学習通信050901
◎ニタニタした表情で体をくねらせ……
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おかあさんをかえた子どもの本
すぐれた児童文学作品は、子どもだけのものではありません。一さつの本、一つの作品が、子どもを見るおかあさんの目をかえることだってできるのです。
去年の四月のことでした。小学校三年生を担任している岡田先生の学級に賢明君という子が転入してきました。休み時間の賢明君は、ほかの子と別段かわらないのですが、授業が始まるとまるで別人のようになってしまいます。席にすわった賢明君は、ポカンとした表情で、少し口をあけています。いかにも無気力な感じです。ごくやさしい質問にも、ニタニタした表情で体をくねらせるばかりで、いっこうに要領をえません。
岡田先生は長年の経験から、母親の過保護(手のかけすぎ)が原因だと直感しました。五月に家庭訪問をしてわかったことですが、おかあさんは賢明君が三年生になった今でも、衣服をぬいだり着たりするのを手伝っていました。おかあさんは、時間わりをそろえるのも手伝います。ちょっと気をゆるすと、賢明君は教科書でもノートでも筆箱でも、平気で忘れていってしまうのです。授業中は無気力な賢明君も、家に帰ると近所の小さい子をよく泣かせます。そういうとき、おかあさんは、泣かされた子の家へお菓子などを持っておわびにいくのです。
岡田先生は、賢明君をたちなおらせる対策を考えました。まずたいせつなのは、学級の子どもたちに賢明君をキチンとさせようという課題をあたえることです。とくに賢明君の班の子たちには、この課題に真剣にとりくむように話しました。
おかあさんにも協力してもらう必要があります。家庭訪問のとき、岡田先生はおかあさんに次のように話しました。まず衣服をぬいだり着たりするのを手伝わないで、自分でやらせること、それがひととおりできるようになったら、時間わりを自分でそろえるようにだんだん手伝うのをへらしていくこと、またけんかをしたときにも、特別なばあい以外は賢明君にまかせて、おかあさんが自分でのりだすようなことはやめたほうがいいということでした。それからより本質的な解決のためには、学級の子どもたちの助けをかりることがどうしても必要であるということも話しました。
ところで、おかあさんは、先生の助言をそのまま信用することができなかったようです。もし自分で着物をぬいだり着たりしなければならないとしたら、賢明君は毎朝遅刻してしまうでしょう。忘れ物だって、おかあさんが気をつけてあげなかったら、賢明君は学校でどれほどはずかしい思いをするでしょう。こうした心配を完全にぬぐいさるわけにはいきませんでしたが、おかあさんも少しずつ自分でやらせるように努力し始めたようです。賢明君は、学校の中で少しずつかわり始めました。ときどき自分からすすんで、手をあげて答えるようになりました。そういうときには、ほかの子のばあいよりも強い拍手が賢明君におくられました。
今年の三月、岡田先生は『頭の先と足の先』(山中恒作・講学館)をぜひ読むようにと、おかあさんに手紙を書きました。母親の過度な保護によって、足の不自由な少年マサルの心はすっかりゆがんでいます。そのマサルが、友だちとのぶつかり合いのなかでたちなおっていくという小学校上級向きのとても感動的な物語です。春休みに岡田先生のもとへ、賢明君のおかあさんからこんな手紙が届きました。
「……届けられた本を読ませていただき、あっ≠ニ思いました。賢明を、マサルのように一種の精神的不具者に仕立てていた自分に気づき、母親の盲目的な愛情がどんなにその子の負担になるかとゾッとしました。(中略)過日、六年生を送る地区子ども会の練習のときにも、『つまらないから行かない』といっていた賢明を何人ものお子さんが迎えに来て、大事にして仲間にいれてくれました。いつも賢明に泣かされているお子さんたちばかりなのにどういうわけでしょう。性格的不具者の子(自分の子をこのように育てて、こう申すのは子どもにすまないのですが)にたいする同情心とか正義感なのでしょうか?
従来の私でしたら、すっかり感激してお菓子などをその練習場に持っていったことでしょうに、今回はそれをがまんして、子どもにまかせることができました。(中略)この一年間をふりかえってみますと、友だち仲間の連帯責任から子どもの自主性をのばすという先生のお考えのもとに、賢明が変化し、進歩しつつあることをたしかめることができます………」
賢明君をさそいに来た子どもたちへの評価にみられるように、このおかあさんの心にはまだ不安が残っているのは事実です。しかし、それにもまして、一さつの児童文学作品がおかあさんの心を大きくゆり動かし、変化させたことをこの手紙は物語っています。(H)
(代田昇編「子どもと読書」新日本新書 p16-19)
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ためらい、えらぶ時間を
母親……それじゃ買ってあげるけどね、そのかわりこんどのお休みの日がくるまで何も買ってちょうだいっていわない?
子ども……(無言)。
母親……いいわね、お約束できるわね。
子ども……(無言でうなずく)。
これで、子どもと話しあって約束したなどと思われてはたまりません。子どもの側には話しあい、約束などの意識は少しもないのです。どうせ、おしつけるなら、はっきりと「……してはいけません」「……しなさい」といってしまった方がよろしい。
「どっちかひとつだけ買ってあげる。どっちにする?」
「遊びにつれていってもいいけど、こういうことはダメ。それでもいいかどうかよく考えてみてちょうだい」。
こういったあと、子どもがためらい(考え)、きめるための時間を与えなければなりません。そして子どもの要求が表明されたとき、それを受けいれる用意をもっていなければなりません。さもないと、子どもはためされているだけで、話しあっていることにはならないのです。
親子のあいだで、なにか物や現象をはさんで話しあう、いっしょになにかしようとしながら話す、なにかいっしょに経験したあとで話しあう、いっしょになにかしようとしながら話す、なにかをいっしょに経験したあとで話し合う、こういう話しあいが大切です。
たとえば、テレビを見てから、「あの怪物、だらしがなかったなあ」童話を読んでから、「どうして小さいキツネが勝ったんでしょう?」「こんなとき、おとうさんだったら、こうやるのになあ」絵本を前にして、「ほんとうはこの花とどっちが大きい?」「なぜ反対なの?」山歩きをおえたあと、「あのときはほんとにのびそうだった。きょうじゅうに家へ帰れないかと思った。あんたのがんばりもなかなかすごいんだなあ」など。
へたに教訓めかず、子どもと友だちのような気持ちで話すこと。子どものことばにおしかぶせないで、対等に共感したり、反論したりすること。それにユーモアのあることも大事です。
そういう話しあいは、子どもの自主性(社会性)と思考力を育て、親子間の理解と交流を深めます。年末や正月の休みなどは、ふだんにはできない生活経験をともにしながら、今日とかくありがちな親子間の断絶をせばめるのに貴重な時期です。子どもの年齢に応じた家族会議なども、子どもたちの発言力が大きいとなかなかおもしろいようです。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p38-39)
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「友だち仲間の連帯責任から子どもの自主性をのばす」
「話しあいは、子どもの自主性(社会性)と思考力を育て、親子間の理解と交流を深め」ると。