学習通信050924・25 合併号
◎女にしか使えない武器……

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ときには女の武器≠使うことがあってもいい

 二、三年前のことであるが、私よりはかなり先輩に当たる女性物理学者と話す機会があった。その先輩が生きてこられた時代は、私自身が生きてきた時代と比べて、女性にとってはよりきびしいものであったことは明らかである。彼女も独身でがんばってこられた人である。そのとき彼女は、自分が女性であるためにいくたの迫害を受けてきたと、例をあげて話された。国際会議で発表した時、女であるために最初から発表内容に偏見をもたれて低い評価しか得られなかったこと、外国の有名な偉い教授に議論を申し込んだ時、女であるためにばかにされて取り合ってもらえなかったこと、等々であった。

 彼女はまた、他の女性に対する批判的な意見も述べられた。「女にしか使えない武器」を使って、国際会議で論文を発表させてもらったり、国際会議の運営に口出しする人を見てきたけど、あのような女性がいるために、真面目にがんばっている女性もーまとめにして軽蔑され、「しょせん女は……」と言われることになるので、そういう種類の女性の存在は、真剣に取り組んでいる女性の足を引っ張ることになる、というのがその要旨であった。

 「女にしか使えない武器」とはいったい何なのかを、私は尋ねたかったのだけれど、その先輩の余りの剣幕に、ついに聞きそびれてしまった。その後も時折そのときのことを思い出し、そんな便利な武器があるのなら、もっと早くから教えてもらっておけばよかった、私も使いたかったのに、と考えていた。

 今春(一九八六年)わが家の次女が大学の法学部に入学した。理科系なら私がいろいろアドバイスもできるのだけれど、法学部の事情は分らないので、知り合いの教授に、会ってやってほしいとお願いした。その先生は、「僕のような年寄りが話すより、もっと年齢の近い人が良いでしょう」と言って、三年に在学中の女子学生を紹介してくださった。その女子学生は、家庭が貧しいため、高校卒業後就職して二年間働いて学資をため、そのあとで難関と言われるこの法学部に合格したのである。

現在は、成績優秀な学生に対する特待生扱いで授業料全額免除を受け、しかも学生職員として、毎日午後三時から十時まで大学の図書館で働いて生活費を稼ぎ、学業の方も立派にこなし、外交官試験を目指して着々準備中であるという、まるで修身のお手本にでも出てきそうな人で、その教授が絶賛して紹介して下さった。

 先輩に当たるその女子学生に会って話してきた日、娘は興奮気味で帰宅した。いろいろ感銘を受けてきたようであったが、なかでも「男性社会で生きていくためには、女の武器をフルに使うことよ。人間関係で困ったことがあっても可愛い顔でにっこり笑って」というアドバイスは、娘も予想していなかった類のものであったようだ。聞いた私も腰を抜かした。次の日、さっそく図書館に出かけてその女子学生に会ってみた。楚々とした、いかにも愛らしいお嬢さんで、この人ににっこり笑われたら、同性の私でも、大概の難題はかなえてあげるだろうと納得した。わずか二十そこそこで、このようなしたたかな処世術を身につけている事実にも感心したが、それを後輩にあっけらかんとしてアドバイスしてのける精神構造には、感動に近い思いを抱いた。

 女だけが使える武器などというものが存在すること自体、まだまだ男性中心社会であり女性はマイノリティである証拠ではないだろうか。もっとも、社長の娘と結婚して出世を狙うせこい男もいるけれど、こういうのも男の武器を使ったことになるのだろうか。

 女の武器というと、あまり芳しくない連想がなされるかもしれないが、男社会の中でマイノリティの立場をしなやかに逆手に取る方法は、いくらでもあるのではないだろうか。私の経験から言うと、国際会議での発表で、講演の内容に大差がない時には、講演の仕方を工夫して魅力的なものにすれば、数の少ない女の方が参加者の印象に残り、名前や仕事を記憶に留めてもらうのには有利であった。もちろん、講演の内容がしっかりしたものでなければ、いくら上手に話しても意味のないことは言うまでもない。

 仕事さえしっかりしていれば、男性に混じって働く時、女らしさを遠慮なく発散していいのではないだろうか。身なりや振舞いも好きなだけ女らしくしたいし、気持ちも、思いやりややさしさをいっぱいもっていたい。女性が差別されている社会構造であるかぎり、女の武器は有用であり、いかんなく利用して何が悪かろう。これは媚びとはまったく別物である。

 ただ、男も煩悩の動物、こちらが女らしければ女らしいほど、セクシャルハラスメントの起こる確率は高いだろう。しかしこれも、対応の仕方次第である。ヒステリックにぴりぴりする必要はない。機転のユーモアで軽く切り抜け、二度と繰り返させない毅然とした態度でのぞめば良い。肩の力を抜いて悠然とかまえていよう。

 将来、女性優位の社会になり、女性上司がハンサムな男性部下に「今夜付き合わないとこんどの人事で飛ばすわよ」などと言う日が来れば痛快だろうなあ。そう言われたハンサムな坊やは、「悩める男性のためのセクシャルハラスメント処理協会」に訴えるだろうか。それとも、男性の武器を使ってよいものかと考え込むだろうか。楽しみなことである。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p98-102)

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断わり上手

 「いやなこと」を、はっきり「いや」と言いきるのは、なかなかむずかしいものである。

 別荘地を売る会社の若い社員が再三すすめに来た。そのたびごとに断わっていたら、ある日、主任という人が来て「今日は金儲けを教えに来ました。別荘を建てなくてもいいから土地だけは、ぜひお買いなさい、絶対儲かります」

 と言う。そんなお金もないし、金儲けの趣味もないことを丁寧に説明して断わると、「嘘をついちゃいけません。金儲けをしたくない人間がいるはずはないし、女優だからお金はあるでしょう、それをどうしているのです?」
と喰いさがる。

 私は、税金を払ったのこりで生活して、それであまれば、仕事を減らして優雅に暮らすことにしている、と正直に答えた。押し問答の末、ではまた日を改めて──と言うので、お互いに時間の無駄だからと断わり、では友達に紹介してくれという申し出も、自分が好まないことを人にすすめる気はないから、と言いきると、さすがにあきらめてくれたが、かえりしなに振り返り、
「なるほどねえ、噂にたがわず、強いおばさんだ」
 そのひと言が、私の背中にズシンとこたえた。

「強い女」──今までにも何度か私はそう言われた。そのたびごとに、なんとなくいやな気がする。なぜかしら。
「強い女」は「情を知らない女」「意地っ張りな女」に通じる。男の人が、自分の思うことをはっきり言う女を非難するとき、もっとも効果のあるのは、おそらくこの言葉かもしれない。どんな女も、本当は心の底に「やさしい女」と思われたい願いをひそめているものだから……いくつになっても。

「やさしいひとだ」
 このひと言は、女の心の中に、甘酸っぱい嬉しさをふんわりとひろげてくれる。朝晩、鏡の中にうつる顔かたちは、どうあがいてみても、その衰えをかくしようもない。「その顔で……」「そのとしで……」そう言われることがどんなに悲しいか──女なら誰でも知っている。その辛さを救ってくれるのは「心のやさしさ」に対する賞め言葉である。

 だから、「いや」と思っても、つい、それを口に出しにくい。「よくわからないから……」などと返事をひきのばしているうちに、押しまくられて「ええ、じゃあ……、まあ……」そのあげく、ぬきさしならなくなってしまう。別荘の売り買いぐらいはともかくとして、周囲があんまりすすめるからといって気に染まない結婚などしてしまったら、自分ひとりのことではすまない。夫になったひとにも、産まれた子供にも、心にもなく不幸を背負わせることにもなりかねない。

 といって──「だから、いやなことは何が何でも断わればそれですむこと」と簡単に言いきれないところにむずかしさがある。まず相手の申し出が本当にいやなのかどうか──いやなら、なぜいやなのか、自分の心にたしかめる。そのうえで、やっばり断わると決めたら、誰が何と言っても断わる決心をする。そこまでは「強い女」でいいと思う。そして、相手の立場や気持ちをくみとって、断わったことによって、相手に負わす傷をなるべく軽くするように気をつかうのが「やさしい女」。自分の正直な感情や主張の正しさを、なんとしてでも相手にわからせたいと意気込みすぎて、相手にとどめをさしてしまうのは──
「強すぎる女」である。

「どうやら、ひと言多かったらしい……」
 土地会社の主任の名刺を掌にのせたまま、私はひとり、顔をあからめた。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p49-51)

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女性についての断章(―)

自分とは……である

 「女のひととき@唐ェあって男のひととき@唐ェないのは不平等だなあ」といったら、「男はしょっちゆうひとときもふたときももってるじやないの」とやりかえされた。ー言もなかった。──『赤旗』の「女のひととき」欄に何か書けといわれてのこと。

 というわけで、いまの世の中で「女のひととき」にまぎれこんだ男は、一般にひどく肩身がせまい。問題の欄の話ではない。女大勢のなかに男チョボチョボ、という場合、男はたいてい、いじけてしょぼくれている。さもなければ媚びを売る。

 さて、今度は当の欄の話だが、そこにひきだされた以上、せいぜいつっぱるほかはない、と覚悟をきめた。いじけるのはいやだし、媚びを売るのはなおいやだから。

 じつは、この「つっぱる」という表現は、私がある女性(二十四歳)の文章から借りてきたものだ。「私は、ある民主的芸能集団の一員である。私は女である。私は、つっぱってもやっぱり人恋しい乙女である」というのが、その彼女の文章だった。

 それは、最近あるきっかけから私があちこちで機会をとらえては試みているアンケート中のー項、「〈自分とは……である〉という要領で思いつくままに書いてください」への答だった。

 彼女のいう「つっぱり」のなかには、別の答──「私は人間である。私は女であるが、女≠ニいうわくぎめを越えたいと思っている女である。私は人間らしい人間でありたいと悩むものである」(二十三歳)、「私とは、労働者、女性、人間……である。私とは、常に前向きに生きたいと思いつつも、そのことが重荷になったりもする悩める女性である」(二十四歳)──と共通するものがふくまれていたろう。

男のしょぼくれ

 このアンケートは、女性だけを対象としたのではない。しかし、いろんな場所で数おおくとったが、自分が男であるということとのかかわりを軸として答えたものはほとんどなかった。反対に、白分が女であるということとのかかわりを軸として答えたものはかなり目立った。それはみな、二十三歳以上の女性であったことも思いあたるふしがあった。とにかく「女のひととき」欄があって「男のひととき」欄がない理由は、この結果に照らしても明らかだと思う。

 さて、ここで私はしょぼくれる。先に引いた彼女たちのことばに頭をたれながら、そのまま頭があがらなくなってしまうから。なんといっても「男社会」に生きている男、「男社会」にたいしてそれなりにつっぱってはいるつもりだが、そのつっぱりを彼女たちのそれと天秤にかけたら、支点を思いきり彼女たちの側によせないかぎり、釣り合うことはとてもむつかしいと自覚しているのだから。

 そんななかで、ふと飯沢匡さんの文章を思いだした。「男女同権とは、男のすでにやった誤りを女ももうーぺん通ってみせるということではないだろう」というのだった。(『我他彼此論』双葉社)女が男のようになることでもなければ、男が女のようになることでもない、とつけくわえてもよいだろう。

男のつっぱり

「女≠ニいうわくぎめを越えたい」という、先ほど引いた女性の発言も、つづけて彼女が書いていたように「人間らしい人間でありたい」ということで、「男のようになりたい」というのではなかった。その彼女の「人間らしさ」は、否応なしに彼女の「女らしさ」としてあらわれるにちがいないし、あらわれているにちがいない。「つっぱってもやっぱり人恋しい乙女」の姿の、なんとこの上もなく「乙女らしい」ことか!

 そういえば、こんなのもあった──「私は人間がとても好きな人間。おもしろい人間。人は男くさいというが、女です。私は真面目(馬鹿がつくほど)。わがまま、甘ったれ、さみしがり」(二十四歳)──この文章から浮かびあがる姿のなんとこの上もなく「女くさい」ことか! 彼女はアンケートの他の項への答に「私の社会とは、いま私が不安をもちつづけながらも変えてゆくもの」、「私の未来とは、強い母を望むが現在の社会では不安。でもたたかいつづけたいと思います(世界を変えるために)」とも書いていた。

 こんな女性に人間としての、そして女性としての魅力を感じない男は男のクズだ、というのが私の最後のつっぱりの弁である。そしてこの「つっぱり」というのは、無理してそう思うという意味ではなく、自然にパッとそう感じるのだが、それをまともにいうのが照れくさい、その照れくささをあえておしきって、という意味である。
 ──たれていた頭をもたげて、以上を書いた。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p176-179)

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いやなら、なぜいやなのか、自分の心にたしかめる。そのうえで、やっばり断わると決めたら、誰が何と言っても断わる決心をする。そこまでは「強い女」でいいと思う。そして、相手の立場や気持ちをくみとって、断わったことによって、相手に負わす傷をなるべく軽くするように気をつかうのが「やさしい女」。

自分の正直な感情や主張の正しさを、なんとしてでも相手にわからせたいと意気込みすぎて、相手にとどめをさしてしまうのは──
「強すぎる女」である。

「自然にパッとそう感じるのだが、それをまともにいうのが照れくさい、その照れくささをあえておしきって」……と。