学習通信050914
◎魅力ある幹部になろう……C
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実務について
車の運転のこと
「右折しようと思うと、交差点を視る、信号に注意する、方向指示器を出す、右足でブレーキをふむ、左足でクラッチをふむ、左手でチェンジレバーを入れかえる、右足でブレーキをふむ、左足でクラッチをふむ──細かくいいだすときりがない。その間も、車の流れや信号を注意しつつ、メーターを見たり、同乗の人と話したり、タバコを吸ったり、おまけにラジオをきいたり、ラジオのステイションを変えたりまで、これをほとんど自動的にやっている……」
運転免許をもっている人には自明のことだろうが、皆目車のことがわからない私には、これはぜひメモしておくべきことに思えた。何からのメモだったかは、もうおぼえていない。
ただおぼえているのは、これをメモしたとき私の頭のなかでは『十二年の手紙』のあるくだりが、そこに重なりあって浮かんでいたということ。すなわち、そのくだりとは──
「単純な良い生活というものは、簡素明瞭な文章のように味いのあるものといえる。……日常生活を単純に、アメリカ的事務処理力をもって上手に片づけること……こういう点で成長することは、忙しく煩雑さに満ちている現代生活で、尚余裕をもって多産的であろうとするにはごく大切なことだね。実験室的な空想的な単純生活でなく、生きた単純化の能力、煩雑な生活環境を平然と処理できるところの」(宮本顕治から宮本百合子へ、一九三六年七月二十五日)
「正しく事務的(コセコセではなく正しい見透しと確実な処理力)であることは、新生活者の不可欠条件だ……」(同、一九三七年五月七日)
アメリカ的事務処理能力
この「アメリカ的事務処理力」という表現は、「ロシア的な革命的進取の精神とアメリカ的事務能力との結合」こそがわれわれの仕事のスタイルであるべきだ、というスターリンのことば(『レーニン主義の基礎について』一九二四年)をふまえているだろう。スターリンは許すことのできぬあやまちをおかしたが、だからといってスターリンの口や筆を通過したことのすべてがあやまりだなどということにはならない。そもそも右の定式化は、必ずしもスターリンの独創によるものではない。少なくともその一年前にブハーリンが、「われわれはマルキシズム・プラス・アメリカニズムを必要とする」と述べている。(「プロレタリア革命と文化」一九二三年)
そしてそれは、レーニンが率先して力説していたこと──とりわけ新経済政策(ネップ)の時期に──であった。だからこそスターリンは、それを「レーニン主義的な仕事のスタイル」として定式化することができたのであった。
「地を焼く情熱」について
戸坂潤の最初の著作『科学方法論』(一九二八年)は、次のような文章ではじまっていた──
「空疎な興奮でもなく、平板な執務でもなくして、生活は一つの計画ある営みである。一定の出発と一定の目的とをもつ歩みで常にあるであろう」
「生活における実務の精神について」とも題することができるだろうこの文章のなかに私は、社会主義建設の課題に直面するなかでレーニンその他によって強調されていたことのこだまをききとれるように思う。
もっとも、この文章には一種のリズムがある。「……で常にあるであろう」というところにそれは集中して示されている。そしてそれは、観念がまだ十分思想化されていない──あるいは生活化されきっていない──ことを示しているように思う。しかしその観念は、まちがいもなく生活の方を志向していた。そしてその方向に戸坂は、着実に歩みだしていった。
八年後に戸坂は書いている──「文章がはずむ時は筆者と筆者の観念の方もまた、はずみで動いている時だ。これはあぶなかしくて見てはいられない」と。そんなのを「情熱に富んだ」言論みたいに思うのは「子供らしい観念」にすぎない。「地を焼くことができぬ情熱、が天を焦がすことなどできるはずがないのだ」(『思想と風俗』一九三六年)
「生活における実務の意義」という観念の思想化された表現を、ここに見ることができるように思う。
あるエピソード
戸坂は唯物論研究会の思想的統率者であり、そして実務的統率者でもあった。唯物論は彼において、実務の精神として生活化されていた。
その戸坂が司会する唯研の研究会に一度だけ出席した時の印象を、中野重治が書いていた。(『戸坂潤全集』月報5)
中野によれば、それは「肉体的に我慢しにくく」なるような報告であった。しかし戸坂は顔色も変えずに話を進めさせ、てきぱきと討論の舵をとっていって、しめくくりをつけた。──「相当の悪党だなという感じもあった」と中野は書いている。
「悪党」とはこの場合、ほめ言葉である。「大人(たいじん)の風格」「頭領(とうりょう)の器(うつわ)」とも書かれている。それにしても、この「悪党」という表現はおもしろい。それは、ある屈折した意識の表現でもあるだろう。すなわち「計画ある営み」としての生活についになじみえなかった中野──「思想としての実務」ということをついに生活化しえなかった中野といってもいい──の屈折した意識──それを自分の弱点として意識しながら同時にその弱点にいなおろうとする意識──の。
それはたいへんに皮肉なことでもあった──先に引いたブハーリンの一九二三年の演説は、中野その人の手によって日本語に移されていたのだったから。(一九二九年、白揚社『スターリン・ブハーリソ著作集』第九巻所収)
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p161-165)
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一九六三年七月二十五日
市ヶ谷刑務所の顕治から
駒込林町の百合子宛
昨日の夕方、といっても三時半ごろだが第二信(注、一
九三六年の)が届いた。そちらの生活のことが書いてあったので、いろいろの感想をもって読んだ。日常生活を単純にして、精力も有効に使うということは大変賛成だね、殊に手紙にあった女の人なんかに家の世話をして貰えるなら、ユリもどんなに幸福に近いか僕も思いみることができる。なくなった「詩人の良人」という人、どういう状態でなくなったのか知らぬが気の毒だね。
単純な良い生活というものは、簡素明瞭な文章のように味いのあるものといえる。昨年の春頃、ユリは手紙の中でいろくやりたい仕事が多いが、余り精力的でないょうに思うといった風の自省をもらして居たが(あの言葉は時々その後も想い起してみるのだが)ユリは十分に充実した、十分にエネルギシュな生活力を持っているのだ(その点どんなに自信をもっても大して持ちすぎにはなるまい)。
それなのにあんな述懐をもったというのは、一つは多産的なプランをもつ人にあり勝ちな自己に対して満足しない良い意味の反省のせいなのだが、一つは日常生活を単純に、アメリカ的事務的処理力をもって上手に片づけることに熟練が不足していることにもよるのだろうと思った。
この点、むろん僕も大きなことはいえないがね。だが、その後のユリの生活経験は、手紙にもあったようにきっとこの熟練を深めたことだろう。こういう点で成長することは、忙しく煩雑さに満ちている現代生活で、尚余裕をもって多産的であろうとするにはごく大切なことだね。
実験室的な空想的な単純生活でなく、生きた単純化の能力、煩雑な生活環境を平然と処理できるところの。
経済上のことでは、むろん本質的には筆一本で生活し、他の何ごとにも依存しないということは当然でもあるし、それがユリの永い将来の生活向上という点でも良いことだ。経済的にピーピーであること、また結構ではないか。ピーピーが今は普通なのだから、貧乏で苦労すればそれもまた無駄ではないよ。
バルザックは莫大な借金を返すために、夜昼も分たない筆一管の背水の陣をひいてあれだけ多産的であった(それだけではないとしても)とも云える。手紙にあるユリの心構えはいいよ。新しい生活人は、伝統的な便宜品にたよるべきではない。それに安座したら、いい生活もいい作品もむつかしいからね。
僕の方の差入等も決してそのための心配は無用だ。そんなことはそもそも本来的にはどちらにしても大したことではない。十分といい不十分といい、狭い範囲での相対的なことで、僕の如き生活を経てきたものには、云わば眼中にないことだから。僕は今までも人々の親切な好意は有難く無駄にしないできたが、日常身の廻りのものについてはそう思っている。からだが健康であるときでも、そうでないときでもそれに何の変りもない。
「健康」にしても健康のための健康でなく生活のための健康なのだから、生活のためにからだが悪くなればそれもまた一つの必然性なのだから別に驚きはしない。呉々も僕の世話のことで無理なことはしないように。いろいろ書きたいことも多いが次にしよう。暑いが気分は却って颯爽とする。
「附録」は愉快なニュースだった。太郎君猿が好きでなく面白い。十日前のくちなしの匂いはまだありやなしやというところだった。スエちゃんはどんな職業につくのですか。あまり度々氷嚢を使うほど疲労しないように。雪景色の写真はいいな。
(蒲団が机代用で、変な字の踊り)
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙」筑摩書房 p31-32)
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◎「生活は一つの計画ある営みである」と。