学習通信050830
◎より大きな自由さ=c…
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このように見てくると、胴体や足に問題があらわれてくるという時期は、進化の過程にもどして考えると、直立二足歩行を獲得し、人間らしいからだの特徴があらわれた頃にできあがったところが問題になっているのだということがわかる。
私は、現在おこっている子どものからだのおかしさの問題は、種の持続≠ニいうところまでいくという問題とは思えない。しかし、人間らしいからだの特徴のところに問題がおこりはじめているという意味で、子どものからだにあらわれた人間的危機という表現をすることがある。問題の進行の程度は、まだそれほどではないと考えられるが、おかしさが予感されて二〇年近くにもなっており、それは敏感な人の予感という段階から、その気になれば誰の目にもわかる段階にはいったという意味で、今、からだの危機を警告しているのである。
ここで危機≠ニいう言葉をつかったのは、ひとつの転換期というような意味をこめている。ひとつは人間らしいからだ≠ニいうことが問われているという意味で、またひとつにはこのまま放置するとますます多面的に退歩する≠ニいう傾向がはっきりとしてきたという意味においてである。
最近は、まばたきがおそくなって、目のケガ、が多くなってきている。まばたき反射というものは、生理学の教科書によれば、無条件反射で、生まれつきもっている反射であり、おそくなりようのない反射だということになっていた。このような一種の防御反射がおそくなってきているという傾向は、いったいこの図のどんなところに位置づけたらよいことなのであろうか?
私のこの仮説は、これからおこる問題にたいしてどこまで通用するかわからないが、ヒトの進化の過程に遠く想いをはせて、子どもの退歩の程度と方向を考え、もうこれ以上は退歩をすすませないという気持、がおこる契機になれば、それだけでも一定の役割をはたすことになるだろう。
さて、この節の問いにたいする答えは、進行方向は、人間が退歩していく方向であり、現在の到達点は、人間らしさの特徴というところが問題になっている地点であるということになるだろう。
これは、なんとさびしい、かなしい答えではないか。この答えがあてはまるのはこのまま放っておけば≠ニいう条件の時である。おそらく賢明である人間は、このような方向に人間を退歩させることはないだろう。なぜなら、人間は、自由を求めて発展してきた動物だからである。自由を求めた結果、楽で便利な文明生活をつくりだすことができたのであり、それは発展である。ところが、このような楽な生活にどっぷりつかっているために人間のからだの自由さが逆に少なくなっているのである。
しかし、自由を求めてきた人間は、からだについての自由さを例外にするはずはないだろう。必ずや、からだの形成にとって必要な不自由さ≠のこすことによって、より大きな自由さ≠形成するように、文明生活を意識的に、自覚的に支配するようになるだろう。それが人間の人間らしさだからである。
私は、楽天的に、自由を求める人間を讃え、豊かな未来を信ずるが、さきに述べたように、現在の子どもにあらわれているからだの変化は、その方向に逆行しているという現実と問題点だけははっきりと認識しておかねばならないだろう。
少しくどいようだが、もう少し、人間、が求めてきたからだの自由さについてここでふれておきたい。
人間は、からだのどの部分も、ひとつの働きしかできないようには固定化せず、自由さをのこしてきたと見ることができる。足は、からだを支持する器官として、いくらか自由さを犠牲にしてきたが、そのかわりに腕と手指の自由さを飛躍的に拡大した。道具や火の発明によって、大脳はいっそう発達し、言葉の獲得によってからだの運動もいっそう巧みになり、意思どおりからだを動かすことができるようになった。火や衣服の利用によって、地球上のどんなところでも生活する自由を拡大したのである。
ところが、現在見られるような大脳の興奮水準の低下は、活動の自由を拡大しようとする意欲すらおこさなくするかもしれない。胴体を中心とした筋肉の弱化は、大きな力を出してスポーツをしたり、労働したりする自由をせばめることであろう。
そんなことをしないということも自由であるが、やりたくなったときにやれる自由さ、やらなくてはならない時にできる自由さをできるだけ拡大しておくことは、自由を求めてきた人間の真の姿ではないだろうか。
今の子どものからだのおかしさは、私たちに、人間のからだ、人間らしいからだというものをどのように見るのか、またこれからの社会というものをどのようなものとして予想し、そこで必要なからだをどう考え、そのために今どうしておかなくてはならないのかという、非常にむずかしい問題を提起しているように思うのである。
(正木建雄著「こどもの体力」国民文庫 p92-95)
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木のぼりをする猿の群れから人間社会が生まれてくるまでには、数十万年──それは地球の歴史のなかでは人間の生涯における一秒以上のものではない──が経過したことは確かである。
しかしついに人間の社会が誕生した。そして猿の群れと人間社会とを分かつきわだった区別としてわれわれが再度そこに見いだすものはなんであろうか? 労働である。猿の群れは、地理的状況や隣りの群れの抵抗によって自分たちに割り当てられた食糧採築域を喰いつくすことで満足していた。新しい食糧採築域を得るために、群れは移住や闘争をくわだてた。
しかし群れは、その食糧採集域を自分たちの排泄物で無意識的に施肥するほかには、自然のままのその食糧採集域が彼らに提供してくれる以上のものをそこから引きだす能力はなかった。ありとあらゆる食稲採集域が占拠されてしまえば、もはや猿の個体数の増加は起こりえず、この動物の数は同じ水準を維持するのがせいぜいであった。
ところがどんな動物にあっても食糧の浪費はすべて高い程度で起こっており、またそれとならんで次代の食糧をその芽のうちに滅ぼしてしまうということが起こっている。狼は猟師と違って、翌年には子どもを生んでくれるはずの雌鹿を見のがすようなことはしない。ギリシアの山羊は、若い潅木が成長しきらないうちに喰いつくすことで、この国の山々をすっかり丸坊主にしてしまった。
動物のこのような「とりつくし」は種がしだいに進化してゆくうえでは重要な役割を演じている。というのは、それはその動物がいままで食べなれた食物以外の食物に適応することを余儀なくさせ、その動物の血液はそれによってこれまでとは違った化学的組成をもつようになり、体質全体がしだいに別のものに変わり、その反面ではいったん固定してしまった種は死滅することになるからである。
われわれの祖先が人間化するうえでこのようなとりつくしが大きく寄与したことは疑いない。知能と適応能力とにおいて他のすべての猿の種属をはるかに抜いているある種属の猿にあっては、こうしたやり方は当然次のような結果にまでゆきつくはずであった。
それは、食用植物の種類がますますふえ、食用植物のうち食用になる部分がますます喰べつくされていったということであり、要するに食物がますます多様となり、またそれとともに体内に摂取される物質、つまり猿が人間化するための化学的諸条件がますます多様になっていったということである。しかしこうしたいっさいもまだ本来の労働ではなかった。
労働は道具の製作から始まる。それではわれわれがぶつかる最古の道具とはいったいなんであろうか? つまりこれまでに発見されている有史以前の人間の遺物や、最古の歴史時代の民族と最も原始的な今日の未開民族との生活様式などから判断して、いちばん古い道具とはなんであろうか? それは狩猟と漁撈の道具であり、前者は同時に武器でもある。
ところが狩猟と漁撈とはたんなる植物食から植物食と肉食との併用への移行を前提とするものであって、われわれはここでまたもや人問化するための本質的な一歩がすすめられているのを見いだす。
肉食は、身体が自己の物質代謝のために必要とする最も基本的な物質をほとんどすぐにでも使えるような状態でふくんでいた。それは消化に要する時間を短縮しただけでなく、植物の生活の諸過程に相当する体内のその他の植物性過程に要する時間をも短縮し、それによって本来の動物的な(動物らしい)生活の実を示すうえでのより多くの時間とより多くの材料、それにこれまで以上の欲望をあたえた。
そして生成途上の人間は、植物から遠ざかれば遠ざかるほど、ますます動物の域からも脱していった。ちょうど肉とならんで植物食にも慣れたことが野生の猫や犬を人間の召使いにしたように、植物食とならんで肉食の習慣をつけたことが生成途上の人間に休力と自立性とをあたえるのに本質的に寄与した。
しかしいちばん本質的なことは、肉食が脳に及ぼす作用だった。脳へはいまやその栄養と発育とに必要な物質が以前よりずっと豊富に流れこんできて、その結果脳は世代から世代へとますます急速かつ完全に発達してゆくことができた。
菜食主義者諸兄には失礼ながら、肉食なしには人間はできあがらなかったのであって、たとえわれわれの知っているどんな民族にあっても肉食はいつか一度は食人の風習を生んだ(ベルリン人の祖先であるヴェレタブ人またはヴィルツ人は一〇世紀になってもまだ自分たちの両親を食べていた)としても、そのことは今日のわれわれには別にどうということはないのである。
肉食から、決定的な意義をもつ二つの新しい進歩が生まれた。火を使用できるようにしたことと、動物を飼い馴らしたこととである。前者は、口にいれる食物をあらかじめいわば半分消化しておくことによって、消化過程をなおいっそう短縮するものであった。
後者は、狩猟のほかに、新しいもっと確実な肉の仕入先を開拓したということで肉食をいっそう豊かなものとし、さらにその上に乳や乳製品という形で、成分の点では肉とすくなくとも同じくらいの価値をもつ栄養物を新たに供給するものだった。
こうしてこの両者は直接、人間にとっての新しい解放手段になった。両者の間接的な影響については、たとえそうした影響が人間と社会との発展にとってきわめて重要なものだったにしても、ここでいちいち立ちいって論ずることは本題からあまりはなれすぎることになるだろう。
(エンゲルス著「猿が人間化するにあたっての労働の役割」M・E八巻選集D 大月書店 p300-302)
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◎「植物食とならんで肉食の習慣をつけたことが生成途上の人間に休力と自立性とをあたえるのに本質的に寄与した」と。