍の力をかりなければおとしいれることができなかったからである。こういう防壁や壕の内側では、中世の手工業──ツンフト市民的で、まったくけちくさいものではあったが──が発展し、最初の資本が蓄積され、諸都市相互のあいだや、それ以外の世界とのあいだに、交易の欲求が生まれてきた。そして、その欲求にともなって、この交易を保護する手段もしだいに生まれてきた。

 一五世紀になると、都市の市民はすでに封建貴族以上に社会にとってなくてならないものになっていた。

なるほど、農業がまだやはり人口の大多数の者のなりわいで、したがって主要な生産部門であった。だが、少数でばらばらながら、なおあちこちで貴族の侵害にさからってもちこたえていた自由農民が、貴族ののらくら生活や誅求ではなくて農民の労働こそ、農業でいちばん肝心なものだということを、十分に証明していた。それに、貴族自体の欲望もずっとふえ、変化していたから、都市は貴族にとってさえなくてならないものになっていた。

じっさい、貴族はその唯一の生産用具であった甲冑や武器を都市から取りよせていたではないか! 国産の布地や家具や装身具、イタリアの絹織物、ブラバントのレース、北欧の毛皮、アラビアの香料、レヴァントの果実、インドの薬味──なにもかも、ただ石鹸だけを除いて、貴族は都市住民から買っていた。ある程度の世界貿易がすでに発達していた。イタリア人は、地中海や、さらにそれをこえてフランドルにいたるまでの大西洋岸を航行していた。

ハンザ同盟諸都市は、新興のオランダとイギリスの競争をうけながら、やはりまだ北海とバルト海を支配していた。海上交通のこの北の中心と南の中心とのあいだには、陸路の連結がたもたれていた。この連絡につかわれた街道は、ドイツを通りぬけていた。貴族がますます無用のものになり、発展のじやまになるばかりだった一方で、都市市民は、こうして生産と交易、教養、社会的および政治的諸制度のいっそうの発展を体現する階級となった。

 じっさい、今日の目で見れば、生産や交換のこうした進歩はみな、きわめて小規模なものであった。生産はまだ純然たるツンフト手工業の形態に閉じこめられたままであり、したがって、それ自体まだ封建的性格を残していた。貿易はいまなおヨーロッパの水域内に限られていて、極東の物産との交換がおこなわれたレヴァントの海岸諸都市からさきへはすすまなかった。しかし、商工業も、それとともに商工市民も、まだちっぽけで小規模であったとはいえ、それらは封建社会を変革するのに十分であったし、すくなくとも前進しつづけていたのだが、他方、貴族のほうは停滞していた。

 そのうえ、都市市民は、封建制度とたたかうための一つの強力な武器──貨幣をもっていた。中世初期の典型的な封建経済では、貨幣がはいりこむ余地はほとんどなかった。

封建領主は、彼の必要とするものはなんでも、労働のかたちでか、完成品のかたちで、彼の農奴たちから得ていた。女たちは麻や羊毛を紡いで織り、衣服をつくった。男どもは畑を耕した。子供たちは、領主の家畜の番をしたり、森の木の実や鳥の巣や敷藁を領主のために集めてきた。

そのうえまだ、家族全体で、穀物、果実、卵、バター、チーズ、家禽、幼畜、そのほかなにやかやを納入しなければならなかった。それぞれの封建領主領が自給自足していた。戦争のための給付でさえ、生産物で徴収された。交易、交換はおこなわれず、貨幣は無用のものであった。

ヨーロッパはごく低い水準に押しさげられてしまい、まったくふりだしから出なおすありさまだったので、貨幣は当時は社会的機能よりも、むしろ純然たる政治的機能を果たすほうがずっと多かった。つまり、貨幣は租税の支払いにつかわれ、おもに強奪によって獲得された。

 すべてこうした事情はいまや一変した。貨幣はふたたび一般的交換手段になっていたし、それとともにその量もいちじるしくふえていた。貴族ももう貨幣なしにすませることはできなかった。ところが、貴族は、売るような品物はほとんど、あるいはまったくもたなかったし、また強奪もいまではもうそんなにたやすい仕事ではなくなっていたから、市民の高利貸から借金をする決心をしなければならなかった。

騎士の城郭は、新式の火砲によって撃ちくずされるずっとまえから、すでに貨幣によって掘りくずされていた。じじつ、火薬はいわば貨幣の御用をつとめるたんなる−執行吏でしかなかった。

貨幣は、市民にとって政治的に平等に均(な)らすための大鉋であった。人格的関係が貨幣関係によって、現物給付が貨幣給付によって押しのけられたところではどこでも、ブルジョア的関係が封建的関係にとってかわった。なるほど農村では、圧倒的多数の場合に、古くからの、粗野な現物経済がひきつづきたもたれていた。

だが、オランダやベルギーや下ライン地域のように、島民が賦役や現物貢租のかわりに貨幣を領主に納めていて、領主・と領民が地主と借地人に移行する決定的な第一歩をすでに踏みだしていた地区、すなわち島村でも封建制度の政治的諸制度の社会的基礎が失われつつあった地区が、すでにたくさんあった。

 一五世紀末には封建制度がすでに貨幣のためにどんなにひどくその土台を掘りうがたれ、内部を食いあらされていたかは、このころ西ヨーロッパをとらえた黄金への渇望にまざまざと現われている。ポルトガル人は、アフリカの沿岸やインドや全極東で金をさがしもとめた。金は、スペイン人を駆りたてて、大西洋をこえてアメリカまでおもむかせた魔法の呪文であった。白人が新しく発見した岸辺に下りたつたびに、まずたずねるのは、金のことであった。

だが、金を求めてはるばると探検に出かけようとするこの熱望は、はじめはまったく封建的、半封建的な諸形態でおこなわれたにせよ、その根底においてすでに封建制度とあいいれないものであった。というのは、封建制度の基礎は農業であり、封建制度の征服戦役は本質上土地の獲得をめざしたものだったからである。そのうえ、航海は決定的にブルジョア的な営業であって、その反封建的な性格の跡は、すべての近代海軍にもありありとしるされている。
(エンゲルス「封建制度の衰退とブルジョアジーの勃興について」M・E八巻選集G 大月書店 p96-101)

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◎「貨幣は、市民にとって政治的に平等に均(な)らすための大鉋であった」と。