学習通信050915
◎外からゼンマイを……
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エンゲルスからマルクス(在マンチェスター)へ
〔ロンドン〕一八七三年五月三〇日
親愛なモール
今朝は寝床のなかで自然科学について、次のような弁証法的なことが頭のなかに浮かんできた。
自然科学の対象──運動する物質、物体。諸物体は運動から引き離されるべきではない。それらの形態や性質はただ運動のなかでのみ認識される。運動の外にある物体、他の諸物体とのあらゆる関係の外にある物体については、なにも言うことはない。運動のなかにあってはじめて物体は、それがなんであるか、を示している。
それゆえ、自然科学は諸物体を、それらの相互の関係のなかで、運動のなかで、考察することによって、認識するのだ。いろいろな運動形態の認識が物体の認識なのだ。だから、これらのさまざまな運動形態の研究こそは、自然科学の主要対象なのだ。
1 最も単純な運動形態は、位置変動(時間のなかでのそれ、老ヘーゲルの気に入るように言えば)──機械的な運動だ。
(a)ただひとつだけの物体の運動は存在しない。とはいえ、相対的に言えば、落下はこのようなものとみなすことができる。多数の物体に共通なひとつの中心点に向かっての運動だ。だが、単一の物体が中心に向かうのとは別な方向に運動することになっても、その物体はやはり落下運動の諸法則に従うのだとはいえ、これらの諸法則は次のものに変化する。
(b)弾道の諸法則に変化して、直接にいくつかの物体の相互運動になる──惑星などの運動、天文学、均衡──一時的または外観的に運動そのものに。しかし、この運動様式の現実の結果は結局はつねに──運動する諸物体の接触であって、諸物体は互いに落下し合うのだ。
(c)接触の力学──接触し合う諸物体。通常の力学、槓杆、斜面、等々。しかし、接触はこれをもってその諸作用を果たし尽くすのではない。接触は直接にはふたつの形態で現われる。すなわち、摩擦と衝突だ。この両形態は、一定の強度と一定の状態とのもとでは新たなもはやたんに力学的ではない諸作用を生み出す、という性質をもっている。すなわち、熱、光、電気、磁気だ。
2 本来の物理学、これらの運動形態の科学は、各個の形態の研究ののちに、それらの形態は一定の諸条件のもとでは互いに移行し合う、ということを確定し、そして最後には次のことを見いだすのだ。すなわち、それらの形態はすべて、運動する物体の相違にしたがって相違する一定の強度に達すれば、物理学を越える諸作用、物体の内的構造の諸変化──化学的な諸作用を生み出す、ということを見いだすのだ。
3 化学。以前の諸運動形態の研究のためには、それらが生命のある物体でなされたかそれとも生命のない物体でなされたか、ということは多かれ少なかれどちらでもかまわないことだった。しかも、生命のない諸物体は諸現象をそれらの最大の純粋性において示すものだった。これに反して、化学は、最も重要な物体の化学的性質を、ただ、生命過程から出てくる素材についてのみ、認識することができる。だから、その主要な課題は、ますます、この素材を人工的につくり出すということになる。この課題は有機物の科学への過渡をなしているのだが、しかし、弁証法的な移行は、化学が現実の移行をすでになしたか、またはまさにそれをなそうとしているときに、はじめてつくり出されるのだ。
4 有機物──ここでは僕はさしあたりは弁証法にかかわりをもたない。
君はそちらで自然諸科学の中心に坐しているのだから、それがどうなっているのか、をいちばんよく判断することができるだろう。
君の F・E
もし君たちが、ここになにか真実がある、ということを信ずるならば、それについては語らないで、だれかくだらないイギリス人が僕からこの事実を盗み取ることのないようにしてくれたまえ。加工するにはまだたくさんの時間を必要とするだろう。
(M・E8巻選集D 大月書店 p321-323)
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物質と運動
世界は多様な姿においてある。これは否定しようのない感性的な事実である。この多様性のなかに統一性を見いだすこと、すなわち世界の多様性と統一性との同時把握──これがあらゆる世界観上の、ないしは哲学的な試みの、一致した目標である。
この目標を真に実現しうる唯一の路線が唯物論であること(観念論によってはほんとうには実現不可能であること)は、すでに述べた。唯物論は、世界を物質的に統一されたものとして理解する。
世界の多様性と統一性との唯物論的な同時把握のカナメをなすものは、物質と運動とがきりはなされえないものであるという認識、運動は物質の基本的属性であるという認識である。イオニアの自然学が、水、空気、火、等々を万物のアルケーとして、すなわち根元物質として指名したのは、何よりもそれらがもっともよく運動を本性とするものと考えられたためである。一八世紀のフランス唯物論が断固たる唯物論でありえたのも、物質と運動との不可分性の認識をその世界観のカナメにすええたことによるものであった。
基本的には唯物論の立場に立つ哲学であっても、この認識に不徹底さがあるかぎり、その唯物論が不徹底なものとならざるをえなかったということは、歴史の示すところである。この認識はそれほどに、唯物論にとって本質的なものである。論理の必然としてそうならざるをえないのである。
たとえば、一七、八世紀には、基本的には唯物論の立場に立ちながらも、同時に理神論者として立ちあらわれていた人が数おおくあった。ホッブズがそうであり、ヴォルテールがそうであった。理神論とは、神の存在を認め神による世界創造を認めるが、ただしその神を、個々人の運命に干渉してくる人格的存在とは認めず、世界創造のあとは舞台裏にひっこんでしまってもはや何事をもなすところのないものと見なす思想である。これによれば物質的世界は、ひとたび神によって創造されたあとは、純粋にそれ自身の法則のみによって動くもの、と見なされる。
こうした考え方が生まれたのは、一つにはすべての知的いとなみ、が神学という形態をとった中世の影がなお色濃く人びとの頭のなかに(もっとも開明的な人びとの頭のなかにさえも)落ちていたことによるものであろうし、また宗教と権力とが深く癒着していたのであるから、弾圧への顧慮ということもあったろう。そのために、事実上神を棚上げにしながらも、神の公然たる否定にまではいたりえなかったのであるが、しかし、もう一つ、理論内在的な理由があった。それは、物体の力学(=機械学)が当時のモデル科学であり、そのために彼らの唯物論が機械論という形態をとったことからくるものである。
すなわち、彼らは世界を巨大なゼンマイじかけの機械のようなものとして理解しようとしたのであるが、機械は一般に、みずからゼンマイをまくことはできない。外からゼンマイをまかれねばならない。とすれば、世界という巨大な機械のゼンマイをそもそものはじめにまいた力が、世界の外に想定されねばならなくなる。理論的に想定せざるをえないこの力、それが理神論者の神なのであった。
ディドロもやはり理神論者として出発している。しかし、彼はやがて理神論の枠をふみこえていった。「物体はそれ自身では作用も力もないものである」という「若干の哲学者たち」の意見を反ぱくして、彼はつぎのように書いている。「これはちゃんとした全物理学、ちゃんとした全化学に反するおそるべき誤謬である。それ自体において、その本質的諸性質の本性によって、物体はそれを分子として考察しても、分子の集合として考察しても、作用と力にみちている」と。
そして「物質に内的なこれらの力」から、「運動、というよりはむしろ宇宙全体の醗酵が生じるのを私は見る」と書いている。こうして彼は結論していう──「物質的宇宙の外部におかれた何らかの存在という仮定は不可能である。けっしてこのような仮定をしてはいけない。何となればそれからは何一つ結論することはできないから」と。
ラ・メトリもドルバックも、同様のことを強調している。一般に、運動を物質の本質的な属性と見なすことによって唯物論を徹底させえたところに、一八世紀フランス唯物論の歴史的な功績がある。
(高田求著「人間の未来への哲学」青木現代叢書 p168-170)
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◎「運動のなかにあってはじめて物体は、それがなんであるか、を示している」と。