学習通信050910
◎魅力ある幹部になろう……A
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親の感情をつたえる
母親がいそがしいと、子どもの話をよく聞いてやらず、つい自分の主張をおしつける結果になりがちです。「おかあさんはいそがしいのよ。そんなことひとりでしてちょうだい」ということからはじまって、「おかあさんも小さいとき算数で苦労したの。だから勉強しなさい」「塾へ通いなさい」「○○をならいなさい」と、父親や母親の意見を一方的におしつけてしまいます。
生活が理づめでテキパキと処理されてゆくことはよいことなのですけれども、そのなかに子どもがなにを考えているかがわからなくなったり、情緒が不安定になってくると、ほんとうの親子の人間関係の交流ができにくくなります。母親のやさしさとか、親自身の持っている自然な感情にふれたとき、子どもは理屈で理解していた以上に強く心をゆり動かされることがあるものです。お天気のよい日、洗たくしたあとはなんとよい気持ちか、春さき道端のすみにヨモギが芽をふきだしたのをみるうれしさなど自然のなかで感じる感情、テレビをみての好悪の感情、こうした情感を親自身が大切にして、子どもに伝え、育てていきたいと思います。
東京の下町育ちのわたしは自然にふれる機会が少なかったのですが、三月のあの花ぐもりのようなボーッとした気候のころははだでモモの花とおひなさまを感じ、五月五日はショウブとカシワもちを持って男の子のいる家をたずねたくなります。いつの間にかそんな四季折おりの行事を自然の季節感のなかにもりこんで、いきいきと感じるようになっていました。子ども時代の遊びと行事、母親とのふれあいが、私たちを喜びや悲しみ、美しいものを直接的に感じ表現できる人間につくりあげてゆくのではないでしょうか。
お正月、一日を子どもといっしょに遊ぶ機会を得ました。羽根つき、百人一首、トランプから花札まで、親子で勝負に夢中になってしまいました。そのときのいきいきしてうれしそうな子どもの姿が心に残ります。春になったら少しの時間をつくりだして子どもとつみ草にもいってみよう、いっしょに笑ったり、走ったりしてみよう……とたのしみにしています。
私たちは、もっと子どをの願いや要求がわかる親に『なることが大切です。自然なふれあいのなかで、そういう親と子の関係がつくられるように努力したいと思います。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p34-35)
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「ある程度とけあう能力」を
組合幹部は大衆性を身につけるためには、大衆の気分・感情・不満・欲求に敏感に反応しなければならないことはすでにみてきましたが、敏感に反応するためには、大衆の生活、労働に深くはいりこまなければなりません。大衆の生活、労働に深くはいりこむためには、幹部は仲間と「ある程度とけあう能力」をもつことが大事です。
丘へ上がったカッパは、水を与えれば多少生きのびることはできても、職場からうきあがった幹部・活動家は、どんなに有能で、エネルギッシュであっても、その影響をひろく労働者階級全体のものにすることはできません。わたしたちは、どのような活動をするにしても、職場の労働者から絶対にうき上がってはなりません。
いま「技術革新」とはげしい「合理化」攻撃のもとで、職場は「砂漠」と化しています。そして労働者の気持ちにも、うるおいがなくなりかけています。こういうなかで、職場ではギャンブルがはやっています。マージャン、競馬、花札……。ギャンブルに夢中になっている労働者が多くなるということは、それだけ、組合運動にたいする労働者の関心がうすくなるということです。しかし、ギャンブルに夢中になっている労働者に、ギャンブルはけしからんといっても、ギャンブルをやめません。それでは、どうしたら、ギャンブルにこっているような労働者の関心をも、組合運動に向けることができるでしょうか。
このことは、労働者の自覚をうながすためには、どうすればよいかということです。馬を水槽のところへむりやりつれていっても水を飲みはしません。幹部は労働者のギャンブルをこのようにやめさせようとしても、それはできませんし、かえって反感を買います。労働者はなぜギャンブルに夢中になるのか、その本当の気持ちを知り、その気持ちと幹部はどう結びつくか、そこが核心です。
一般的にいって、ギャンブルに夢中になるのは、職場の暗さをふっとばそうとする気分と、ギャンブルの面白さ、実益がむすびついている点にあります。だから組合幹部は労働者の本当の気持ちをつかみ、それに結びつくためには、「ある程度」そのギャンブルの魅力を知ることも必要です。ギャンブルの内容を全然知らないでいて、ギャンブルにはこういう本質があるといっても、それはお説教になってしまいます。
かつて、こういうことがありました。競馬場の近くにある労働組合へ行ったときですが、そこの書記長は、競馬の開催日には組合の催しをしてもほとんど集まってくれない、というんです。「どうすればいいか」とたずねられましたが、わたしにも名案はありません。そこで、「あなたは競馬へ行ったことがありますか?」とたずねると、ないというんです。わたくしは、「あなたも、みんなと一緒に行って、みんながどんな気持ちをもっているかをつかみ、そこで考えてみたらどうですか」といって帰りました。
ここで大切なことは、「ある程度」とけあうということで、全面的にとけあっては、ミイラとりがミイラになってしまいます。あとで聞いたのですが、その書記長は組合員の気持ちをつかむために競馬場へ行ったが、そのままやみつきになってしまった、ということです。これは「ある程度」ではありません。どっぷりととけあってしまったわけです。組合幹部は、勉強しなければならない、活動もしなければならない、そして、職場の仲間の気持ちをつかむために、「ある程度」とけあわねばならないし、身体がいくつあっても足りないくらいです。
しかし、さまざまな思想傾向の労働者とともに要求で団結し、たたかい、労働組合を統一戦線の主力部隊になるまでたかめ、個々の労働者を労働者階級の偉大な歴史的使命に目ざめさせるうえで、組合幹部の役割は大きいわけです。したがって、組合幹部には、役割をはたすうえで、苦労はつきものですが、この苦労を苦労と思わない情熱が必要です。
仲間の気分・感情・不満に敏感な反応を
職場の労働者は、石や機械のような無機物の集まりではありません。気分・感情・不満・欲求をもった生きている人間の集まりです。だから、労働者を労働組合に組織し、また、組織の団結をつよめるためには、すでに組織され、また組織化の対象とされている労働者の気分・感情・不満・欲求を尊重することが大前提となります。
労働者のもっている気分・感情・不満・欲求を重視せず、もし組合幹部・活動家が自分の主観や都合で要求をつくり職場におしつけるなら、組織化はすすまないだけでなく、組織の団結を弱める結果になるでしょう。
労働者の気分・感情・不満・欲求はそのまま、労働組合の要求となるものではなく、幹部・活動家は、これらを基礎に圧倒的多数の労働者の共通性と、不満・欲求の本質は何かという見地から、労働組合の要求としてまとめなければなりません。
しかし、労働者のもつ気分・感情・不満・欲求の内容は多彩です。そこには、経済的なもの、政治的なもの、文化的なものなどがあり、これらを総合的にまとめあげないかぎり、その要求は圧倒的多数の労働者の気分・感情を反映しているとはいえませんし、それは、組織化と組織の団結をかためる前提とはならないということです。
組合の幹部・活動家が組織能力を身につけるうえで、もう一つ大切なことは、労働者の不満・欲求、要求は、労働者の自覚のたかまりに応じてたえず発展します。労働者の階級自覚がまだ低い段階では、彼らの気分・感情・不満・欲求は身近かな利害に根ざしたものが、圧倒的に多いのです。したがって、幹部・活動家は大衆の低いレベルの不満・欲求をもとにして要求をまとめあげることを、組織化と組織の団結強化の前提としなければなりません。
しかし、労働者はどんな低いレベルの要求でも、その要求で団結し、行動にたち上がることができたなら、労働者はその団結と行動を通じて、団結すべき仲間と、要求の実現をはばんでいる相手を正確に知るようになります。敵・味方の区別を知り、団結する仲間を自覚するということは階級的自覚のはじまりです。労働者の階級的自覚がたかまれば、彼らのもつ不満・欲求、要求のレベルもたかまります。このたたかいの過程で、幹部・活動家が宣伝・煽動と教育をたくみに結合することができれば、要求にもとづくたたかいと労働者の階級的自覚は発展し、やがて労働者は、労働者階級の歴史的使命を自覚するまでになります。
しかし、この過程は、ジグザグのコースをとり、けっして単調ではありません。労働者の階級的自覚のたかまりと労働組合運動の発展過程は、それは一直線にまた、なだらかなカーブをえがいて前進するものではなく、ピークと横ばい──時には後退──をくりかえしながら前進していくものです。組合幹部・活動家が、この運動の弁証法的な発展過程を法則的にとらえることができれば、個々の現象に一喜一憂せず、労働組合運動をすすめることができます。そして、この岩をもつらぬく労働者魂こそ、労働組合運動の最大の魅力であり、はげましとなり、組織化と組織の団結強化に大切なシンボルになるものです。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p24-29)
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◎「理づめでテキパキと処理されてゆくことはよいことなのですけれども、そのなかに子どもがなにを考えているかがわからなく」
◎「労働者のもっている気分・感情・不満・欲求を重視せず、……主観や都合で要求をつくり職場におしつけるなら……団結を弱める結果になる」と。