学習通信050906
◎美人の標準をメートル単位で……

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まえがき

 どういう本を読んだらよかろうか、ということは、一般的には決められません。どういう女を口説いたらよかろうか、という、だれにも通用する標準などあるはずがないのと同じことです。口説く相手は、時と場合、その人によって違うでしょう。美人の標準をメートル単位ではかって決めて、第一位に賞品を授与するのは勝手ですが、それとこれとは話が違う。第一位だから口説く、第十位だから口説かないというものではないでしょう。

 たとえば、歴史的にみて影響の大きかった本を考えることはできる。だから、それを読んだほうがよかろう、というものではありません。『源氏物語』の影響は大きかった、ということにだれも異存はないとして、いまの日本の小説家のなかで、『源氏』を読んだ人を数えるほうが、一度も読まなかった人を数えるよりも、よほどはやいでしょう。小説家でさえも、──まして一般の読者は、ということになります。

 なにも文芸だけが読書の対象ではありません。文芸にはとにかく古典というものがあるけれども、自然科学や社会科学では、同じ意味で古典を考えることはむずかしいと思います。また現代人の読むものの大きな部分は新聞・雑誌でしょう。一般に読書の話をする以上、そういうものの全体を考えるのが当然です。じじつ、この本のなかで具体的な例としてあげてあるのは、文芸ばかりでなく、自然科学、社会科学、歴史、哲学、新聞・雑誌のすべてにわたっています。そこで、どういうものを読んだらよろしいか、ということは、論じようがない。そういうことは論じてありません。

 しかし、どういう女を口説いたらよかろうか、ということが一般的に言えないとしても、それはかならずしも、どう女を口説いたらよかろうか、という議論ができないということではありません。古来「手練手管」というものがある。古来、女心というものがある以上、それがあたりまえのことでしょう。なにを読んだらよいかは、一般論として成りたたない。どう読んだらよいかは、一般論としても成りたちます。すなわち「読書術」です。相手によって、こちらの方策も変えなければならないでしょうし、こちらの望みによって、とるべき手段を考える必要もあるでしょう。しかしとにかく、あの手、この手を考えることができるはずです。

 この本は、いわば本という相手に対して私が用いてきたあの手、この手を、だれにもわかりやすく書いたつもりです。しかし、だれにもわかりやすいこととは、はっきり表現されたことにほかならず、はっきり表現されたこととは、古人も言ったように「よく考えられたこと」にほかならないでしょう。読書においていちばん大切なことだ、といってもよいかもしれません。少なくとも、私はそのつもりで書いたので、──その結果は読者の判定しだいということになるでしょう。

 私は、手あたりしだいに本を読んで、長い時を過ごしてきました。そういうのを世の中では「乱読」というようです。「乱読」の弊──しかし、そんなことを私は信じません。「乱読」は私の人生の一部で、人生の一部は、機械の部品のように不都合だから取りかえるというような簡単なものではない。「乱読」の弊害などというものはなく、ただ、そのたのしみがあるのです。「手練手管」の公開、すなわち、わがたのしみの公開ということでしょうか。
(加藤周一著「読書術」岩波現代文庫 p3-5)

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うちの子もテレビっ子

 とかく人間は極端になりがちなものです。「テレビは、一億総白痴化だ」と大宅壮一氏が言いだしたころ、多くの心ある親たちは、借金をしても買わねばならないと思っていたこの「怪物」を、しばらく見合わせました。高校入試をひかえた息子がすこしも勉強しないという理由で、短気な私の知人は、異常な決意をしてテレビをこわしたのでした。「おやじのやつ頭にきたらしいが、馬鹿なことだ。どうせとなりのおばさんに言えば、いくらでも見れるのに」と、後日、知人の息子は私に言いました。

 うちのむすめ(当時六才)にかぎって、まさかそんなことはあるまいと、たかをくくっていたわたしでしたが、家に帰ってお手伝いさんに(共稼ぎのため)聞いてみて、じつは対岸の火事でなかったことに気がつきました。むすめは幼稚園から帰ると、テレビのある友だちの家にいったきり、夕食時になっても帰らないことが多いというのです。ある日など、「ともちゃんちでも、テレビ買えばいいのに、うちのテレビへるわ」と、友だちにいじわるいわれたといって泣いてきたということでした。日ごろ、民主運動だ、子どもを守ろうなどと、かけずりまわって英雄気取りだったわたしは、頭をがくんとたたかれた思いでした。さっそく、妻と相談して、義兄の知人の店から二年月賦で入手しましたが、このとき以来、私はテレビについて深刻に考えるようになりました。

 ところが、わが家の現在はどうでしょうか。あいかわらず、私たち夫婦は帰りがおそくて夕食を子どもたちと一しょにできない日が多いのです。偶然に早く帰ることがあって、「きょうは、子どもたちと一しょに食事をしよう」などと殊勝な気持でいると、がっかりさせられます。どんなに呼んでも、隣室のテレビに吸いこまれた子どもたちは、返事はおろか、泥棒がはいってきても、気がつかない状況なのです。よく調べてみますと.五時ごろから九時まで毎日、マンガや子ども番組があり、どこかのチャンネルをまわせば四六時中、テレビとにらめっこできる仕組みになっています。それだけなら、まだよいのです。「これが青春だ」とか、おとな向けの番組までが、子どもたちの興味をそそっているのです。まさに子どもたちは、テレビに引きまわされているさるまわしの「さる」も同然と言っていい状況にあります。

 現代の子どもたちが、このような環境のなかで育っているという事実を、まずわたしたちはおさえておく必要があります。もちろん、そうだからといってテレビ無用論を支持するというのではありません。テレビが正しく活用されたばあいの積極面も評価されるべきです。テレビは、われわれに映像=視覚と耳=聴覚でものを知らせます。また現象的ではあっても、たくさんの事物・事象に接することができるので、間接経験は戦前の子どもとは比較にならないほど豊富になっています。しかも特定の時間、時には瞬間的にたった一回で事物を認識しなくてはなりませんから、子どもたちの直感力はするどくなっています。また、テレビの普及率の上昇によって、農村と都市の子どものものの見方、考え方の幅の共通性も生まれてきています。

 ただ、ともするとその反面では、テレビで得られるある意味で安易な理解方法になれてしまい、「立ち止まって考える」という、読書のもつ深みはかけてきています。

 しかし、逆に映像に強くなった子どもたちが読書の「味」を知ったときには、はるかに戦前の子どもより早くしかも的確に事物や事象を読みとります。ですからたいせつなのは、テレビ(映像)と読書(活字)を結びつけてやることです。そのためには、なんといっても子どもたちに読書の「味」を知らせることです。保谷市A小学校二年生の男の子は、テレビっ子で困っていました。ある日、『ぼくは王さま』(寺本輝夫作・理論社)のテレビを見てたいへんよろこんでいました。お母さんはその機会をのがさず、この本を求めて、「読みきかせ」をしました。

 「なんだ、本のほうがずっとおもしろいや」と子どもは驚喜しました。活字を読んで頭に映像を描く読書が、人のつくった映像(テレピ)を見るのとはちがった感動を生むことをこの子ははじめて知ったのです。このばあい、ちよっとした母親の機転が子どもを本好きにする契機になっていますが、こうした機会はすべての子どもたちにあります。とくに学級活動では、日常にころがっているといえましょう。(K)
(代田昇著「子どもと読書」新日本新書 p29-32)

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読書について

駅のホームから

 駅のホームから眺めるともなく町を眺めるのはいい。
 生活の断片がそこにある。額縁に区切られた画(タブロー)のようなぐあいにそれが眺められる。

 はじめての土地のはじめてのホームから、はじめての町並みを眺めるのもいい。さまざまな想像をそれはかきたてる。異星のステーションに降りたってあたりを眺めやるときの気もちにも通うものが、たぶんそこにはあるだろう。

 しかし、なじみのホームからなじみの光景を見やりながら、ふと新しい発見をするのもうれしい。

 駅のホームにではなく、まったく別の場所にいるとき、ふとそのホームからの光景が頭によみがえってくることもある。そして、それを見つめているうちに、新しい発見をすることもある。それは、私が無意識のうちにそこにもちこんだものである場合もあるが、それはそれで、やはり一つの発見であるだろう。画家が風景を描く場合にも、似たようなことがあるのかもしれない。

 筆が独り歩きしてしまったようだ。山手線の高田馬場駅のホームからかつて見なれていた一枚の看板を私は思いだしていたのだった。

ある質屋の看板のこと

 それはある質屋の看板で、ワルト・ホイットマン(と思われる人物)のひげ面を大きく描き、その下(だったと思う)に「草の葉主義」と横書きされていた。「何でも結構」とまで書きそえてあったかどうか、たぶんそれはなかったと思うが、意味はそういうことだと受け取れた。ホイットマン、この十九世紀アメリカの国民詩人、アメリカン・デモクラシーの宣言者の詩集『草の葉』は、「私は何物をも拒まない」という主張によって貫かれていたのだから。

 だが、いつの頃からか、この質屋は「草の葉主義」の看板をおろし、かわりに男女の裸像がすもうをとろうとしている俗悪な「ポルノ噴水」をおったてた。「いつの頃からか」と書いたが、それが「高度経済成長」とつながっていたことはまちがいない。それもはじめは、妙になまなましい肌色の裸像だったのが、二、三年ほど前から金色と銀色に塗りたくられたものにかわった。それにしぶいていた噴水もここのところはとまり、しぶかれながらぐるぐる回っていた裸像の回転も、機械が故障したのかどうか、とまったままになっている。それを目にするのが、私にはわびしい。

 また筆が独り歩きしてしまった。私は読書について書こうとしていたのだ。本の読み方について意見を求められることがあって、そのとき「読むのはすべてを読め」という戸坂潤の言葉(『読書法』一九三八年)を思いだし、そこから「草の葉主義」の看板に連想が走ったのだった。

読書における「草の葉主義」

 読書は人生のようなものだ、と私は思う。人生は、まず目的があって生きるのではない。まず生きる。そのなかから目的も生まれてくるのだ。読書も同じ。もちろん、はじめから目的をもってなされる読書もある。しかし、それだけに読書がつきるのではない。読むなかから自然に目的も生まれてくる、そういう読書だってあるはずだし、それがまず基本にあるべきだと思う。

 「しょっちゅう出歩く子どもがいた……見るもの聞くもの触れるもののすべてを彼は自分の一部として自分のなかにとりこんだ」といった趣旨の詩が『草の葉』のなかにあったが、「すべてを読め」とは、こういうことであるだろう。

 もちろんそれは、他人が読むもののすべてを、ということではない。「他人が読むからという理由で読むのは、ヤキモチの一種である。……自分は自分の本を読むべきであって、他人の読む本を読むべきではない」と戸坂は書いている。自分は自分の人生を生きるべきであり、他人の人生を生きるべきではない。

 ただし、その自分の人生は、「自分」のなかに閉じこもったものであってはならない。それでは「自分」の成長ではない。「ヤキモチ」からではなく、旺盛な心の食欲から、好奇心から、「しょっちゅう出歩く」こと、「すべて」に接触することが必要なのだ。

読む順序と「メモ」のこと

 その出歩き方にはじめからきまった順序はない。自分流に歩き出せばいい。「読むのはすべてを読め、読む順序は独断的であれ」というのが戸坂の言葉であった。「読む順序は独断的であれ」とはそういうことだろう。次のように戸板はつづけている。

 「読む順序のシステムは、教程のように初めから人工的にはきまらない。次から次へと自然に導かれるべきである。次の本を選ばせるだけの暗示を与えない本は、その当座は自分に役に立たぬ、身に添わぬ本と思えばよい。そして次のは、割合にあてズッポーに選べばよい。問題にひっかかってくると、本の選択などは本自身が教えてくれるだろうと思う」

 人生は即興劇、そして読書もまた人生のようなもの、といえば蛇足になるが、そういうわけだからメモをとりながら読書するなどいらぬこと、と蛇足に蛇足をくわえてもいいだろう。そうしたことが必要で有意義な場合だっていくらもあるということは、このさい別のことだ。

 「私のメモ帳から」と題して書きつづけてきたが、じつは私には「メモ帳」をもつ習慣がない。「私のメモ帳」の「メモ」というのの大部分は、もっぱら「自分の本」をもっぱら「独断的」に読んできたなかで、意識の水面下にいつのまにかたまりこんでいたというだけのものだ。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p143-146)

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◎「「乱読」は私の人生の一部」「読書は人生のようなものだ、と私は思う。人生は、まず目的があって生きるのではない。まず生きる。そのなかから目的も生まれてくるのだ」と。