学習通信050905
◎ジュウゴエンゴジッセン……

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亀戸事件忘れない
東京・江東区 82周年追悼会

 戦前の戒厳令の下で起きた弾圧事件の一つ、亀戸事件の八十二周年追悼会が四日、東京・江東区の赤門浄心寺で開かれ、四十人余が参列、「亀戸事件犠牲者之碑」に献花しました。事件を風化させぬよう毎年おこなっているもので、亀戸事件追悼会実行委員会が主催。

 亀戸事件は一九二三年九月一日に起きた関東大震災の混乱に乗じて、天皇制政府が社会主義者らを殺害した事件。日本共産青年同盟委員長で南葛労働会員の川合義虎や、純労働者組合の平沢計七ら十人が亀戸警察署で虐殺され、六千人以上の朝鮮人や中国人の虐殺事件も発生しました。

 追悼会で、今井栄一実行委員長が「戦後六十年、九条が重大な段階にあるが亀戸事件の真実を生きた力に共同の輪を広げたい」と主催者あいさつ。日本共産党東京都委員会の河野ゆりえ都議、日本民主青年同盟中央委員会の稲津浩一常任委員、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の針谷宏一中央本部事務局次長が追悼の言葉をのべました。

 追節会に先立ち、川村俊夫・憲法会議事務局長が「憲法改悪と『非常事態』──戦前を繰り返させるな」と題して記念講演しました。
(しんぶん赤旗 20050905)

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一五円五〇銭

なまなましい関東大震災の恐怖

 日本は地震の多い国である。外国人はこの日本名物をひどくこわがるが、むろん日本人自身もこわい。とくに最近の東京や大阪をはじめとする過密都市で、もし大地震がおこったら、どんなひどいことになるだろうかと心配である。しかも、専門の地震学者のなかには、関東大地震六九年周期説を唱えるひとなどもいて、ソロソロ近づいてきたからそのつもりで、とうす気味の悪い警告をしてくれる。

 わたしが関係している日本科学者会議でも、科学の力で可能なかぎり国民生活を守ろうという見地から、多数の専門家や関係機関の協力を得て、『東京の地震を考える』という本を編集した。かなりよく売れているところからも、多くのひとが共通の不安をもっていることがうかがわれる。とくに、ときどきグラリと揺れるたびに、注文の電話が事務所にかかってくるので、わたしたちは、地震はないほうがいいし、本は売れたほうがいいし、苦笑いを禁じえない。

 さて、一九七三年九月一日は、関東大震災の五〇周年にあたる。体験者はだんだん少なくなっていくが、いまだにそのときの恐怖がなまなましく語られる。天災と人災とのちがいはあるが、太平洋戦争下の各地の空襲や広島、長崎への原子爆弾投下による被災と同じように、国民的体験として日本人の記憶からは消えない。

支配階級による三つのテロル

 ー九二三(大正十二)年九月一日午前十一時五十八分、関東地方一帯を震度六(マグネチュード七・九)のはげしい地震がおそった。震源地は相模湾の北西部であったが、東京、横浜などの大都市は全滅と伝えられたほどの損害を受けた。一日に死者二〇万、被害は当時の金額で一〇〇億円といわれたが、とくに火災による被害が大きかった。東京の下町は火の海となった。東京の死者は六万以上を数えたが、そのうち地震による圧死は二、〇〇〇人余で、他はみな火事による犠牲者であった。現在、震災慰霊堂の建っている本所の陸軍被服廠跡の広場では、三万八、〇〇〇人以上が、周囲を火にとりまかれて焼け死んだ。当時の東京市の人口二二六万五、〇〇〇余人のうち、罹(り)災者は一六〇万四、〇〇〇人にのぼった。

 このように未曽有の大災害であったが、天災としておこった地震が、都市計画の立ちおくれから大火事という人災に拡大したばかりでなく、この社会的大混乱のなかで、支配階級が手を下した三つの血なまぐさい白色テロル事件によって、関東大震災の悲劇はいっそう深刻かつ陰惨なものとなった。それは、第一に、在日朝鮮人の虐殺事件であり、第二は、亀戸(かめいど)事件であり、第三は、大杉栄夫妻殺害事件である。

 九月二日、福田雅太郎大将を司令官に、被災地に戒厳令が布かれた。そのころから、朝鮮人が暴動をおこした、朝鮮人が井戸に毒を投げこんで歩いている、などのデマがとびはじめた。市民は、在郷軍人(軍隊がえりの民間人、必要に応じて兵役に動員される)を中心に、自警団を組織して、木刀や竹槍で武装した。なかには家に伝わる日本刀を腰にぶちこんではち巻姿で街かどに立つものもあった。軍隊、警察にこの自警団員も加わって、不逞鮮人℃りがはじまった。虐殺された人数は六、〇〇〇人以上にのぼるといわれている。

一五円五〇銭いってみろ

 当時、伊藤圀夫という早稲田の学生が干駄ケ谷に住んでいた。朝鮮人の暴動がはじまったといううわさをきいた伊藤君は、近所へ偵察に出かけて、自警団につかまった。見なれないやつだが、お前の人相からすると朝鮮人だろう、そうでないというなら、神武天皇いらいの歴代天皇の称号を唱えて、日本人だという証拠をみせろ、とつめよられた。彼は、学校でたたきこまれた記憶を死物狂いで呼びおこして、ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトクと唱えた。これ以上思い出せない、もうダメか、というどたんばで、出入りの酒屋の御用聞きが通りかかって身元の証明をしてくれて、いのちびろいをした。伊藤君は、のちに演劇人となったが、千駄ケ谷に住んでいてコリアン(朝鮮人)とまちがえられた深刻な体験を一生忘れまいと考えて、千田是也(せんだ・これや)という芸名をえらんだ。

 これと似たような光景を、詩人の壷井繁治が経験した。社会主義者であった彼は、東京を脱出したほうが安全だと考えて、屋根まで避難民であふれる列車にもぐりこんだ。

汽車が駅に着くたびに
剣付鉄砲がホームから車内をのぞきこんだ
怪し気な人間がもぐりこんではいないかと
あれは、いったいどこの駅だったろう
僕らの汽車がある小さな駅にとまると
例の通り剣付鉄砲の兵隊が車内検索にやってきた
彼は牛のように大きな眼をしていた
その大きな限で車内をじろじろ見まわしていたが
突然、僕の隣にしゃがんでいた印絆天(しるしばんてん)の男を指して怒鳴った
──一五円五〇銭いってみろ!
指された男は
兵隊の訊問があまりに奇妙で、突飛なので
その意味がなかなかつかめず
しばらくの間、ぼんやりしていた、が
やがて立派な日本語で答えた
──ジュウゴエンゴジッセン
──よし!
剣付鉄砲のたちさった後で
僕は隣の男の顔を横目で見ながら
──ジュウゴエンゴジッセン
ジュウゴエンゴジッセン
と、何度もこころの中でくりかえしてみた
そしてその訊問の意味がようやくのみこめた(『一五円五〇銭』)

惨殺された大杉や労働運動家

 朝鮮人暴動のデマの出所は、軍隊や警察であったと判断される資料がある。日本の支配階級は、一九一〇(明治四十三)年、「日韓併合」によって朝鮮人から祖国を奪った。一九一九(大正八)年の三・一独立闘争を、流血の弾圧でおさえつけた。スネに傷をもつ日本の支配階級は、朝鮮人を軽蔑しながら恐れていた。多くの朝鮮人が、生きるためにしかたなく日本内地に流れこんできて、下層の労働者として貧困と屈辱のなかで暮らした。帝国主義支配民族の一員として、帝国主義の毒にそまった少なくない日本国民が、この植民地の人民を差別し、さげすんだ。こうして大震災の混乱のなかで、多数の在日朝鮮人が、支配階級のデマに乗せられた日本の民衆の手で虐殺された。

 九月四日夜半、労働者の街にある亀戸警察署のなかで、九人の労働運動家が、軍隊の銃剣で惨殺された。殺された九人は、純労働者組合の平沢計七(三四)、南葛労働会の川合義虎(ニニ)、同じく鈴木直一(二二)、北島吉蔵(二二)、山岸実司(二一)、近藤広造(二〇)、加藤高寿(三〇)、吉村光治(二四)、佐藤欣次(ニ○)で、大部分が二〇歳そこそこの若者、いずれも労働運動の戦闘的な幹部や活動家であった。平沢計七は、『風雪のあゆみ』にも語られているとおり、野坂参三議長とウマのあった、文学にもすぐれた才能をしめしたきっすいの労働者であった。川合義虎は、共産主義青年同盟(今日の民主青年同盟の前身)の初代委員長の任にあった革命青年であった。彼らはそれぞれ、震災にあったわが家の修理や、親類や同志たちの救援などで、いそがしく活動しているさなかに、突然警察にひっぱられ、軍隊の銃剣のえじきにされたのであった。

 地震の少し前、この年六月に、日本共産党の第一次検挙があり、渡辺政之輔、徳田球一、野坂参三らのおもだった党員は、市ケ谷刑務所の未決監につながれていた。このためいのちびろいしたといえるかもしれない。もっとも、刑務所も地震で危険であったうえに、ここにも軍隊が押しかけてきて、共産主義者をわたせと要求したが、刑務所長が断わったので事なきを得たという、危機一髪のせとぎわがあったことを、野坂議長の回想は伝えている。

 九月十六日夕方、当時アナーキスト(無政府主義者)としてマスコミの名士であった大杉栄(三八)と妻の伊藤野枝(二九)が、おいの橘宗一(六つ)をつれて外出から帰ったところを、淀橋警察署員の案内で張りこんでいた東京憲兵隊麹町分隊長の廿粕正彦大尉らによって巡行された。そして大杉夫妻は甘粕大尉にしめ殺され、なんのかかわりもない宗一少年までが殺され、三人の死体は憲兵隊構内の古井戸に投げ捨てられた。

 三人の死囚についてはピストルで射殺という説もあるが、軍法会議にかけられた甘粕大尉の供述による公式発表は右のようになっている。甘粕大尉は、当時の新聞記者が茶番劇≠ニ評したとおりの裁判の結果、懲役一〇年のきわめて軽い判決をうけた。そして、獄中で優雅な生活を送った甘粕は、四年ほどで釈放され、フランスヘ洋行などしたのち、「満州国」にわたって、指導者となって活躍したが、太平洋戦争の敗戦のどさくさのなかで、もはやこれまでと毒を飲んで自殺した。

 震災の前年、支配階級は、高揚してきた労働運動、社会主義運動にそなえて、過激社会運動取締法案を議会に提出したが、広範な反対運動にあって流れた。ところが震災のどさくさに乗じて、政府は九月七日、治安維持のための緊急勅令を公布した。これは、やがて一九二五(大正十四)年の治安維持法に発展した。このように、関東大言災は、日本の民主主義をきびしくためし、その暗黒面、マイナス面を表面につき出した。それから半世紀の歳月が流れたが、日本の政治や日本人の精神は、どの程度に改善されたといえるだろうか。

 一九四八(昭和二十三)年、福井市で公安条例第一号が公布されたが、それは、北陸地方の大地震による混乱を口実にした大衆運動にたいする政治的攻撃であった。また、朝鮮人にたいするいわれのない偏見や差別感、在日朝鮮人の人権侵害、さらに共産主義運動にたいするアカ攻撃≠ノ同調するようなおくれた意識を、今日の日本人はどこまで克服しているであろうか。わたしたちが、地震を恐れる気持ちのなかには、関東大震災のなかでの白色テロルのいまわしい記憶が含まれているのである。
(塩田庄兵衛著「歴史の道しるべ」新日本出版社 p67-74)

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◎「支配階級が手を下した三つの血なまぐさい白色テロル事件」……